式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

75 室町文化(2) 世阿弥

演劇論

大仰な身振りで、一丁先まで聞こえる様に泣き喚き、如何にも悲劇の真っ只中にあると言わんばかりの、そんな大根役者は願い下げです。また、激情のままに「聞いてくれ!俺の気持ちを」と騒音を撒き散らしながら歌う今時の歌手も、婆は苦手です。

彼等は自分の感情に溺れています。溺れたままの様子を見せれば、観る人はその感動をそっくりそのまま受け取ってくれると勘違いしているようです。演劇や音楽はそういうものではありません。却って、気分が離れて行くものです。勝手に自分自身に溺れていればいいと。

喜劇の場合、華やかな演出や過剰な身振りは祝祭的な彩を添える手段ですが、悲劇性を帯びたものは、出来る限り抑制して演じた方が、より深い悲しみを表出できます。

『秘する花を知ること。秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず、となり』

世阿弥の著した『風姿花伝』の言葉です。「秘する」を「隠す」と捉え、隠したものが現れた時の驚きや喜びが「花」である、と解釈する向きがあります。婆は「秘する」は抑制する事だと思います。抑制した感情と抑制した動きが、観客の心の中に真の花を浮かび上がらせるのだと思います。それでなくて、どうして最も感情が現れ易い顔を、面で覆うのでしょう。この世の者ではない「霊」の化身を面で現わすと共に、面は剥き出しの人間の生々しさを押さえる為のものではないかと、思うのですが・・・

能面をよくよく見ると、鼻を中心線にして右側に憂いがあり、左側が晴れやかに見えます。左右非対称に彫られている様に、婆には見えます。気のせいかも知れません。が、それも能の幽玄さを誘う工夫ではないかと、思えてきます。

風姿花伝』は世阿弥が、父・観阿弥の教えをまとめ、自身の考えも述べながら、子孫の為に芸の神髄を伝えようとしたものです。

 

阿弥衆(あみしゅう)・同朋衆(どうぼうしゅう)

世阿弥の「阿弥」は阿弥陀仏の略で、一遍上人の興した時宗の僧侶を意味しています。
「信不信を選ばず、浄不浄を選ばす」南無阿弥陀仏の念仏を唱えれば誰でも極楽往生できると説く一遍上人の教えは、多くの信者を集めました。何時いかなる時もこの一瞬を常に臨終の時と心得て念仏する「臨命終時衆」の時宗は、一遍が言う通り「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなる嬉しさなのだ」と僧も尼僧も踊り狂い、練り歩き、遊行する教団でした。

時宗教団の者は室町幕府から通行自由の許可を受けていましたので、関所などを自由に往来出来ました。また、南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも教団に入れました。有髪でも剃髪でも「阿弥」を名乗れました。通行自由の便から、旅芸人など田楽や猿楽などに携わる人々は「阿弥」を名乗る人が多くいます。芸能ばかりでなく、茶の湯、作庭家、連歌師、鑑定家、能面師、華道家などの中でも、結構「○阿弥」と言っています。

阿弥衆は、時には戦陣に加わる事もありました。戦地慰問の様なものでしょうか。兵士達を慰め、夜伽などにも応じた彼等は、僧侶の側面も持っていましたので、戦死者の弔いなどもしました。足利幕府の執事の細川頼之は、6人の僧形の阿弥衆を将軍に薦め、将軍の身の回りの世話や話し相手、夜伽などをさせました。阿弥衆を同朋衆とも言うのは、将軍のお傍に仕える美少年達の童坊衆から来ていると言われています。

足利義政の代には、能阿弥、芸阿弥、相阿弥などが出て、唐物・唐絵などの目利きや書院飾りの様式を定めたり、東山御物の制定にも深く関わりました。

 

世阿弥(ぜあみ)

世阿弥の本名は観世三郎元清と言います。世阿弥の生没年ははっきりしていません。多分1363年頃に生まれたと言われています。世阿弥の父・観阿弥は大和猿楽四座の内の結崎座(ゆうざきざ)に所属する猿楽師でした。

