室町幕府8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)は、無気力で優柔不断、将軍としての実績を残さなかったばかりか、都を戦火で荒廃させた無能の将軍と誹(そし)られる事が多いのですが、どうしてどうして、彼の創造した「わび」「さび」の世界は、その後の600年に渡り日本文化の基底になってきました。それどころか、「わび」「さび」は世界語にもなり、日本文化を世界に発信し続けております。そういう意味で、彼は室町幕府の産んだ最大の将軍であったかも知れません。
高度の文化を朝貢の諸国の大使に見せ付け、「こんなに凄い国とはとても戦争なんて出来ない」と思わせて相手国を臣従させる事は、戦費を掛けて戦うよりも安価でしかも平和的であると、オスマン帝国の皇帝が言ったとか。トプカプ宮殿の財宝はその為に集められたもの。中国の紫禁城の豪華さも然り。しかし、目を奪う程の豪華絢爛な文物ではなく、その対極にある貧乏を昇華させた文化を義政は華開かせたのです。
「わび」とは侘しい事、「さび」とは寂しい事。うらぶれて寂しい有様を美しいとし、価値あるものとしたもので、全く発想を逆転させた精神文化の華です。
7代将軍・足利義勝(あしかが よしかつ)
嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)の嘉吉の乱で、将軍・足利義教(あしかが よしのり)が赤松満祐(あかまつ みつすけ)に殺害された時、残された義教の子供は4人おりました。そこで長庶子・千也茶丸(せんやちゃまる)が急きょ幕臣達に推されて7代将軍になり、名を義勝と改めます。この時、御年9歳。嘉吉2年(1442年)11月7日の事でした。
翌年6月、室町殿で朝鮮通信使を義勝は謁見します。どうやら無事に謁見は済んだものの、約1か月後の7月21日、義勝は急死してしまいます。享年10歳。将軍在位8か月でした。
8代将軍・足利義政 (あしかか よしまさ)
次に将軍になったのが義教の5男で義勝の同母弟・三寅(みつとら)です。その時三寅は8歳でした。政を行なえる年齢ではなく、管領の畠山持国(はたけやま もちくに)の後見を得て後継者となります。三寅は名前を三春(みつはる)と替え、以後三春は室町殿と呼ばれました。更に御花園天皇より義成(よししげ)の名前を賜り、文安6年(1449年)4月16日に元服します。
文安6年(1449年)4月29日、将軍宣下を受けて義成は13歳で第8代の将軍位に就きます。
14歳になると政務を執る様になりました。政務と言っても、乳母の今参局(いままいりのつぼね)(=略称お今)、扶育の烏丸資任(からすまる すけとう)や側近の有馬元家(ありま もといえ)の助けを借りて行いました。
享徳2年(1453年)6月13日、義成は義政(よしまさ)と改名します。
将軍家の跡目問題
康正(こうしょう)元年(1455年)8月27日、義政は日野富子と結婚します。富子、この時16歳です。
4年後に第一子が生まれますが、その日の内に亡くなりました。富子はこれを乳母の今参局の呪詛の為だとして、今参局を流罪にします。また、義政の側室達も追放してしまいます。その後2人の姫が生まれましたが、結婚9年目になっても男子が生まれませんでした。そこで、義政夫婦は、天台宗浄土寺にいた弟・義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)させ、養子にします。
義尋は義視(よしみ)と名を改め、富子の妹の良子と結婚しました。ところが、
寛正(かんしょう)6年(1465年)11月23日、義政と富子の間に義尚(よしひさ)が誕生しました。
兄夫婦に子供が出来たので、養子の義視の立場が無くなり、義政と義視の関係が悪化、それが応仁の乱の原因となりましたと、婆は学校で習ったような気がしますが・・・
ですが、婆は疑り深いです。「本当?」どうも納得できないのです。
何故なら、翌年1月、義視は従二位になっています。「文正(ぶんしょう)の政変」後も、義視は、後土御門天皇の大嘗会行幸に際し供奉(ぐぶ)し、義政の代理を立派に務めました。しかも、文正2年(応仁元年)正月11日、義視は正二位に昇進しています。兄の義政がその時従一位でしたから、これは義政の後押しがなければ出来ない事です。義政夫婦は義視を排斥するどころか優遇しているのが分かります。
夭折の家系?
