式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

87 足利義教(1) 将軍暗殺さる

嘉吉元年(1441年)6月24日、6代将軍・足利義教(あしかが よしのり) が、赤松家の西洞院二条邸に於いて催された猿楽の席で、暗殺された。義教は即死、随伴の守護大名の中に死傷者多数、現場は混乱を極めた。

[ 続報 ]

侍所頭人赤松満祐(あかまつ みつすけ)、その子赤松教康(あかまつのりやす)は、将軍暗殺を決行した後、幕府から必ずや討手が差し向けられると考え、切腹の覚悟を決めていたが、討手は押し寄せて来ず、夜になった。赤松氏は兵を纏め、自邸に火を放ち、義教の首を槍の先に下げて整然と隊列を組んで京を退去、自領の播磨国(はりまのくに)坂本城 (現姫路市書写山) へ戻った。

[ 細報 ]

24日、赤松満祐の子・赤松教康は「庭に鴨の子が生まれました。とても可愛らしいので、先頃の結城合戦の戦勝祝いを兼ねて宴を催したいので、是非ご来駕頂きたく・・」と将軍義教を招待した。将軍は喜び、公家や大名などの中から意に染む者を引き連れ赤松邸に渡御(とぎょ)、猿楽を楽しみながら酒宴の真っ最中の時、一頭の馬が庭に放たれた。と、直ちに門が閉められ、辺りは騒々しい物音に包まれた。

「何事ぞ!」との問いに、正親町三条実雅(おおぎまち さんじょうさねまさ)は、「雷鳴でしょう」と答えたが、直ぐ障子が開け放たれ、武装した侍数十人が乱入。忽ち義教の首が刎ねられた。首級を挙げたのは安積行秀(あさか   ゆきひで) と言う赤松家随一の剛の者である。

宴席は一転血の海の修羅場と化した。刀を抜く間も無く斬られる者、抵抗を試みて戦うも反撃敵わぬ者、算を乱して庭に逃げ出す者、塀を攀じ登ろうとする者、さながら邸内は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵になった。しかし、将軍を守ろうとして戦おうとしたのはほんの数名だけであった。外の守護大名達は将軍に構わず真っ先に逃げ出した、と言う。

赤松からは「将軍殺害の目的が達せられたので他の者には危害を加えない」と告げられたので、ほどなく修羅場の騒ぎは収まり、難を逃れた者は早々に退出した。赤松邸では、死者や負傷者を片付けると、夜まで幕府からの討手を待ったが、何事も無く時間が過ぎたので、屋敷に火を放ち、領国へ引き上げて行った。

この事件の死者重軽傷者は次の通りである。

死亡者(4名)

将軍・足利義教(あしかが よしのり)(48歳)

山名煕貴(やまな ひろたか) 石見守護。娘は細川勝元の室。

京極高数(きょうごくたかかず) 侍所頭人兼山城・出雲・隠岐・飛騨の守護

大内持世(おおうち もちよ) 周防(すおう)長門(ながと)豊前筑前の守護               

重傷者(2名)

 細川持春 (ほそかわ もちはる) 歌人。備中朝口郡・伊予宇摩郡の守護。

正親町三条実雅  従一位内大臣(義教の継室・尹子(いんし)の兄。)

無事脱出組(主だった者5名、他多数)

 細川持之(ほそかわ もちゆき) 管領。摂津・丹波・讃岐・土佐の守護

山名持豊((やまな もちとよ)宗全) 四職侍所頭人兼但馬・備後・安芸(あき)・伊賀・播磨の守護

 畠山持永(はたけやま もちなが) 河内・紀伊越中の守護

 一色教親(いっしき のりちか) 丹後・伊勢の半国・山城の守護

細川持常(ほそかわ もちつね) 幕府相伴衆・阿波・三河の守護

                            以下多数

思考停止の幕府

事件のあらましは上記の様でしたが、その後の幕府の対応は鈍いものでした。その為、赤松氏は悠々と領国へ帰国へ帰国する事が出来ました。道中の妨害にも遭いませんでした。

幕府は茫然自失、混乱の極みの中にありました。それまで全ての権限が将軍義教一人に集中していた為に、義教を失った時点で指揮命令系統の頭が消失してしまった為でもあります。

