式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

86 足利義持と上杉禅秀の乱

 トップの座に据えるべき人物を選ぶのは大変です。最新のニュースでも、或る団体のトップ交代を巡る一騒動がありました。ましてや、帝位や将軍位にまつわる人事では、国を争乱に巻き込むような事態に発展する例が後を絶ちません。

 

足利義持

室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)は父・義満との確執はあったものの、順当に将軍位に就く事が出来ました。義持が将軍に就いたのは9歳、将軍の実権を握ったのは23歳、それまで父義満が将軍の実権を握っていました。義満が薨去してからようやく名目上の将軍職から実質上の将軍になった義持でした。

彼は父が成した業績を壊し、政治路線を変えます。鹿苑寺の破却と勘合貿易の廃止です。それでも家臣からの反対は無く、朝廷とも一層良好な関係を結ぶことができ、長期安定政権を築く事が出来ました。義持の将軍継承については表面上全く問題がないように見えました。ただ、紛争の種だけは父によってしっかりと撒かれていたのです。

その種とは弟・義嗣(よしつぐ)でした。義嗣は義持の異母弟です。父・義満は義嗣を異常なほど可愛がっていました。義嗣の元服を宮中の清涼殿で行うなど、武家棟梁の家にはあるまじき扱いをし、まるで親王の御元服のようだと公家達から眉をひそめられました。元服を済ませた義嗣を、義満はその日の内に早速従三位に昇進させます。弟・義嗣への目に余る父の溺愛ぶりは、義持を警戒させるのに十分でした。つぎの将軍は義嗣様ではないかと、考える人々も出始めていました。そのような時、上杉禅秀の乱が起きました。 

 

上杉禅秀の乱

室町幕府は京都に政庁を置き、鎌倉へは幕府の支庁を置いていました。この支庁を鎌倉府と呼んでいます。鎌倉府のトップは鎌倉公方(かまくらくぼう)といい、2代将軍足利義詮の弟・基氏(もとうじ)が分家して、その子孫が代々継いでいました。

1409年鎌倉公方の跡を継いだ足利持氏(あしかがもちうじ)は11歳でした。その頃、彼の叔父・足利満隆(あしかがみつたか)が謀反をするとの噂が流れ、持氏は怖くなって関東管領上杉憲定(うえすぎのりさだ)の屋敷に逃げ込みます。上杉憲定は持氏の異母弟・持仲(もちなか)を滿隆の養子にすることで、持氏と満隆を和解させます。この養子の話は、和解に結びつく解決策には何ら関係もないように見えますが、鎌倉公方に接近して権力を得たい満隆にとっては、その足掛かりを得る策として、先を見据えた一手の駒だったに違いありません。

 この騒ぎで上杉憲定は責任を取らされ関東管領辞任に追い込まれます。

代わりに関東管領になったのが上杉氏憲(うえすぎうじのり)(=禅秀)です。

 上杉憲定と上杉氏憲(禅秀)の先祖は同じですが、途中で分かれて別々の上杉流家系になっています。

(ここから先は、上杉氏憲を出家後の法名上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)、又は単に禅秀と呼ぶことにします。)

経過

 鎌倉公方足利持氏が若いので、新しく管領になった上杉禅秀が持氏を補佐する様になりました。禅秀は次第に権勢をふるう様になります。それを嫌った持氏は、上杉憲基(のりもと)を重んじる様になります。そう、憲基は、叔父・足利満隆の謀反の噂に怯えて逃げ込んだ先の、あの前関東管領・上杉憲定の息子です。

1415年5月2日、 持氏と禅秀は対立し、持氏は禅秀を更迭します。

 同年5月18日、持氏は、禅秀の後釜に上杉憲基を関東管領に登用します。

1416年10月 2日、この人事に不満を持つ禅秀は、足利持仲を擁立して足利満隆と結託、関東周辺に居る身内の諸将や国人衆を糾合して、鎌倉公方の館を襲撃します。持氏は脱出して西へ逃れ、今川氏の下に行きます。