義政の父・義教(よしのり)には正室と側室併せて7人居たそうで、男子だけでも11人生まれたそうです。ただ、義教が暗殺された時に生存していたのはその内の4人だけだったとか。どの子も短命でした。義勝が将軍になりましたが10歳で薨去しています。残ったのは4男政知(まさとも)、5男義政(よしまさ)、10男義視(よしみ)の3人だけです。義政本人を除く残りの二人の内、政知は堀越公方として関東の要でしたので動かせず、残る義視だけが頼りの綱だったのです。
義政夫婦に義尚が生まれると、義視は義尚への中継ぎ的存在になり、且つ、万一義尚が夭折した場合の安全弁的存在になりました。
兄弟達が次々と夭折して行った現実を直視すると、二組の兄弟姉妹夫婦は、足利将軍家の血筋存続を至上命題として結束していた様に、婆には見えます。義政夫婦の子・義尚の下に、義視夫婦の子・義稙(よしたね)が猶子に入り、従兄弟同士ですが、親子の関係を結びます。
文正の政変
文正元年(1466年)8月25日、伊勢貞親)(いせ さだちか)や季瓊真蘂(きけい しんずい)等が「文正の政変」を起こします。貞親は義政を養育した人で、政所執事です。義政に義尚が生まれると、今度は義尚の養育係になります。幼君を守る貞親にとって義視の存在は将来の禍根です。彼は義視に謀反の疑い有りと讒訴、義視の処刑を主張します。義視は細川勝元の屋敷に逃げ、無実を訴えます。義視の申し開きが入れられ、貞親達は逃亡します。幕府で絶大な力を持った貞親が失脚し、義政は有能な側近を失います。代わりに山名持豊(=宗全)が台頭、山名持豊と細川勝元が対立し、そこに各大名のお家騒動が絡んで応仁の乱へ突入する様になります。
応仁の乱は1467年から1477年まで11年間続きます。
東山山荘造営
足利義政は、戦乱に次ぐ戦乱に嫌気がさし、政治から逃避して東山山荘で隠遁生活を始めた、と言われております。実際は少し違います。
戦争を何年も続けていると全体に厭戦気分が蔓延し始め、終戦の兆しが僅かに見え始めていました。
文明4年(1472年)、細川勝元と山名宗全の間で和議の交渉が始まりました。
文明5年(1473年)、山名宗全と細川勝元の両巨頭が相次いで亡くなりました。
文明6年(1474年)1月7日、義政は終戦が間近いと目途を付けて、義尚に将軍の座を譲りました。
応仁の乱が終わったのが1477年、東山山荘の造営に着工したのが1482年です。彼は戦争の終結を見届けてから山荘を作り始めました。
とは言え、幕府は貧乏でした。妻の富子は利殖の道に長け、かなりの銭を持っていましたが、それを夫の義政に回す様な事はしませんでした。彼女は、敵に金を渡して軍を引かせたり、寝返らせたり、幕府の財政を立て直したりして有効活用をしていました。趣味人の夫に渡す金など、びた一文も出さなかったのです。
文明14年(1482年)から東山山荘(東山殿。後の東山慈照寺)の造営に取り掛かります。
彼は、造営を始めてから間もなく山荘に移り住みます。まだ建設が始まったばかりで、土がほじくり返され材木が山と積まれ、職人達が忙しく働いている最中に引っ越して、そこで寝泊まりしながら現場の指揮を執ります。そういう訳で東山山荘は、彼の手造りと言って良く、隅々まで彼の趣味が行き届いていると言っても過言ではありません。
義政は段銭(たんせん)(=税金。臨時の住民税の様なもの。銭による納付)を課したり、夫役(労働)を課したりして東山山荘の費用を捻出しました。
幸いな事に、禅宗は装飾過多を嫌い、単純或いは素朴、静謐な風を尊びます。貧乏な義政に打って付けの世界でした。禅宗の文化や美意識は、武士のそれと軌を一にするものでした。彼は先祖代々蒐集してきた財物を能阿弥・芸阿弥・相阿弥に命じて整理させました。義政の画庫にあるものは殆どが唐物でした。宋元明の絵画や墨蹟でした。それ等は勘合貿易や渡来僧、或いは留学僧などがもたらしたものです。
安物買いの宝物
日本人は舶来ものを喜ぶ、という傾向がありました。商人は日本人好みの水墨画や墨蹟を買い付けたり、留学僧なども帰朝の際に手土産にそう言うものを買って来たりして、随分向こうの文物が日本に入ってきました。現在ではそれらは目の玉が飛び出る程高くなっていて、0 の数を数えるのも難儀しますし、国宝や重要文化財に指定されている物も多いのですが、当時、それらは比較的安く現地で手に入れる事が出来ました。
と言うのも、例えば牧谿の絵などは、神仙思想に裏打ちされた峩々(がが)たる山の山水画とは違って、江南の穏やかな風景が朦朧と描かれていたりするので、中国人の好みには合わなかったのです。また、米芾(べいふつ)のような名筆家の書を尊ぶ現地では、禅坊主の墨蹟は「下手」だったので見向きもされませんでした。何事も需要と供給です。優れた芸術作品でも大衆の好みに合わなければ、安く買い叩かれてしまいます。
今、牧谿の作品の殆どが日本に在る、と言われています。中国の人が口惜しがっている、と噂で聞いたことがあります。
参考までに
19 室礼の歴史(4) 武家文化
20 室礼の歴史(5) 同仁斎
21 室礼(6) 床の間
48 鎌倉文化(4) 禅語
49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟
57 鎌倉文化(13) 工芸(織・漆)
74 室町文化(1) 庶民の芸能
77 室町文化(4) 闘茶
80 室町文化(7) 庭園
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2021年4日3日現在、通し番号は93で「応仁の乱(4) 乱の前夜」を掲載中。