式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

95 応仁の乱(6) 終結への道

全てのものには始まりが有れば終わりが有ります。けれども、何時の世でも、戦争ほど始めるのは易く、終わらせるのが難しいものは他には有りません。

畠山家の家督争いから始まった応仁の乱は、参戦者のそれぞれの思惑が絡んで様々な様相を見せる様になります。

 

利権の争い。

1467年(応仁元年9月)、大内政弘が1万の軍勢と水軍2千隻を率いて上洛しました。

大内氏細川氏は、瀬戸内海と東シナ海制海権を賭けて長年争って来ました。瀬戸内海は海運の要です。また、莫大な利益をもたらす日明貿易をするには、どうしても東シナ海制海権が必要です。両氏は海上利権の対立に加えて、大内政弘の母は宗全の養女、細川勝元正室も宗全の養女と、因縁浅からぬ仲でした。政弘は西軍の宗全側に立って戦います。

幕府は大内政弘の力を削ぐ為、大内氏の国元を突いて慌てさせ、攪乱する策に出ます。

義政は大内氏の留守を預かっている大内教幸(おおうち のりゆき)大内氏の当主と認めます。そして教幸や大内関係者に、又、東軍に居た豊後・筑後守護・大友親繁(おおとも ちかしげ)にも、政弘を討てと命じます。京都に在って軍を展開していた政弘は、急遽家臣の益田貞兼(ますだ さだかね)を国元へ派遣し、国元の陶広(すえ ひろもり)を援(たす)け、鎮圧します。

 

東軍の将、西軍に走る

 戦時で疎(おろそ)かになっていた政権の運営を軌道に乗せようと、義政は文正の政変で失脚していた伊勢貞親(いせ さだちか)を呼び寄せます。東軍の総大将として活躍していた義視(よしみ)は、伊勢貞親の登場を知るや突然東軍を出奔して比叡山に登ってしまいました。それはそうでしょう。貞親は義視の殺害を企てた人物ですから。

かつて勝元は、義視還俗の折り義視の後見を約束していましたが、事ここに至っては態度を変え、義視に対して再び出家して一生無事に過ごす様に勧めます。失意の義視に宗全が近づき、義視を将軍に奉って迎え入れます。

 

下剋上

その頃、大内政弘山城国をほぼ制圧しており、兵火は地方へと移って行きました。

守護の主だった者が京都に集結して戦っている間、留守宅の領国では守護代や国人達が力を付けてきます。彼等は、殿様の留守を預かる守護代としての立場から、何時の間にか守護を凌ぐ実力を発揮し始める者が出てきます。

国元で起き始めいてる変化に、守護もおちおちと京都で戦っていられなくなりました。勝敗も決せず、成果も上がらず、だらだらと長引く戦に厭戦(えんせん)気分が蔓延してきました。

そんな時、西軍の将・斯波義廉(しば よしかど)の一家臣であった朝倉孝景(あさくら たかかげ)が、義政から越前国守護職を約束されて東軍に寝返りました。守護大名・朝倉氏の誕生です。斯波義廉は、家臣に自分の領土を奪われてしまいました。義政はこうして西軍の切り崩しにかかります。

これは幕府主導によって、家臣が主人の地位を覆した下剋上のケースですが、やがて幕府不在の戦国型下剋上になって行きます。

 

和議への模索

1472年(文明4年)、勝元と宗全の間で和議が諮(はか)られましたが、条件の調整で失敗しました。

そんな時、事態が急展開します。

1473年(文明5年3月18日)山名宗全が亡くなりました。その後を追う様に約2ヵ月後の5月11日細川勝元も亡くなります。これを機に和睦交渉が再開されました。が、応仁の乱の着火点でもあった畠山義就(はたけやまよしひろ(orよしなり))畠山政長は、主戦論を強硬に唱え、決裂してしまいます。