事件直後、管領細川持之は赤松邸から逃げ帰って自邸の門を固く閉ざし、沈黙を守りました。他の幕閣、大名も大同小異でした。将軍暗殺と言うこれ程の大事件を起こすには、赤松のみで実行できる訳がなく、赤松以外に加担している者が居るのではないかと言う疑心暗鬼に駆られ、互いの動きを探っていたのです。

事後処理難航

翌6月25日、幕府は評定を開き、将軍空位をどうするか話し合いました。そして、伊勢貞国の館で養育されている義教の長庶子千也茶丸(せんやちゃまる)を室町第へ移し、将軍後継者に擁立する事にしました。

同年7月1日、相国寺の僧・季瓊真蘂(きけい しんずい)が赤松の立て籠もる坂本城へ赴き、義教の首の返還を求め、持ち帰る事が出来ました。それによって7月6日、京都の等持院で義教の葬儀が執り行われました。

さて、ようやく葬儀を済ませ、それから赤松討伐について話し合いましたが、皆腰が重くなかなか動きません。一応、赤松氏の単独犯行と分かりましたが、討幕軍の編成に時間が掛かりました。義教は、独裁的で猜疑心が強い将軍でしたので、彼を恐れて戦々恐々としていた人達は、暗殺を実行した赤松満祐・教康親子に心を寄せる者も多く、赤松氏には同情的な声があったのです。

赤松氏による将軍足利義教暗殺から赤松氏討伐に至る一連の騒動を嘉吉の乱と言います。

伏見宮貞成(ふしみのみや さだふさ)親王(後崇光院)の書いた『看聞日記(かんもんにっき)』 or『 看聞御記(かんもんぎょき)』は、1372年から1456年にかけて書かれた日記で、全44巻からなります。そこに嘉吉の乱についても詳しく書かれています。ここにその一部を抜粋して載せます。

看聞日記

(前略) 赤松落ち行くに、追い懸けて討つ人なし。未練いわんばかりもなし。諸大名同心か、その意を得ざる事なり。所詮赤松をうたるべきの御企(おんくわだて)露見の間、遮(さえぎり)て打ち申すと云々。自業自得、果たして無力の事か。将軍の此の如き犬死、古来その例を聞かざる事なり(後略)

(ずいよう意訳)

赤松が領国へ落ちて行くのに、それを追い駆けて討つ人はいなかった。「惜しい人を亡くしたものだ」と残念がる人もいなかった。諸大名はこの事件に関して同心(結託) しているのか。その意中は掴めない。(将軍はかねてより赤松を討とうとしていたのだが)結局、その企みが(赤松側に)露見していたので、赤松側は殺られる前にその企てを防いで、逆に(義教を)討ったのだ、と申している。自業自得である。果たしてどうしようもない事なのか。将軍がこの様な犬死をするなんて、今迄聞いた事が無い。

赤松討伐

事件当日、無傷でいち早く逃げ出した管領細川持之などは、臆病者よと笑いものにされました。外にも、すぐ手を打たず、赤松に退却の時間を与え赤松有利にしてしまった事を取り上げ、実は、細川も義教殺害に一枚噛んでいたのではないか、と言う人も居ます。

 表向きはどうであれ、内心では義教死去に快哉を叫んでいた守護大名がかなりいる中で、赤松討伐を諮っても結論がなかなか出て来ません。そんな中で山名持豊は積極的に賛成に回ります。と言うのも、赤松亡き後の領国を狙っているからでした。義教に寵愛を受けていた赤松貞村も参陣します。貞村は、赤松満祐の弟・義雅の土地を義教の計らいで貰って居ました。義雅側から言えば、義教の命で所領を没収されてしまったのです。

山名持豊はいち早く出陣の用意をしますが直ぐには動かず、京都に居座って略奪などの乱暴狼藉を働いていました。山名は7月28日になってようやく進軍を始めました。

細川持常・赤松貞村・赤松滿政が連合した大手軍、山名持豊軍、山名教清軍の三軍に分かれて赤松氏を攻めますが、幕府軍の士気は低く、合戦は長引きます。赤松満祐は坂本城から要害の地に建つ城山城(きのやまじょう)に移り、なおも抵抗しますが、9月10日に幕府軍の総攻撃を受けてついに陥落してしまいます。満祐は子の教康と弟の則繁を城から落とし、切腹しました。

 

 

余談

次回は嘉吉の乱の背景などに触れるつもりです。