式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

84 室町文化(11) 武家礼法

式正織部流の茶の湯武家の茶です。従って所作は武家礼法が基本になっています。清潔に、折り目正しく美しく、心を込めて敬い持て成すのを旨としています。

人は誰でも、雑な対応をされると不愉快になります。ぞんざいに丼物のご飯をにゅっと出されて、ドンとテーブルの上に置かれたら、もう二度とそのお店に行きたくなくなるでしょう。

それと同じです。丁寧に接客されれば良い気分になります。

茶の湯は高度に洗練されたお持て成しです。一挙一投足の凛とした挙措(きょそ)が「雑な対応」の対極にあります。お茶一服を差し上げるだけがお持て成しではありません。美しい所作もご馳走の内なのです。それはまた、武士の無駄も隙も無い動きに通じています。

 

姿勢

武士は運動神経抜群の戦士です。立つ、歩く、座る、走る、泳ぐ、馬に乗る、弓を引くなど、あらゆる戦闘場面に備えて彼等は体を鍛えます。何故なら運動能力アップが生存に直結しますから。そうやって筋肉を鍛え上げた彼等が、茶の湯の席では「動」を収めて「静」の立ち居振る舞いになります。デレデレ、グダグタのだらしない所作はしません。

立つ時は自然体の正しい姿勢で立ちます。

座る時は正しい姿勢で体を揺らさない様に座ります。右足を引き、左足を引き、右足を引いて左足で体重を支え、真っ直ぐにスゥーッと上体を下げ、右膝を畳に着け、左足を右足に揃え、腰を脚の上に降ろし、足の甲を畳に着けます。分解写真の様に書きましたが、この一連の動きを一つ一つ折り目をつけて正しく行います。足を後ろに引きながら同時に腰を降ろし始めるという「ながら」動作はしません。かといって、未熟なロボットの様にギクシャクした動きは見苦しいです。動作の折り目を付け乍ら、連続して淀みなく流れる様に行います。これは亭主の右手側に居並ぶお客様の視線を意識しての体の動きです。立つ時はこの逆で、左右左の足遣いで立ちます。

歩く時は、体の重心を丹田(骨盤の中心)に落として、重心を水平移動させます。重心が上下動しない様に摺り足で動きます。但し、歩く時、足裏で畳を擦る音が出ない様にします。などなど細かい動きを書きだしたら切がありません。要は、これらは武術の心得と同じで、一瞬の隙も作らない動きなのです。体幹が余程しっかりしていないと出来ない所作です。

袱紗の捌(さば)き方も大切です。茶杓の持ち方や茶筅の扱い方も大切です。ただ、お稽古をしていると、どうしてもお道具の扱い方や順序などに気を取られて、姿勢を忘れがちになります。気を付けたいものです。(参照:「3 ご挨拶は拳骨で」「4 清潔こそ命」「5 拳骨の作り方」)

 

武家礼法の始まり

粗野で粗暴で無礼者。直ぐ頭に血が上り、「無視した」「馬鹿にした」と難癖付けては刀を抜きたがる輩。気に喰わなければ「やっちまえ」と直情直行の困った性癖の侍達。木曽義仲が山猿と罵られ、京の人々から敬遠されたのも、行儀の悪さ故です。

鎌倉幕府は、侍達に自覚を持たせ、士風を整えようとしました。公家の前に出ても、領民を纏めるにしても、それなりの立ち居振る舞いができれば・・・と願い、お行儀の躾けを侍達に施す事にしました。先ずは将軍が習い、範を示します。将軍に近侍する御家人達が習います。上層部を見て自然に下に伝播していくかと思いきや、武闘はあっても武道が無い時代、なかなか一般武士に浸透するという訳には行きませんでした。

 

武家礼法の祖

永和4年/天寿4年(1378年)足利義満は右近衛大将(うこんえのたいしょう)に任ぜられました。右大将の位は従三位。武官の最高位。何かと宮中の行事に出席し、故事作法が難しい場面を捌いて行かなければなりません。そこで幕府は、義満に宮中典礼の作法を身に付けさせようと、お作法の先生を探しました。すると、二条良基が礼儀作法の先生に名乗り出ました。良基は義満に礼儀作法を教え始めます。

公家と武家の融和に礼法の大切さを感じた義満は、家臣達にも武家の礼法を身に付けさせようと思い立ちます。

当時、武家礼法には、今川流(今川貞世)、伊勢流(伊勢憲忠)、小笠原流(小笠原長秀)の三つの流派がありました。

今川貞世武家故実や書などに詳しい人でした。

伊勢憲忠は殿中の礼法、装束、折形、書礼などに通じていました。

小笠原長秀は弓馬術の武技と作法に長じていました。

義満はその三人に命じて武家礼法を作らせます。

三流派にはそれぞれ特徴があります。そこで武家礼法を擦り合わせる下敷きになったのが、日本の有職故実(ゆうそくこじつ)の中の武官礼法と、宋で編まれた『禅苑清規(ぜんえんしんぎor ぜんねんしんぎ)』です。

こうして三つの流派が一つの礼法としてまとめられ、三儀一統と呼ばれる武家礼法が出来上がりました。

 

 

余談  『禅苑清規』

唐の禅僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)が、『百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)と言う禅寺の規則を定めた書を著しました。それから300年後、『百丈清規』が散逸して失われてしまいましたので、宋の長蘆宗賾(ちょうろそうさく)が各禅寺で行われている清規を調べ直し、改めて纏めたものが『禅苑清規』です。そこには禅寺で守るべき規則が記されています。全部で10巻あります。集団生活を維持していく為の規則、それが清規(しんぎ)です。

禅宗の寺院では、大勢の僧が一つ寺院で集団生活をしています。彼等は托鉢や帰依者からの寄進に加えて、農業などをして原則自給自足の生活をしています。

百丈懐海にこんな話があります。

高齢の百丈を心配した弟子が、百丈が農作業をしない様にと鍬(くわ)を隠してしまいました。すると、『一日不作、一日不食(一日作さざれば一日喰らわず』と言って、百丈は食事を摂らなかったそうです。

余談  今川貞世 (いまがわさだよ)

 今川貞世法名了俊 (りょうしゅん) です。九州探題に赴任し、九州を平定します。遠江駿河守護大名歌人としても名高く、難太平記の著者でもあります。彼は長寿でした。何歳まで生きたか二説あります。享年87歳、または96歳。