1473年1月7日(文明5年12月19日)、義政が隠居し、義尚(よしひさ)が9代将軍になります。そして、

1474年4月19日(文明6年4月3日)、宗全と勝元の跡を継いだ新世代の山名持豊(やまな もちとよ)細川政元の間で、和議が成立します。

戦争を終わらせる為に二人は手を握り、未だ戦っている畠山義就大内政弘を攻撃します。

こうなると矛の納め時を探していた各武将も、続々と東軍に帰順します。

一色直義(いっしき なおよし)の子の義春が義政の下に出仕してきます。

甲斐敏光(かい としみつ)が東軍に投降してきます。

斯波義敏守護代織田敏弘と共に尾張へ向かい、消息を絶ちました。

義政は大内政弘に「これ以上無駄な事は止めなさい」と『世上無為』の御内書を送ります。

西軍に走った義視も義政に恭順しました。義視の罪は問われませんでした。

投降や帰順しても罪を問われず、処分もされなかったので、外の者達もそれを見て後に続きました。こうして西軍は解体されて行きました。

 

富子の手腕

上洛して10年も転戦を続けていた大内政弘は、軍をなかなか引こうとせず、未だ愚図っていました。長い間戦ってきて何の成果も上げられなかった、と言うのでは儂のメンツはどうしてくれる? 政弘は撤収の名目に拘っていました。義政の妻・富子はそれを察し、義尚の名前で周防(すおう)・長門(ながと)・豊前(ぶぜん)・筑前の4か国を安堵して撤退させます。政弘は喜んで降参し、国へ帰って行きました。

 畠山義就へは撤収費用として1千貫を渡して撤退させています。

畠山義統(はたけやま よしむね)土岐成頼も撤収し、それぞれ国に帰ります。美濃へ帰国する土岐成頼と共に、足利義視とその子・義材(よしき)も同行して美濃へ下向します。大物達が京を去り、ようやく「束の間」の平和が訪れました。

 1477年、文明9年11月20日天下静謐の祝宴が開かれました。

戦争で幕府御料国からの収入が途絶えた中、富子は戦費を武将に貸し付けて、利を稼ぎました。京都七口に関所を設けて通行税を取りました。その遣り口に人々は反発、徳政一揆を起こした程でした。悪辣な守銭奴と罵られ、後世に三大悪女の一人と不名誉な名を冠せられました。

けれど、もし、彼女が居なかったら、幕府は疾っくに財政破綻をきたして潰れていたでしょう。将軍とは名ばかり、財力も兵力も失った足利将軍は、やがて漂流し始めます。

富子は悪名を浴びせられつつも、7万貫の蓄財をしたそうです。現在の貨幣価値にすると40億円くらいだそうです。その程度のお金では、戦時の国家を動かすには焼け石に水でした。

富子は焼失した御所の再建に自らの蓄財をはたき、また、春日祭りの復活に力を注いだと聞いています。彼女が亡くなった時、ほとんど手元に財は残っていなかったと聞いています。

 

 

 余録  長禄(ちょうろく)・寛正(かんしょう)の大飢饉

1459年(長禄3年)から1461年(寛正2年)にかけて、旱魃(かんばつ)や洪水、虫害が発生、また疫病が流行り、都だけで8万2千人の餓死者が出ました。物乞いや餓死者が都大路に満ち、死者は放置され、悪臭が漂いました。堪(たま)りかねて死者を鴨川に捨てます。時宗の願阿弥と言う僧が救民小屋を作りますが、押し寄せる窮民の数に粟粥などの補給が追い付かず直ぐにパンク。僧は救民を諦めて、川原に穴を掘り、一穴に千体とも二千体ともの死者を埋葬し始めました。

この天候不順による凶作の原因は、南太平洋にある海底火山クワエ山が、1452年から1453年にかけて数回噴火した事に依り、火山の冬が起きた事にあります。ヨーロッパでも酷い冷害と飢饉が発生しました。因みに、クワエ山の爆発の規模は、富士山の宝永噴火の10倍だったそうです。

 

余録  七五三と寿命

婆の祖母が言っておりました。七五三の祝いは命定めの祝いだったと。

昔は幼児の生存率が低く、三歳までが生存の分岐点、五歳を迎えられれば御(おん)の字、七歳になってやっと命定めが出来たと、皆で喜んだと聞いております。七五三はその節目節目の祝いだったそうです。命定めの病が「はしか」で、それを無事に乗り切れればもう大丈夫だと安心したとか。婆の祖母は明治14年生まれです。

疫痢、赤痢、麻疹、天然痘、そういう大層な病気では無く普通の風邪でさえも、昔は命を落としました。義政の兄弟の11人の内、大人になったのがたったの3人だったと言うのを見ても分かります。(参考: 89 趣味天下を制す 足利義政)