  同年10 月6日、禅秀一派は上杉憲基邸を襲い、これも陥落させます。上杉憲基は越後へ逃れました。

   同年10月13日今川範政から幕府へ、鎌倉での上杉禅秀謀反の一報がもたらされます。 

   同年10月29日、評定の席で、足利滿詮(あしかがみつあきら)(=3代将軍・義満の弟) は甥の義持を励まし、禅秀討伐を進言しました。評定衆もこれに同調、義持は今川範政と越後守護・上杉房方に持氏支援を命じます。

   同年10月30日、京都に居る足利義嗣(あしかがよしつぐ)が突然失踪し、遁世してしまいます。「?」狐につままれたような話で、初めの内は誰もが義嗣の失踪の理由が分かりませんでした。その内、関東のクーデターへの義嗣の関与が明るみに出てきました。義嗣の愛妾が上杉禅秀の娘でした。

同年11月5日、義持は弟・義嗣の確保を命じます。義嗣は仁和寺に幽閉され、更に相国寺に移されて幽閉されます。

1417年1月、幕府討伐軍に、上杉禅秀と足利満隆・持仲は敗北、鎌倉八幡宮近くの「雪の下」と言う地で自害しました。

 

義嗣殺害

幽閉されていた義嗣をどう扱うか、幕府内で意見が分かれました。管領細川満元は事を穏便におさめる方向の意見でした。それに対して、畠山滿家は義嗣の切腹を主張しました。

1417年11月、義嗣とその側近を取り調べた富樫満成(とがしみつなり)の報告が上がってきました。その内容は驚くべきものでした。 

報告によると、義嗣を担ぎ出して将軍にしようという計画でした。まず上杉禅秀や足利満隆・持仲が鎌倉でクーデターを起こし、関東の武士団への働きかけに加えて、その謀に管領細川満元、元管領斯波義重赤松義則などが乗っかっていた、と言うものでした。

1418年1月14日、義嗣は義持の命を受けた富樫滿成により殺害されました。享年25歳。

義嗣の最終的な官位は正二位、兄の将軍・義持が従一位で、官位の上では兄弟に差があったものの、眉目秀麗、文武両道と言われた義嗣。御神輿に担ぎ上げるには十分過ぎる程の条件が揃っていました。彼自身も野心があったかも知れません。

義嗣の死を以ってこれにて一件落着、とはいかず、富樫の報告書の信憑性が問われる様になりました。義嗣を殺害した富樫滿成は、謀反に加担した事実を隠蔽する為に、自ら担ぎ出した義嗣を殺して口を封じたと、義嗣の愛妾が将軍・義持に直訴したのです。積極的に切腹を主張した畠山滿家も怪しいものでした。富樫は不義密通の不祥事が暴かれ、高野山に逃げ込みますが、畠山に討たれてしまいます。

 

鎌倉公方足利持氏

一方、幕府の援軍で再び鎌倉公方に納まった足利持氏は、上杉禅秀の残党狩りに力を注ぎます。幕府は、持氏が残党狩りに名を借りて支配圏を広げているのではないかと疑い、持氏を警戒します。

持氏は、関東に居ながら鎌倉府の管轄下に入らず、直接京都の幕府と主従関係を結んでいる京都扶持衆と言う人達を討伐して行きます。「京都扶持衆」には小栗満重宇都宮持綱、桃井宣義という武将が居ました。持氏はこれらの武将を残党狩りの名目で滅ぼしていったのです。これは、幕府にとって宣戦布告に近く、やがてこれが6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の代に起きた「永享(えいきょう)の乱」に発展して行きます。

 

 余談  勘合貿易の廃止

4代将軍・足利義持は、父・義満が始めた勘合貿易を廃止します。

理由は、明との朝貢貿易は屈辱的である、と言う点です。

もう一つあります。義満は日本国王を名乗って貿易をしましたが、それは詐称であり、天皇を蔑ろにしたものである、という考えに依ります。

義持は、父・義満が武力と財力で公家達を圧倒し、皇室までも思いのままに操ろうとしたことを改め、皇室を敬い、寄り添う様になります。その為、義持の代は皇室と大変良好な関係を築いていきます。

 

余談  北山第の破却

義持は、父の建てた北山の鹿苑寺を、金閣を除いてを全て壊してしまいます。そこで暮らしていた弟の義嗣も追い出してしまいます。義持自身は祖父の義詮が住んでいた三条坊門殿に移ります。義嗣は花の御所に移ります。