式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

78 室町文化(5) 金閣寺

金閣寺

京都の北山にある金閣寺は、元はと言えば足利義満が建てた別荘でしたが、彼の死後、相国寺(しょうこくじ)に寄贈され、同寺の塔頭(たっちゅう)の一つとなりました。相国寺の境内から離れて、飛び地の様な土地に建っているお寺で、山号は北山(ほくざん)、寺名は鹿苑寺(ろくおんじ)と言います。鹿苑寺の敷地内に建っている金色の舎利殿が余りにも有名なので、通称金閣寺と呼んでいます。

 

金閣は金ピカではなかった?

足利義満が建立したこの舎利殿は三層の楼閣です。

今、婆達が目にする金閣は、二層目、三層目とも眩いばかりの金箔に覆われていますが、洛中洛外図屏風の上杉本を良く見てみると、この屏風が描かれた当時の金閣は、三層目の柱と扉と垂木の端だけが金箔で荘厳されている様に見えます。

壁は一層目、二層目、三層目とも土の白壁。

柱は一層目と二層目が木地のまま。

高欄は二層目と三層目が朱塗りで、三層目の高欄には金色の金具が付いています。

二層目と三層目には花頭窓があり、花頭窓の縁は黒っぽいので黒漆塗りかと?

婆の目はかなり衰えていますので、材質の色別は確かではありません。ただ、清水寺の舞台の床板の色や、民家の柱の色などと比較して、たぶんそうでは無いかなぁ、と見た訳です。創建当時の様子は、今とは大分印象が違う様です。

(上杉本 洛中洛外図 nhkアーカイブスを参考にしました。)

 

内部の設え

往時の金閣は、亀泉集証の書いた『蔭涼軒日録』によると、創建当初、二層目に観音像を安置し、三層目には阿弥陀如来を祀り、その周りに25菩薩像が安置されいたとか・・・あの世からのお迎えは、阿弥陀如来と25菩薩が雲に乗って山越えして来ると信じられていますので、義満は、北山を越えて阿弥陀様がお迎えに来てくれる事を願っていたのかも知れません。

「72 室町時代(1) 義詮と義満」の項の「天皇になりたかった?」で、金閣は義満の野心を表している、と推察する説を載せました。来迎を望んだのか野心なのか、どちらが本当なのか、婆には分かりません。

義満の孫の義政が度々鹿苑寺を参詣していたそうですが、その時には二層に安置されていた筈の当初の観音像が別の観音像に置き換わっており、阿弥陀如来と25菩薩は失われてしまっていた、と『蔭涼軒日録』に書いてあるそうです。

 

放火事件

1950年(昭和25年)7月2日、放火により舎利殿は焼失してしまいました。その後再建し、現在は一層目に宝冠釈迦如来坐像、足利義満座像を安置、二層目に観音菩薩像と四天王像、三層目に舎利が祀られています。

金閣は江戸時代と明治時代、昭和の放火事件以後一度と、三度修理されています。現在の舎利殿は、創建当時の材木では無くなっていますが、不幸中の幸いと申しましょうか、明治39年に解体修理が行われた際に図面が作成されていましたので、明治以前の姿に復元する事が出来ました。

 

鎌倉幕府室町幕府の違い

同じ武家政権でも、鎌倉幕府室町幕府とでは大きな違いが有ります。幕府の姿勢の違いが、鎌倉と室町の文化の差を生んでいます。

鎌倉幕府は、京都から出来るだけ距離を取り、朝廷の権謀術数から離れようとしました。

源義経が鎌倉の意向を伺わずして朝廷から官位を授かったという理由で、謀反人と断じ、討伐しています。それも、京都から離れて武家の独立を保とうとする現れでした。鎌倉幕府は武一辺倒で、芸術や美術品の価値を知りませんでした。

室町幕府は、京都の文化に惹かれ、なお且つ京都で政務を執る利便性に着目していました。

足利政権をそう仕向けたのは南北朝の争乱です。詰り、南朝北朝が京都制圧を目指して何度も戦っている内に、京都を制する者が天下を取る、という認識が出来上がって行ったのです。鎌倉に政庁を置いていては天下を睨む事は出来ません。鎌倉は関東と関東以北の押さえの地方行政庁に過ぎないと、気付いたのです。そして何よりも重要なのは、足利政権は北朝を寄る辺として成立したと言う事です。

