式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

94 応仁の乱(5) 開戦

畠山家の家督を巡り、義就 (よしひろ(orよしなり))弥三郎政久との間で熾烈な戦いが繰り広げられてきました。弥三郎が亡くなった後も、その弟の政長との争いが続き、ついに京都の上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)で対決する事になりました。(御霊合戦(ごりょうがっせん))

 

蜜月から破綻へ

ここに至るまでに様々な事がありました。当初、畠山家督を巡る争いで、細川勝元山名宗全は、結束して弥三郎を支持していました。それは弥三郎が政長に代わっても同じでした。

勝元と宗全は、敵対するよりは手を結んだ方が得策と考え、勝元は宗全の養女と結婚したのです。ところが、宗全は政長支持から義就支持に鞍替えします。

宗全は、畠山義就に注目していました。兎に角、義就は強い。彼は嶽山城(だけやまじょう)の戦いの時、幕府軍を相手に孤軍奮闘で2年半も戦い抜いたのです。敵にするにも失うにも惜しい人材でした。

 

斯波義廉(しばよしかど)

1466年(文正(ぶんしょう)元年)、義廉は出仕停止処分を受け、3か国の守護職の返還を命じられました。

義廉は、舅の宗全と猛将・畠山義就が結びつけば得策と、二人の提携に向けて動きます。そんな事もあって、山名宗全は、義就を支援する事にしました。それは政長を見限り、政長を支援する細川勝元と袂を分かつ事でもありました。

 

義就上洛

1467年(文正元年12月)、義就は宗全に促され、大和から河内に回り、政長の城を次々と攻め落として上洛します。義就は義政に拝謁し、そして、将軍・義政に、政長の管領職の剥奪と畠山の家督を要求します。

翌1467年(文正2年1月6日)、義政はこれを呑んで畠山政長管領職を召し上げ、代わりに斯波義廉管領職に任じます。そして、畠山の家督と領国を義就に与えます。

政長はこの仕置に怒り心頭、自邸に火を掛け、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に陣を敷きます。政長は兵を集め、京都の緊張は一気に高まりました。

義就側も手を打ちます。宗全と義就は御所の天皇上皇親王などを室町御所にお連れして避難させ、そのまま自分達もそこに居座ってしまいました。幕府側の細川勝元は、ところてん式に室町御所を追い出されてしまいました。勝元は自邸で指揮を執ります。

 

御霊合戦

1467年(応仁元年1月18日~19日)、京都の上御霊神社畠山義就軍と畠山政長軍が衝突します。義政は宗全と勝元へ、政長と義就の衝突は私闘だからお前達は関わらない様に、と釘を刺します。宗全は義政の命令を守らず義就に加勢します。勝元は命令を守り静観します。この結果、政長は初戦で敗北してしまいます。政長は、上御霊神社に放火して撤退し、勝元邸に逃げ込みます。

この時の陣容は次の通りです。

政長軍 畠山政長、神保長誠(じんぼながのぶ(政長家臣)),遊佐長直(ゆさながなお(畠山家臣))

義就軍 畠山義就山名政豊(宗全の後継ぎ)朝倉孝景(斯波義廉家臣)

 

東軍 対 西軍

御霊合戦後、勝元は細川氏族全員に軍の動員を掛けます。山名も斯波も負けてはいません。国元に動員を掛け、京都は軍勢で溢れかえりました。御霊合戦で都が踏み荒らされた上に加えて、急激な人口の膨張で兵糧不足が発生、細川軍は山名軍の米を略奪し始めます。足利義視は義政と同じ東軍にあって、これらの略奪事件などの調停に当たっていましたが、応仁の乱が始まってから約2年後、義視は突然比叡山に逃げ込んでしまいます。

それは義政が、大赦で許した伊勢貞親を復帰させ、政権に加えたからです。「伊勢貞親」と言えば、義視誅伐を義政に具申した張本人(文正(ぶんしょう)の政変)。義視はそのような人物と同じ陣営で活動する訳には参りません。何時寝首を掻かれるか、毒殺されるか義視にとっては危険極まりない相手です。逃げるのは当然でしょう。

義視が比叡山に登ったと聞いた山名宗全は、大歓迎で義視を西軍の総大将に迎えます。

東西両陣営は次の様になりました。

 

東軍     総兵力16万

総大将    足利義政足利義尚(あしかがよしひさ)

主な武将      細川勝元畠山政長斯波義敏伊勢貞親筒井順永、

       成身院光宣(じょうしんいんこうせん)山名是豊、赤松政則

       京極持清、土岐政康、富樫政親、大内道頓、

       その他諸将多数

 

西軍     総兵力11万

総大将    足利義視(あしかがよしみ)

主な武将    山名宗全畠山義就斯波義廉、伊勢貞藤、

       越智家栄 (おち いえひで)、古市胤栄(ふるいち たねひでorいんえい)、

       一色義直、有馬元家、 京極政光、 石丸利光

       富樫幸千代(とがし こうちよ)大内政弘その他諸将多数

 

御霊合戦が第一ラウンドとすれば、第二ラウンドは同年の5月から始まります。それも、あちこちで同時多発的に起きました。

播磨国で赤松氏と山名氏、若狭国細川氏と一色氏、伊勢国では土岐氏と一色氏が戦い始めます。関東では1455年(享徳3年)関東管領上杉家と鎌倉公方の間で起きた享徳の乱が、応仁の時代になってもまだ続いておりました。

1467年5年26日、各武将それぞれが、敵方が京都に構えているそれぞれの邸宅を攻撃し、潰し合い、火を掛け合いました。邸宅は大きく、火災になれば大火災になり延焼します。翌27日に両軍が一旦引き上げた時には、この合戦で船岡山から二条通り迄焼失したそうです。

新たに西軍に大内政弘が参陣し、戦線は次第に拡大して行きます。武将の館ばかりでなく、三方院、南禅寺相国寺、稲荷社の堂塔伽藍が全て焼亡しました。東軍有利だったのが西軍有利に展開する様になりました。

焼け野原になった京都での陣取り合戦が膠着状態になり、戦闘はむしろ下火になり、その分、戦火は地方に広がって行きました。

 

 

余談  細川勝元正室

細川勝元正室山名宗全の養女です。この養女の本当の父親は嘉吉の乱の時、赤松満祐邸で将軍・義教(よしのり)と共に殺された山名煕貴(やまなひろたか)です。山名煕貴は石見国(いわみのくに)守護大名で、義教の近習でした。彼は赤松邸での事件で即死しています。宗全は遺された二人の姫を引き取り養女にしました。そして、一人を大内教弘正室に、もう一人を細川勝元正室にしています。