式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

76 室町文化(3) 婆娑羅(バサラ)

昔々、天竺の国にたくさんの神々がいらっしゃいました。

或る時、神々の王・インドラが、凶暴で邪悪な蛇神を斃そうと ブラフマー(創造神)に相談しました。すると、ブラフマーは、ダディーチャという光り輝く聖人の骨で棍棒を作り、それで打ち砕けば良いと教えてくれました。インドラはその聖人の下に行って訳を話し、あなたの骨が欲しいのですがと申し出ると、聖人は快く引き受けて息を引き取りました。インドラは聖人の骨を工芸の神に託してヴァジュラの杵(金剛杵(こんごうしょ))を作り、それで邪悪な蛇を撃ち殺してしまいました。

この世のあらゆる物の中で最高に硬く、光り輝くというヴァジュラ(婆娑羅(ばさら))は、金剛、つまりダイヤモンドの事です。インドラが手にしている金剛杵は雷撃を発し、あらゆるものを打ち砕きます。仏教ではインドラは帝釈天ブラフマー梵天と置き換えられています。

南北朝時代になると、既成の概念や制度を打ち壊したり、破天荒な振る舞いや身形(みなり)をする者達をバサラと呼ぶようになりました。

 

佐々木道誉(ささきどうよ)

南北朝時代から室町時代にバサラ大名と呼ばれる大名が現れました。その中でも代表的なバサラ大名は、何と言っても佐々木道誉でしょう。道誉は茶道、香道連歌、立花などの達人であり、近江猿楽や芸能の保護を行なった一流の文化人で、しかも室町幕府の陰の立役者でした。

逸話その一 妙法院焼き打ち事件

1340年10月6日佐々木道誉門跡寺院妙法院を焼き打ちにしてしまいます。

事の次第はこうです。妙法院に見事な紅葉を目にした道誉、活花に丁度良いと思い、郎党に命じて紅葉の枝を折らせました。ところが郎党は僧兵に見つかり散々に殴られてしまいます。それを怒った道誉、兵を率いて妙法院を襲撃して寺の伽藍を焼き払ってしまいます。妙法院天台宗比叡山の傘下。宗門が朝廷や幕府に道誉の厳罰を求めます。

幕府は、事態を穏便に済ませる為、道誉を上総の地に流刑にします。さて、道誉は上総の守護職。道誉にとって上総流刑は自宅に帰る様なものです。彼は比叡山の神獣・猿の毛皮を腰に当て、着飾った若衆を数百人も従えて配流地へ向かったとか。宿場に着く度に遊女を総揚げし、そのド派手さに誰もがびっくりしたそうです。

逸話その二 花見争い

道誉は、足利政権実力者・斯波高経(しばたかつね)と花見争いをしました。

発端は佐々木道誉が五条橋の建設を担ったのですが、工事が遅れたので斯波高経が代わりに完成させてしまったのです。道誉の面目丸潰れ。意趣返しに道誉は、将軍邸で高経が仕切って行う花見の宴に出席の返事を出して置きながら、同日、別の場所で花見の会を催します。勿論、将軍邸の花見はドタキャン。道誉は洛中洛外の芸能人を集め、茶会を開き、高価な香木を惜し気もなく炷(た)き、桜の樹の根回りに花瓶に見立てた石を置き、見事な立花を演出。堂上人や有名人をわんさか招いて大賑わいの花見をしたそうです。道誉は高経から見事に一本取りました。その後、道誉は斯波高経をそのポストから追い落としてしまいます。

逸話その三 楠木正儀(くすのきまさのり)とのお持て成し合戦

1361年南北朝の戦いが激しさを増している時、道誉は、南朝方に攻められて京都を退却しました。退却に際して道誉は、自分の館を占領するのは名のある武将に違いないと考え、邸内を立派に整え、花を飾り、酒など宴の用意をしました。そして「敵将が来たらこの酒で持て成す様に」と留守の者に命じました。

その屋敷に入ったのが南朝の大将・楠木正儀でした。正儀は道誉の振る舞いに感じ入って略奪と焼き打ちを禁じ、道誉の持て成しの返礼に、酒と肴を用意し、見事な鎧と太刀一振りを置いて、去って行ったと伝わっています。

 

高師直(こうのもろなお)