世阿弥の幼名は鬼夜叉です。彼は、幼い時から父の英才教育を受けていましたが、やがて、父の観阿弥は大和から京の都に進出し、京都で興行すると大層評判になりました。

熊野神社で開いた猿楽能を将軍・足利義満が見物した時、少年鬼夜叉の類稀な美しさに惚れ、以来観阿弥世阿弥共々、義満の庇護を受ける様になりました。また、時の関白・二条良基からは「藤若」の名を賜りました。

足利義満の寵童になった藤若。義満は夜伽に片時も藤若を手放さず、公式の席にも傍らに侍らせて、公家達の批判を浴びています。芸能を売る阿弥衆は当時、川原乞食として低い地位に見られていました。その者が高貴の席に座るなど以ての外でした。眉をひそめる公家が居る一方で、義満に忖度し、藤若を贔屓にする公家も大勢いました。

世阿弥は上流階級の人達に触れ、彼等の教養に学んでいきます。特に歌人にして連歌の大成者・二条良基に学んだ事が大きかったようです。連歌から言葉の選び方、リズムなどを謡曲に生かし、後世に残る曲を沢山作りました。また、自身の容色や評判に奢る事無く研鑽を積み重ね、その頃一世を風靡していた近江猿楽の犬王道阿弥の優れた所を取り入れたりして、自身の改革を行いました。道阿弥の舞の冷え冷えした幽玄さに対して、観世の猿楽は、物真似が多く面白さを狙う風で、幽玄さに些か欠けている所がありました。それを、物語の演劇性や音楽、舞の要素などを三位一体にして典雅な幽玄さを追求して行ったのです。

父・観阿弥没後、二十歳そこそこの世阿弥は一座を背負い、観世大夫となりました。美少年「藤若」も次第に容色が衰えて行き、他の流派の台頭が目立って来ます。1401年、後小松天皇が義満別邸・北山第に行幸された時に演じられた能も、道阿弥が務めました。世阿弥は排除されてしまったのです。

世阿弥は他者の成功を見て世が求めるものを知り、面白能から夢幻能へと舵を切ります。

此の北山第行幸の直ぐ後、足利義満が病死してしまいます。義満の跡を継いだ義持は、父義満との不仲をそのまま行動に表し、父の遺した建物を破却し、趣味も一掃してしまいます。

不断の努力により世阿弥はその名声を保ったものの、義持は田楽の増阿弥を重んじる様になります。

 

後継者問題

世阿弥にはなかなか子が授からず、弟の子を養子にしました。この甥を観世三郎元重、阿弥名は音阿弥(おんあみorおんなみ)と申します。世阿弥は甥を後継者として育てていました。

ところが、間も無く世阿弥に実子が生まれました。この実子が観世元雅です。

世阿弥は迷った挙句、後継者に嫡男の元雅を指名し、観世大夫の座を実子に譲ります。

一方後継者と目されていた甥の音阿弥は、観世太夫の座を従兄弟の元雅に奪われてしまい、独立志向になります。丁度この頃、世阿弥は義満という最大の庇護者を失い、義持に疎んぜられていた時期でした。

音阿弥は青蓮院(しょうれんいん)門跡・義円の寵愛を受けていました。この義円が還俗して足利6代将軍・義教(よしのり)になりましたので、音阿弥は飛ぶ鳥を落とす勢いになります。

足利義教世阿弥と元雅を冷遇し、圧力を掛けます。世阿弥と元雅が仙洞御所で能を演じようとしも妨害されて中止に追い込まれます。世阿弥醍醐寺の楽頭職を追われ、その代りその職に音阿弥が就任します。様々な嫌がらせを受け、元雅はその活躍の場を大和に移します。

元雅は、大和天河大弁財天社で猿楽能を舞います。元雅はこの後、伊勢安濃津(現津市)で殺されてしまいます。原因や理由は分かっていません。世阿弥は元雅の事を「子ながらも類なき達人」と絶賛し「道の秘伝・奥義ことごとく記しつたへつる」と言っており、彼の突然の死は世阿弥を絶望の淵に落としました。この時の悲しみが能「阿漕(あこぎ)」に投影されているらしいと言う話があります。

