式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

90 応仁の乱(1) お家騒動

応仁の乱は複雑過ぎて全体像を理解するのがなかなか難しいです。

そこで、こんがらかった糸を解きほぐす為に、それぞれの各守護大名の家庭の事情を集めたいと思います。その上で、それらがどの様に絡み合って行くのかを、見てみたいと思います。

先ずは富樫(とがし)氏から

富樫氏の場合

加賀国守護・富樫氏春が亡くなると遺児・竹童丸が跡を継ぎます。竹童丸はまだ幼く、この機に乗じて佐々木道誉加賀国を斯波氏に与えようとしました。それを細川清氏が抑え込み、竹童丸が受け継いだという経緯があります。竹童丸は元服して富樫昌家(とがし まさいえ)と名乗り、加賀国の守護になりました。これにより、富樫氏は細川氏と密接に結びつきます。

富樫氏は幕命の様々な賦役を真面目にこなし、忠勤に励みました。富樫邸に足利義満の渡御(とぎょ)の栄誉を得た時は、引出物が10万疋に及んだそうです。(※疋は反物や銭の数え方。徒然草の時代では1疋=10銭だったとか。時代によって銭貨が違っています。) 富樫氏は細川氏へも大いに贈物をし、太いパイプをつなぐ様に努力しました。

しかし、1379年、康歴(こうりゃく)の政変が起き細川頼之(ほそかわ よりゆき)が失脚、代わりに斯波義将(しば よしゆき or しばよしまさ)管領になりますと、富樫昌家の立場は途端に弱くなりました。(義将の読みは正式には「よしゆき」です。)

1387年、昌家が亡くなると家督は弟の滿家に継承されましたが、管領斯波義将は、滿家を罷免し、自分の弟の斯波義種(しば よしたね)加賀国の守護に任じました。

富樫滿家の子・滿成(みつなり)は足利将軍・義持の寵愛を受けていました。斯波滿種が義持の勘気を蒙って失脚後、加賀国の半国の守護に任じられ、先祖の土地に返り咲き、勢力を盛り返します。

1416年に上杉禅秀の乱が勃発した時、謀反の疑いで幽閉された足利義嗣を滿成が取り調べ、調書を幕府に報告します。その調書から謀反の大規模な全容が判明、滿成は義持の密命を帯びて義嗣を暗殺しました。が、滿成自身の不祥事が発覚、畠山滿家によって1419年に滿成は殺害されます。(参考:86 足利義持上杉禅秀の乱)

加賀南半国を領していた滿成の土地は、加賀北半国を領していた兄の三春が受け継ぎ、結果的に兄の富樫滿春が加賀一国の守護となりました。

 

小笠原氏の場合 

小笠原氏は清和源氏源頼義を源流とする信濃源氏の祖・小笠原長清から発しています。

安達泰盛平頼綱(=平禅門)の権力闘争で起きた霜月騒動(1285年)の時は、騒動が全国に波及して信濃国も巻き込まれ、伴野彦二郎(小笠原氏)が自害しました。

北条氏の鎌倉幕府討幕運動では足利尊氏側で出陣し、戦功をあげて信濃守護に任じられました。長い間、信濃は北条氏の知行地でしたので北条親派が多く、建武の新政に不満を抱く国人領主らは北条高時の遺児・時行を担いで1335年挙兵、中先代の乱を勃発させます。その時、信濃守護・小笠原貞宗が鎮圧に乗り出しますが形勢不利、北条時行の鎌倉進撃を許してしまいます。守護職は降ろされ、代わりに斯波氏が信濃守護になります。再度小笠原氏が信濃守護になったのは1399年の事でした。しかし、信濃の国人達は小笠原長秀の高圧的な態度に反発、軍を起こして反抗します。「大塔(おおとう)物語」によると、小笠原長秀の軍は800騎、信濃国人衆の軍勢は併せて2,800騎、これに徒士(かち)などを加えれば、約4千余対約1万余の対決になったそうです。小笠原氏は敗北、彼は守護職を解かれ、信濃細川氏を代官として幕府直轄領になりました。この戦いの中に実田(さなだ)氏の名前が見えるそうです。実田氏はその後の真田氏ではないかと、見られているそうです。
信濃は京都の幕府の勢力圏と、鎌倉府の勢力圏の接する所であり、また、信濃国人衆は独立志向が強い地域でもあり、上から支配の難しい所でもあります。

六角氏の場合

六角氏は近江源氏の佐々木氏の流れを汲む嫡流です。「六角氏」の六角は、京都の「六角堂」傍に住んだ事に由来します。後に近江の佐々木庄に移りました。

六角氏は嫡流が六角家、庶流が京極家、大原家、高島家と分かれます。京極佐々木家に高氏(京極高氏佐々木道誉)が出て、そちらの方が栄えて幕府の要職に就き、本家六角家と対立する様になります。佐々木道誉の様に直接幕府に仕えて権勢を誇る者が居て、近江の守護・六角氏の言う事を聞かず、領国経営に苦労します。

六角道綱(ろっかく みちつな) には長男の持綱(もちつな)、次男の時綱(ときつな)、三男の周恩が居ました。

1446年、次男の時綱が国人衆に担がれて父と兄に反逆、道綱と持綱は敗れて自害しました。相国寺の僧侶だった周恩が幕命により還俗して名を久頼(ひさより)と改め、次兄・時綱を討ち滅ぼしました。この時佐々木持清(もちきよ)が久頼を援(たす)けました。久頼はこうして六角家の本家を継ぎましたが、久頼と持清との間に軋轢が生じ、久頼は憤死してしまいます。

