畠山家の家督を巡り、義就 (よしひろ(orよしなり))と弥三郎政久との間で熾烈な戦いが繰り広げられてきました。弥三郎が亡くなった後も、その弟の政長との争いが続き、ついに京都の上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)で対決する事になりました。(御霊合戦(ごりょうがっせん))
蜜月から破綻へ
ここに至るまでに様々な事がありました。当初、畠山家督を巡る争いで、細川勝元と山名宗全は、結束して弥三郎を支持していました。それは弥三郎が政長に代わっても同じでした。
勝元と宗全は、敵対するよりは手を結んだ方が得策と考え、勝元は宗全の養女と結婚したのです。ところが、宗全は政長支持から義就支持に鞍替えします。
宗全は、畠山義就に注目していました。兎に角、義就は強い。彼は嶽山城(だけやまじょう)の戦いの時、幕府軍を相手に孤軍奮闘で2年半も戦い抜いたのです。敵にするにも失うにも惜しい人材でした。
斯波義廉(しばよしかど)
1466年(文正(ぶんしょう)元年)、義廉は出仕停止処分を受け、3か国の守護職の返還を命じられました。
義廉は、舅の宗全と猛将・畠山義就が結びつけば得策と、二人の提携に向けて動きます。そんな事もあって、山名宗全は、義就を支援する事にしました。それは政長を見限り、政長を支援する細川勝元と袂を分かつ事でもありました。
義就上洛
1467年(文正元年12月)、義就は宗全に促され、大和から河内に回り、政長の城を次々と攻め落として上洛します。義就は義政に拝謁し、そして、将軍・義政に、政長の管領職の剥奪と畠山の家督を要求します。
翌1467年(文正2年1月6日)、義政はこれを呑んで畠山政長の管領職を召し上げ、代わりに斯波義廉を管領職に任じます。そして、畠山の家督と領国を義就に与えます。
政長はこの仕置に怒り心頭、自邸に火を掛け、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に陣を敷きます。政長は兵を集め、京都の緊張は一気に高まりました。
義就側も手を打ちます。宗全と義就は御所の天皇・上皇・親王などを室町御所にお連れして避難させ、そのまま自分達もそこに居座ってしまいました。幕府側の細川勝元は、ところてん式に室町御所を追い出されてしまいました。勝元は自邸で指揮を執ります。
御霊合戦
1467年(応仁元年1月18日~19日)、京都の上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突します。義政は宗全と勝元へ、政長と義就の衝突は私闘だからお前達は関わらない様に、と釘を刺します。宗全は義政の命令を守らず義就に加勢します。勝元は命令を守り静観します。この結果、政長は初戦で敗北してしまいます。政長は、上御霊神社に放火して撤退し、勝元邸に逃げ込みます。
この時の陣容は次の通りです。
政長軍 畠山政長、神保長誠(じんぼながのぶ(政長家臣)),遊佐長直(ゆさながなお(畠山家臣))
義就軍 畠山義就、山名政豊(宗全の後継ぎ)、朝倉孝景(斯波義廉家臣)
東軍 対 西軍
御霊合戦後、勝元は細川氏族全員に軍の動員を掛けます。山名も斯波も負けてはいません。国元に動員を掛け、京都は軍勢で溢れかえりました。御霊合戦で都が踏み荒らされた上に加えて、急激な人口の膨張で兵糧不足が発生、細川軍は山名軍の米を略奪し始めます。足利義視は義政と同じ東軍にあって、これらの略奪事件などの調停に当たっていましたが、応仁の乱が始まってから約2年後、義視は突然比叡山に逃げ込んでしまいます。
それは義政が、大赦で許した伊勢貞親を復帰させ、政権に加えたからです。「伊勢貞親」と言えば、義視誅伐を義政に具申した張本人(文正(ぶんしょう)の政変)。義視はそのような人物と同じ陣営で活動する訳には参りません。何時寝首を掻かれるか、毒殺されるか義視にとっては危険極まりない相手です。逃げるのは当然でしょう。
義視が比叡山に登ったと聞いた山名宗全は、大歓迎で義視を西軍の総大将に迎えます。
東西両陣営は次の様になりました。
東軍 総兵力16万
主な武将 細川勝元、畠山政長、斯波義敏、伊勢貞親、筒井順永、
成身院光宣(じょうしんいんこうせん)、山名是豊、赤松政則、
その他諸将多数
西軍 総兵力11万
総大将 足利義視(あしかがよしみ)
越智家栄 (おち いえひで)、古市胤栄(ふるいち たねひでorいんえい)、
御霊合戦が第一ラウンドとすれば、第二ラウンドは同年の5月から始まります。それも、あちこちで同時多発的に起きました。
播磨国で赤松氏と山名氏、若狭国で細川氏と一色氏、伊勢国では土岐氏と一色氏が戦い始めます。関東では1455年(享徳3年)関東管領上杉家と鎌倉公方の間で起きた享徳の乱が、応仁の時代になってもまだ続いておりました。
1467年5年26日、各武将それぞれが、敵方が京都に構えているそれぞれの邸宅を攻撃し、潰し合い、火を掛け合いました。邸宅は大きく、火災になれば大火災になり延焼します。翌27日に両軍が一旦引き上げた時には、この合戦で船岡山から二条通り迄焼失したそうです。
新たに西軍に大内政弘が参陣し、戦線は次第に拡大して行きます。武将の館ばかりでなく、三方院、南禅寺、相国寺、稲荷社の堂塔伽藍が全て焼亡しました。東軍有利だったのが西軍有利に展開する様になりました。
焼け野原になった京都での陣取り合戦が膠着状態になり、戦闘はむしろ下火になり、その分、戦火は地方に広がって行きました。
細川勝元の正室は山名宗全の養女です。この養女の本当の父親は嘉吉の乱の時、赤松満祐邸で将軍・義教(よしのり)と共に殺された山名煕貴(やまなひろたか)です。山名煕貴は石見国(いわみのくに)守護大名で、義教の近習でした。彼は赤松邸での事件で即死しています。宗全は遺された二人の姫を引き取り養女にしました。そして、一人を大内教弘の正室に、もう一人を細川勝元の正室にしています。