 

美術品の価値の発見

足利尊氏は京都に、住居と政庁を兼ねた将軍の御所を構えました。朝廷との交流が密になり、武士達は公家文化に激しく晒されます。

京都と言う土地が持つ文化的雰囲気が、武士達を少しずつ雅の気風に染めて行きます。坂東の荒武者、田舎者、山猿などと京雀に馬鹿にされていましたが、それを財力で威圧する様な派手なバサラが現れ、開いた口が塞がらない内に彼等は京を席捲して行きます。闘茶や香寄合など、遊技にのめり込む者が多くなります。動機がどうであれ、懸物などの値踏みから美術品に金銭的価値がある事を認識し始めます。大陸から輸入した唐物が持て囃され、水墨画が高値で取引される様になります。

足利尊氏は大陸との貿易をしようと明に求めますが、国王とは取引をするが臣下とは取引をしないと言う明国の大前提に阻まれて思う様に出来ません。天皇の臣下が駄目ならば、天皇の臣下を辞めれば良い! つまり、俗世にあるから臣下になる、俗世を辞めて僧侶になれば天皇の臣下では無くなる・・・と考え、尊氏は出家してしまいます。

 

将軍御所の移り変わり

足利尊氏は、初め京都にあった弟・直義の屋敷を住所兼政庁にしていました。

二代将軍・義詮は三条坊門に屋敷を構え、室町家から「花亭」を買って別邸としていました。

三代将軍・義満は「花亭」に隣接する今出川家の「菊亭」も買い取り、大々的に将軍御所の造営を行いました。これを「室町殿」又は「室町第」と呼びました。室町幕府の名前はここから来ています。またこの室町第は花木が沢山あったので「花の御所」とも呼ばれていました。

花の御所は現在の京都御所の北西の隅、今出川交差点の斜め前にありました。

 

義満出家と鹿苑寺

明徳3年(1392年)10月27日、南朝北朝明徳の和約を結び、合一しました。これを成し遂げた義満はこれを丁度良い区切りとして隠居し、出家します。前に書きました様に、この出家は政策上の出家です。出家を機に将軍職を9歳の義持に譲りましたが、新将軍が幼い事もあって実権は義満が握っていました。

義満は隠居所を建てる為、河内の国と交換で、北山にある西園寺家の寺を買い取ります。

そのころ、西園寺家中先代の乱で謀反人となり、その影響で没落していました。お寺も荒れ果てていました。(参考:62建武の新政(3) 中先代の乱)

そのお寺を手に入れた義満は、将軍の居る花の御所にも負けない陣容に整備しました。義満の居室と表舞台を併せた北御所、義満側室の南御所、崇賢門院の御所の三つを敷地内に建て、会所、舎利殿護摩堂等々幾つもの堂宇を造立しました。また、庭は夢想国師が策定した西芳寺に倣って作りました。この様な立派な「山荘」ですので、これを北山殿とか北山第と呼びます。

 

北山第の破却

 義満は政務を北山第で行いました。その義満が1408年に薨去し、22歳になった義持が晴れて将軍らしく実権を振るう事が出来るようになりました。彼は、父の側室が亡くなると、父の遺言に従って北山第を相国寺に寄贈します。山荘は北山鹿苑寺と名を変え、禅宗の寺として再出発をします。その時義持は、舎利殿を残して殆どの建物を移築したり破却したりして壊してしまいます。

義満と義持の間には長い間の確執があり、親子関係は余り良くなかったのです。

 

余談  日本国王・良懐(りょうかい)

南北朝の争乱時、後醍醐天皇は勢力拡大の為、親王達をあちこちに派遣しました。その内の一人・懐良(かねよし)親王は、征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)として九州に赴き、九州を南朝方に染め上げて行きます。彼は熊本を足掛かりに、博多や太宰府に拠点を築きました。親王日本国王・良懐と名乗り、明との貿易を始めます。足利義満が明との貿易が出来なかったのも、懐良親王の存在があるからでした。義満は懐良親王を取り除こうと、今川貞世を派遣して九州探題を強化。懐良親王太宰府を追われ、筑後の矢部(現八女市)で病没します。

義満が懐良親王薨去の後、日本国王の名前で貿易を開始しようとするも、すんなりとはいかず、正式に認められるまでは、「良懐」と名前を偽っていたようです。