息子・元雅の突然の死の2年後、世阿弥佐渡流罪になります。流罪の理由は分かりません。その後、世阿弥がどうなったのか、詳しい事は分かっていません。

世阿弥父子が居なくなった後、音阿弥は足利義教の絶大な庇護を受けて猿楽能の発展と隆盛を牽引して行きます。音阿弥は「希代の名人にして当道無双」と評され70年近い生涯を第一人者として活躍します。彼は世阿弥から『風姿花伝』を相伝されています。

彼は観世大夫を名乗り、観世流の三世となりました。

音阿弥は「阿弥」と名乗っていますが、臨済宗に帰依していました。音阿弥の墓は酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺にあります。

もう一人、世阿弥には義理の息子がおります。娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)です。金春禅竹武田氏信と言い、金春流始祖です。世阿弥は禅竹の将来を嘱望しておりました。

彼は世阿弥から「六義(りくぎ)」と「拾玉得花(しゅうぎょくとっか)」の理論書を受けています。世阿弥佐渡に流されていた時には、禅竹は京都に残された世阿弥の妻・寿椿(じゅちん)を扶養しています。そして、佐渡に居る世阿弥にも送金していたそうです。活躍は地味ですが、理論家で、世阿弥能楽の書を更に深めております。また、能の作者として10数曲を遺しております。

 

余談  泣き手の添え手

式正織部流では「泣き手の添え手」或いは単に「添え手」と言う所作があります。

お能の「泣き手」の仕草をそのまま茶の湯に取り入れたもので、お湯を茶碗に注ぐ時や棗や茶入を扱う時は、必ず片手を泣き手の形にして添えます。

 

余談  男色(なんしょく)、衆道(しゅどう) 

男色とか衆道とかをここで取り上げる事に衝撃を持って受け止められる方がいらっしゃるかも知れません。実は、昔の日本ではそれほど秘め事とは思われておらず、むしろ、おおらかで開けっ広げの世界でした。

有名なのは、織田信長森蘭丸の関係です。信長は他にも相手がいて、前田利家などもその内の一人だったと言われています。徳川家光衆道の人でした。衆道と言うのは男色の事ですが、特に武士の間で行われる事を指します。実は当古田家(古田織部の家と区別する為に、当古田家と言わせて頂きます)の中興の祖も、衆道の人だったようです。なかなか子供が生まれないので家臣が心配した、という記録があります。3代目も衆道に溺れたとか。姫には恵まれましたが、男子に恵まれずお家お取り潰しになってしまいました。身内から養子をとった4代目は、家光の小姓になったと伝わっております。

新井白石の著した「藩翰譜」に当古田家が取り上げられており、きつい批判を戴いております。

上は雲上人から下々に至る迄、そういう話は数えるに暇がありません。特に男ばかりの世界、例えば僧侶の世界などでは常識的に行われております。僧侶と稚児の男色関係について、初夜の灌頂(かんじょう)の儀式なども公然と執り行われた程です。

武将と小姓の男色関係は家臣としての当たり前の忠義だけでは無く、肉体関係を持つ事に依ってより濃密な絆で結ばれ、絶対裏切らない関係、主君の為に死を厭わない関係にまで深められる利点が有ります。

紀元前385年、ギリシャの哲学者プラトンが『饗宴』と言う書を著しました。

『饗宴』は愛について話した対話録です。出席者は、ソクラテス、アガトン、アリストファネス・・・と当時の錚々たる哲学者、知識人達です。ディオティマ(女性哲学者にして巫女)も話題の中に登場します。そこで論じられたのは、プラトニックラブ、男女の愛、男の同性愛、少年愛などについてです。

『饗宴』では様々な愛の形を取り上げて議論が進みます。キリスト教などの道徳がヨーロッパを覆う前に、この様に堂々と議論した時代があった事を申し添えます。因みに饗宴はシンポシオンと言われ、今日のシンポジュウムに当たります。

(『饗宴』翻訳:久保勉、岩波文庫(青帯))

 

お知らせ 年末年始について

いつもご愛読ありがとうございます。

年末年始の間、しばらくお休みさせて頂きます。

コロナ禍の折り、くれぐれもご自愛くださいまして、

どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

皆様のご健勝とご多幸を祈り申し上げております。