高師直の名前は正式には高階師直(たかしなもろなお)と言います。

彼は武名の誉れ高い武将にして優秀な執政官、機を見るに敏であり、急進的な改革者です。彼は、室町幕府を合計15年間に渡って支え、法を整備した名執事です。

逸話その一 好色漢師直

師直は好色漢で、二条兼基の娘を盗み出して子を孕ませました。その子が高師夏です。

師夏は観応の擾乱の時、父・師直と共に殺害されてしまいます。

その他に師直には幾つも浮名が有りますが、塩谷高貞の妻に横恋慕し、吉田兼好(徒然草作者)に恋文を書かせて送った所、拒絶されたとか。師直はこれを恨み、塩谷高貞を謀反人に仕立て上げ、塩谷一族を滅亡に追い込みました。この話は忠臣蔵の話に仮託されています。

逸話その二 神仏無視

1338年7月5日深夜、師直は、南朝方の立て籠もった石清水八幡宮に対して一か月の攻防戦をした後、全堂宇に火を放ち、焼亡させてしまいます。この八幡宮が、清和源氏氏神の八幡様を祀っている聖域で有る事を思えば、あり得ない暴挙です。彼はそれに頓着せず、勝つ為なら何でもしました。

1348年1月26日南朝の吉野にある後醍醐天皇の行宮(あんぐう)を、師直は焼き打ちします。その際、金峰山寺蔵王堂にも火を掛け全焼させてしまいます。

師直が定めた法で「分捕切捨(ぶんどりきりすて)の法」にも合理性が現れています。

それは敵の首を取ったら誰かの証人が居て証明してくれれば、首をその場に討ち捨てても良い、という制度です。これより以前は、取った首を戦奉行に見せて戦功を記録してもらう迄持ち歩いていました。それは全くのお荷物です。肩に背負うか腰にぶら下げるか手に持つか、郎党に持たせるか・・・これでは満足に戦う事など出来ません。これを改善したので戦の効率化が図られました。

高師直は、足利幕府の基礎を築いた功労者ですが、敵も多く、結局観応の擾乱の時に一族皆殺しにされてしまいました。(68南北朝(2) 観応の擾乱 参照)

 

土岐頼遠(ときよりとお)

土岐頼遠北朝方で戦った歴戦の武将で、幕府軍勝利に大いに貢献しました。特に、青野原(関ケ原近く)で北畠顕家と戦って相手にかなりの痛手を与え、戦局の流れを幕府軍有利に変えた事は、特筆されるべきです。

1342年9月6日、頼遠が笠懸に興じた帰り道、光厳上皇の牛車に出会いました。普通ならば君臣の礼を取り、下馬して畏まらなければならないのですが、酔った勢いで彼はそれをしませんでした。上皇の供の者が「無礼者、院の御車であるぞ」と非礼を糺すと、「院と言うたか、犬と言うたか? 犬ならば射落してやろう!」と配下と共に牛車を取り囲み、散々に矢を射かけました。光厳上皇室町幕府成立の寄る辺となった大恩ある上皇様です。幕府は烈火の如く怒り、土岐頼遠を捕縛し、六条河原で斬首してしまいました。

なお幕府は、頼遠一人の罪に留め、土岐家の存続は認めました。

 

余談  佐々木道誉

佐々木道誉の「道誉」は法名です。出家の前は佐々木高氏と名乗っていました。佐々木家は近江に勢力を持ち、高氏は佐々木家の分家の京極家に生まれました。初め京極高氏でしたが、後に、佐々木家に養子に入り、佐々木高氏と名乗る様になりました。

 

余談  バサラの巨魁

バサラ大名の代表的な人物を紹介しましたが、彼等よりもっと巨大なバサラが居ます。巨大過ぎて目に入らない人物、それは後醍醐天皇その人です。と、婆は思います。

武家社会を打ち砕こうとし、体制の改革を志しました。それが旧来に戻す改革であったとしても、日本中を戦乱に巻き込んだ人。諸芸に通じ最高の文化人にして最高の権力者。彼はインドラの金剛杵を握って雷撃を放った人物です。

後醍醐天皇肖像画をよく見ると、右手に真言宗の法具・金剛杵を握り、そのお姿は唐の皇帝の服、冠の上に冠を重ね、空海の袈裟を掛け、まさにバサラのファッション・コーディネートそのものです。

 

 ご挨拶

謹んで新年のお慶びを申し上げます。

昨年中はご愛読下さいましてありがとうございました。

今年も牛歩の歩みで参りたいと思いますので

よろしくお願い申し上げます。