式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

80 室町文化(7) 庭園

日本の作庭の基本は、自然の姿を写し取り、違和感なく住いに取り込む事に有ります。

自然信仰

古来の日本人は、八百万(やおよろず)の神が自然のあらゆるものの中に居る、と信じて来ました。神様は磐座(いわくら)や見事な大木を憑代(よりしろ)として降臨する、と言い伝えられていましたので、それらに注連縄(しめなわ)を張って大切に守ってきました。

浄土式庭園

仏教が伝来し、神道と仏教が共存する様になります。初め、仏教は国策として取り入れられましたが、信仰が広く深く浸透して行くにつれ、仏教を信ずれば死後は極楽浄土へ行けると云う風に変わって行きます。それならば、極楽浄土をこの地上に造ろうと言う貴族が現れます。阿弥陀堂の前に大きな池を造り、信者が西に向いて手を合わせられる様に伽藍を配置します。宇治の平等院毛越寺(もうつじ)などが代表でしょう。

寝殿造りの庭園

貴族達は大きな寝殿造りの前庭に、広々とした庭園を造ります。池を配し、そこに船を浮かべて遊びます。広庭では蹴鞠などに興じます。曲水の宴などを開き、詩歌に打ち興じます。そのような遊びや行事に応えられる庭、それが寝殿造の庭の役目でした。

神仙蓬莱式庭園

大陸から神仙蓬莱思想が伝わってきました。仙人が住むと言う不老長寿の桃源郷に人々は憧れました。海の彼方にあるという蓬莱山を真似て、池を造り、池の中に島を造り、そこに蓬莱山に見立てた石を立て、鶴や亀の姿に似せて石を組み合わせたりして庭を造りました。

縮景庭園

日本の美しい景色を縮尺して造った庭が縮景庭園です。築山や池や州浜などを配して、それを富士山や天橋立や住吉の浦などの名勝に見立てるという趣向です。

禅宗の庭

 森羅万象の自然と一体となって座禅を組む場、それが禅宗の庭です。

山や渓谷、滝や龍に見立てた石組などを配置し、できるだけ自然に近い形にします。

そう言う自然志向の庭もあれば、また、雲水に何かを問う様な、龍安寺の石庭の様に、石以外何も置かない庭も出現します。具象の庭、抽象の庭、いずれも禅宗の庭です。

 

庭造りは、それぞれの風土により、宗教観により、又、人々の生活様式により大きな影響を受けています。その楽しみ方も様々です。池泉回遊式庭園の様に池の周りを巡り歩いて鑑賞する方式や、書院や縁側に座って定点で眺める様に作られた庭も有ります。歩き回るも良し、座って眺めるも良し。日本の庭はどれも変化に富んでいて、味わい深いものが有ります。

 

『作庭記』

『作庭記』は、平安時代末期の橘敏綱(たちばなとしつなor藤原敏綱)が書いたと言われております。 この本は世界最古の作庭の書と言われております。主に、寝殿造りの庭の造り方が書かれているそうですが、『作庭記』に書かれている庭造りの要諦は現代でも立派に通じるそうです。石を立てようとするならば、まず全体の主旨を把握し、土地の様子を活かして行いなさいと書かれているそうで、造園家ならぱ一度は必ず読む本と聞いております。

 

夢想疎石

作庭の事を語るには夢想疎石を抜きには語れません。

夢想疎石は臨済宗の僧侶です。彼は作庭に天才的な才能を発揮しました。

夢想疎石は求道遍歴の旅人です。初め彼は天台宗の寺に入門しました。そこで天台宗真言宗を学びました。ある事を切っ掛けに仏教に疑問を持ち、禅宗に興味を持ちました。

建仁寺無隠円範(むいんえんぱん)に参じ、東勝寺無及徳詮(むきゅうとくせん)に参じ、建長寺葦航道然(いこうどうねん)に参じ、円覚寺桃渓徳悟(とうけいとくご)に参じ、建長寺痴鈍空性(ちどんくうしょう)に参じ、原点に戻って建仁寺無隠円範に参じ、更に建長寺一山一寧(いっさんいちねい)に参じ、松島寺(現瑞巌寺)で天台宗を学び、万寿寺高峰顕日(こうほうけんにち)に参じ、最終的に高峰から印可を受けました。

