式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

91 応仁の乱(2) 続・お家騒動

前項で、富樫氏、小笠原氏、六角氏、畠山氏、斯波氏を取り上げました。

ここでは土岐氏、赤松氏、山名氏を取り上げたいと思います。

 

土岐氏の場合

1342年(康永元年) バサラ大名・土岐頼遠(とき よりとお) が、光厳(こうごん)上皇の牛車に無礼を働いて捕らえられ、六条河原で斬首されました。ただ、それまでの幕府への貢献が大でしたので、当主死罪のみでお家断絶を免れ、甥の土岐頼康(とき よりやす)家督が継承されました。

土岐頼康は「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)「男山八幡の戦い」でも常に尊氏側で参戦、足利義詮後光厳天皇を奉じて京都を脱出した時も、美濃に仮御殿を造営して迎えています。そのような事から土岐氏は幕府の宿老として重きをなし、美濃・伊勢・尾張の守護になりました。けれども土岐氏の勢力増大を恐れた義満は、土岐氏を弱めるべく内紛の種を仕掛けます。

1388年(元中(げんちゅう)4年)嘉慶(かけい or かきょう)元年)、土岐頼康が亡くなると、義満は土岐康行(とき やすゆき)が継いだ美濃・伊勢・尾張三国の内の尾張一国を召し上げ、康行の弟・滿貞に与えました。それを不服として康行は挙兵しますが、幕府の討伐軍に負けてしまいます(土岐康行の乱)。結果、康行は美濃・伊勢の領国を失います。そして、美濃は叔父の土岐頼忠(とき よりただ)へ、尾張土岐滿貞(ときみつさだ)へ、伊勢は仁木(にき or にっき)へ与えられました。

 1391年(明徳2年)明徳の乱の時、康行は幕府側で参戦、その戦功で伊勢の守護に復帰します。一方、滿貞は尾張を召し上げられて没落しました。尾張は斯波氏に与えられました。康行が土岐康行の乱で敗けて没落した時、土岐氏の庶流の多くは康行に従いました。その為、美濃国守護になった叔父の土岐頼忠は、外様の斎藤氏富島氏守護代に登用、やがて、彼等は争いを起こし美濃国を戦乱に陥れます。この争いに斎藤氏が勝ちます。斎藤氏は守護の土岐氏を蔑(ないがし)ろにして美濃の実権を握る様になります。

 

赤松氏の場合

赤松則村(あかまつ のりむら(円心))元弘の乱の時、宮方で戦い数々の武功を挙げ、播磨(はりま)の国の守護になりましたが、後醍醐天皇の論功行賞に不満だった彼は、以後足利尊氏側に立って戦う様になります。

九州へ落ちた尊氏を追撃する新田義貞の6万の軍を、則村は僅か2千の兵で迎え撃ち、 2ヵ月間釘付けにしました。尊氏はその間に九州で盛り返し、京都目指して東進します。則村は湊川楠木正成を破り、その功で、播磨摂津(せっつ)の守護になりました。

1391年(明徳2年)、将軍・足利義満の代の時、山名氏明徳の乱を起こします。この反乱の鎮圧に赤松氏も出陣し、功を挙げて、美作(みまさか)の守護の座を手に入れます。

 1427年(応永34年)、将軍・義持赤松満祐(あかまつ みつすけ)播磨国を没収して、愛する赤松持貞(あかまつ もちさだ)へ与えました。満祐は幕府に腹を立て、屋敷に火を放って領国に帰り、籠城します。義持は激怒。満祐の残る二つの領国を取り上げ、美作を赤松貞村(あかまつ さだむら)へ、備前赤松滿弘(あかまつ みつひろ)へ与えます。そして、満祐討伐の命を下します。美作や備前を貰った貞村と満弘は出兵しますが、一色義貫(いっしき よしつら)は出兵を拒否します。

ところが、にわかに持貞と義持の愛妾との密通事件が持ち上がり、持貞は義持の逆鱗に触れ切腹させられました。この為、赤松満祐討伐の件は立ち消えになりました。この事件は、管領畠山滿家が赤松満祐を討伐から救う為に仕組んだ工作だったとか・・・

その後、将軍・義教(よしのり)の代になると、満祐は粛清の影に怯(おび)える様になり、ついに1441年(嘉吉(かきつ)元年)、義教を暗殺します。

赤松満祐は討伐軍を迎え撃つ為、播磨の坂本城に戻ります。世間は、理不尽な理由で追討される赤松氏に同情的で、討伐軍に加わる者達の士気は低く、動きは緩慢でした。逆に赤松氏の領地を狙っていた山名氏一族の軍は意気盛んでした。

討伐軍は坂本城を、摂津、但馬、美作からと、三方から攻めました。

1441年9月、満祐は坂本城を捨て、城山城に籠城しましたが力尽き、嫡子の教康(のりやす)や弟の則繁(のりしげ)義雅(よしまさ)、孫の千代丸など17人を城から脱出させ、満祐自身と残存した69名は自害しました。弟の義雅は城を脱出した後に敵方に居た赤松満政に投降、千代丸を満政に託して義雅は自害します。千代丸は赤松滿政によって匿(かくま)われ、寺に入ります。千代丸は成人して赤松時勝と名乗ります。時勝の子の政則の代になり赤松家は再興され、播磨・美作・備前と加賀半国戦国大名になります。