久頼の遺児・亀寿丸(後の行高=高頼(たかより))は、六角政堯(ろっかく まさたか)の後見を得て近江守護になります。この六角政堯は、時綱の子です。亀寿丸は守護職を継いだものの幕命により追放され、後釜に六角政堯が座ります。が、2年後、政堯も廃嫡され、家督は再び亀寿丸に戻されました。

応仁の乱の時、政堯と亀寿丸(=高頼)は東軍、西軍に分かれて戦います。

 

畠山氏の場合

 畠山氏は河内、紀伊越中、山城の守護です。1449年管領職も務めます。

1440年、関東の諸将が鎌倉府の足利持氏(あしかが もちうじ)の遺児を擁立し、幕府に叛旗を翻しました。いわゆる結城合戦です。その時、幕府は討伐軍を関東へ差し向けましたが、畠山持国(はたけや まもちくに)は出陣を拒否しました。その為に、将軍・義教が激怒、持国を追放し、弟の持永(もちなが)へ畠山の家督を与えました。

1441年、嘉吉の乱が起こり、将軍・義教(よしのり)が暗殺されてしまいます。持国は直ぐに兵を挙げ、弟・持永を攻めて討ち取ってしまい、家督を奪還します。

義教の遺児・三寅(みつとら)が8歳で将軍に推された時に管領だったのは、畠山持国でした。三寅は14歳の時元服して義政となり、8代将軍を継ぎます。持国はその頃行政手腕を発揮し、権勢を振るいました。 

持国には子供が無かったので、別の弟の持冨(もちとみ)を養子にします。ところがその後、持国の側室に子が出来ました。この側室は「桂女(かつらめ)」と言って、元は春をひさぐ遊女だったのです。(「桂女」は遊女の隠語」) 彼女は他の男との間にも子を成しています。持国は子の母が卑しい身分なので、当初はその子を石清水八幡宮の僧にする積りでしたが、途中で気が変わり、持冨を後継ぎから外し、この子を後継ぎにします。この子が後の義就(よしひろ)です。持冨はこれを受け入れ、従います。持冨はその後病死しました。

持冨の家臣達は、後継ぎが義就に挿し替わるのに納得しませんでした。義就が本当は持国の子なのかどうか疑問が持たれていました。彼等は持冨の子・弥三郎を擁立して反抗、この争いに細川勝元山名宗全、畠山義忠が口を挟みます。

 

斯波氏の場合

斯波(しば)氏は越前、尾張遠江(とおとうみ)守護大名です。斯波氏は古文書などで「斯波」と書かれる事は無殆ど無く、武衛家(ぶえいけ)とか勘解由小路(かでのこうじ)とかで名前が出ています。「志和」の時も有ります。斯波の名前は、鎌倉時代陸奥国斯波郡(岩手県斯波郡)を領していた事に由来します。

「武衛」と言う名の通り、武をもって国を衛(まも)る官職で、元は唐の官職名です。武衛督(ぶえいのかみ)兵衛府の最高長官です。足利尊氏直義(ただよし)、初代鎌倉公方基氏(もとうじ)が武衛督になりましたが、その後は斯波氏が受け継いでいます。斯波氏は足利氏の嫡流です。けれども、時の政権に反抗して庶流にされてしまいました。以後その地位に甘んじていますが、誇りが高く、足利一門筆頭の家格を持ち、他の足利庶流とは別格の扱いになっています。

1452年(享徳元年)、斯波氏本家9代当主・斯波義健(しば よしたけ)が18歳で亡くなりました。そこで、斯波氏の分家・大野持種(おおの もちたね(斯波持種))の子・義敏(よしとし)が10代目を継ぎました。

義敏は父・持種と、守護代甲斐将久(かい ゆきひさ(=甲斐常治(かい じょうち))の補佐を得て守護の務めを果たしていきますが、甲斐将久の横暴が激しく、将久を抑える為に義敏は幕命に背き私的都合で越前に出兵、その為、家督を取り上げられてしまいます。そして、11代目の家督は義敏の子の松王丸に与えられました。2年後、将軍・義政は松王丸を追放、12代目に遠縁の斯波義廉(しば よしかど)を当てます。

義政生母逝去で義敏は恩赦されます。すると義敏は義廉から家督を奪い13代目に就きます。家督を奪われた義廉は舅の山名宗全を頼り、一色氏、土岐氏も味方して14代目当主の座を義敏から義廉が奪取、また更に争い15代目義敏が就きます。この騒動に将軍義政の弟・義視が巻き込まれ、応仁の乱へと発展して行きます。

これを義健から書きますと、下記の様になります。数字は代です。

9 義健―10 義敏―11 松王丸―12 義廉―13 義敏―14義廉―15 義敏

 

余談  勧進帳

勧進帳に出て来る安宅関(あたかのせき)の役人・富樫左衛門泰家(とがし さえもん やすいえ)は、富樫氏6代目と目されています。彼は、源義経を逃がした罪で守護職を剥奪されます。彼は出家し、後に奥州平泉に義経に会いに行ったと言われています。一説には、古文書などからの時代の擦り合わせによると、勧進帳の富樫は泰家ではなく、もう少し前の人物ではないかと言う人も居ます。