このように、道を求めて三千(参禅)里。夢想疎石は旅を続けました。京都や鎌倉はもとより、四国、近畿、東海、中部、関東、東北と、その行脚(あんぎゃ)の範囲は驚くべきものが有ります。修行を続けた疎石は『長い間、青空を求めて大地を掘っていた。無駄な努力をして随分余計なものを積み重ねてしまった』と言う意味の漢詩を詠んだそうです。

日本中を旅して、岩の上や洞で座禅を組み、自然の呼吸の中に身を置いて得たものが、彼の庭造りの基になったのでしょう。

以下の漢詩は、平成12年8月27日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものです。ネットにアップされていましたので引用しました。対談は天龍寺管長・平田精耕氏、京都大学名誉教授・上田正昭氏、ききて・峯尾武男氏のお三方で行われました。詩の前後の対話は略します。

仁人自是愛山静 仁人は自ら是(これ)山の静かなるを愛す

智者天然楽水清 智者は天然に水の清きを楽しむ

莫怪愚惷翫山水 怪(あや)しむ莫(なか)れ愚惷(ぐどう)の山水を翫(もてあそぶ)

只図藉此砺清明 只だ此れを籍(かり)清明を砺(と)がんと図(はか)るのみ

 

 

夢想疎石が作庭したと言われる庭 

夢想疎石の造った庭は沢山あります。その中でも代表的なものを挙げます。

西芳寺(京都市)

開山・行基。中興開山・夢想疎石。

兵乱による焼失2度。洪水による被災3度。浄土式庭園から禅宗の石庭に変わり、洪水と近くの川の湿気の影響で苔むす寺に変貌。通称「苔寺」。なお、鹿苑寺金閣慈照寺銀閣の作庭の手本になっています。重要文化財世界遺産特別名勝

 天龍寺(京都市)

開基・足利尊氏。開山・夢想疎石。

後醍醐天皇の菩提を弔う為に建立。天龍寺船を明に遣わし、貿易による利益で建てる。

焼失6回、伏見大地震で倒壊。その後更に2回火災焼失(うち1回は禁門の変)。都合8回の火災。度重なる被災で、夢想疎石が作庭した当時の面影が残されている部分は少しだけです。特別名勝世界遺産

永保寺(えいほうじ)(多治見市) 

開創・夢想疎石。開山・元翁本元(げんのうほんげん)(=仏徳禅師) 

浄土式池泉庭園。天然の岩や崖を利用した庭園です。石組は亀石・鶴石などがありますが、全体面積に占める人工的石組の割合は僅かです。阿弥陀堂や開山堂の屋根には強い反りがあり、禅宗様の建物風です。名勝地。

瑞泉寺(鎌倉市

 開基:二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)。開山:夢想疎石

 足利基氏が中興して瑞泉寺と名を改めました。建物の殆どは大正時代以降の再建です。庭園は、昭和になって発掘作業を行い、古図面に従って復元したものです。

岩壁に穴を彫って洞を造り座禅の場としました。岩窟のある錦屏山(きんぺいさん)の頂上に登ると相模湾と富士山が一望できるそうです。疎石は頂上に小さな亭を建て、そこでも座禅を組んだとか。

その他に夢想疎石が作庭に関わった寺

 等持院(京都市)、南禅院(京都市)、浄居寺(じょうこじ)(山梨市)、恵林寺(えりんじ)(甲州市)、宝寿院(山梨県市川三郷町)

 

余談  七朝帝師

夢想疎石は歴代の天皇から尊崇を受け、幾つもの国師号を下賜されました。

生前に夢想国師、正覚国師、心宗国師の号を下賜され、示寂後も普済国師、玄猷(げんゆう)国師、仏統国師、大円国師の号を賜りました。

 

余談  『夢中問答集』

夢想疎石の著書に『夢中問答集』があります。

足利尊氏の弟・足利直義(ただよし)の問いに対し、夢想国師が丁寧に答えたものです。誰にでも分かり易く説明しているので、直義がこれを皆に見せたいと願い、足利氏の家臣・大高重成が出版しました。奥書は

笠仙梵僊(じくせんぼんせん)が書いています。室町時代から江戸時代、現代に至る迄何回も出版されています。(参考:笠仙梵僊は元からの渡来僧です)