 

山名氏の場合

山名氏は清和源氏の流れを汲む新田氏の一門です。山名氏は長い間鳴かず飛ばずの時を過ごしましたが、新田義貞が挙兵した時、山名氏は惣領の新田氏に従い討幕運動に身を投じます。山名時氏は初め新田軍で参戦しましたが、箱根竹之下の戦いの途中で足利尊氏に寝返ります。

世渡り上手と申しましょうか、時には南朝方に与(くみ)して京都に攻め入ったり、足利直冬(あしかが ただふゆ)に加担して足利義詮と対抗したりして色々ありましたが、最後は因幡伯耆丹波・丹後・美作を安堵する事を条件に、足利幕府に帰順します。

山名氏は日本全国66ヵ国の内、丹後、伯耆(ほうき)紀伊因幡(いなば)丹波、山城、和泉、美作(みまさか)、但馬、備後(びんご)、播磨(はりま)の11ヵ国を領していました。実に国の六分の一に当たりますので山名氏は別名「六分一殿」と呼ばれていました。

3代将軍・義満は、強大な山名氏の力を削ぐ策を練ります。

 義満は、山名氏清滿幸(みつゆき)に、不遜な時煕(ときひろ)氏幸(うじゆき)を討伐せよとの命令を下します。氏清は甥の氏幸を、滿幸は従兄弟の時煕を討ちに行きます。時煕と氏幸は赦しを乞い、許されますが、義満は更に同族内が不和になる様に仕向けます。

1391年(明徳2年)、氏清滿幸義理(よしただ or よしまさ)と共に、幕府に余りの理不尽な遣り方に反発し、叛旗を翻して明徳の乱(内野(うちの)合戦)を起こします。氏清は討死し、滿幸は敗走、義理は出家しました。

明徳の乱によって、山名氏が持っていた領地は守護大名達の格好の猟場となりました。最終的に山名氏の手元に残ったのは3ヵ国でした。

因みに山名氏の領有していた国は次の様に再配分されました。

丹後 → 一色詮範   紀伊 → 大内義弘   和泉 → 大内義弘

丹波細川頼元   山城 → 畠山基国   美作 → 赤松義則

出雲 → 京極高詮   伯耆 → 山名氏之   因幡 → 山名氏家

但馬 → 山名時煕

1339年(応永6年)、幕府の理不尽な内政干渉に追い詰められた大内義弘は、幕府に対して反乱を起こします。応永の乱が勃発します。

この乱によって山名時煕は功を挙げ、備後・安芸・石見の3か国の守護になりました。

大内氏の勢力拡大を懸念した幕府が、その押さえに山名氏を配置する必要から、山名氏に3か国を与えたのでした。山名氏の勢力を削ぐために明徳の乱を起こさせて山名氏を没落させたのに、今度は大内氏の抑えに山名氏を利用しているのです。

1404年(応永11年)山名時煕に男子が生まれます。後の持豊(もちとよ)(=山名宗全)です。彼は10歳で元服します。長兄を差し置いて次兄・持煕(もちひろ)が後継ぎに指名されます。この指名は将軍・義教自らが決めました。長兄はその後早世します。なので、次兄・持煕がすんなりと家督を継ぐと思われましたが、持煕は義教の勘気を蒙り廃嫡されてしまいます。そこで3男の持豊が父の死後に、父の持っていた備後・安芸・石見の領地と共に家督を継ぐ事になります。廃嫡された持煕がこれに不満を抱き、挙兵しました。持豊は兄を討ち、山城の守護にもなりました。

1441年(嘉吉元年)、赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺する事件が起きます。当日、山名持豊も赤松邸の宴席に居ましたが、いち早く逃げました。

彼は赤松満祐討伐の総大将になります。討伐に出発する前から、持豊は京都で略奪・乱暴を働き顰蹙(ひんしゅく)を買いますが意に介せず、更に討伐軍を動かす前に先遣の守護代を播磨に送り込み、押領してしまいます。この戦いで大功を挙げ、持豊は播磨を獲得。父から相続した3か国と山城と播磨を加えて5か国の守護になりました。また、一族の得た石見、美作、伯耆備前因幡と合わせると10ヵ国になり、以前の勢力をほぼ回復した事になります。

持豊は嘉吉の乱で殺された山名煕貴(やまな ひろたか)の二人の娘を猶子にして、一人を細川勝元に嫁がせ、一人を大内教弘に嫁がせ、縁戚関係を結びます。この様にして押しも押されぬ地位を確保、畠山持国を失脚させます。

将軍・義政山名持豊を討伐しようとしますが、細川勝元のとりなしで持豊が隠居する事で何とか丸く収めました。やがて、再び山名宋全(=持豊)が政治に復帰すると、幕府内の主導権争いが過熱してきます。

 

余談  内野(うちの)、大内

「内野」は野球のナイヤではありません。御所の敷地内の事を指します。大内と言うのも御所の敷地内の事を指します。大内守護は、その敷地内の警護をする役目です。源三位頼政や、承久の乱で討たれた源頼茂も大内守護です。