式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変

足利義尚 (あしかが よしひさ)

9代将軍・足利義尚は母親の愛情を一身に受けて育ちました。

母親はあの日野富子。彼女は子供を完全に自分の支配下に置こうとしました。

子供は親の粘土細工ではありません。親の思い通りになる子供にしようとすればする程、反発します。9歳で将軍位を継いだ義尚は、長ずるに及んで自分で何でも判断する様になります。ただ、それは富子の望まない事でした。父・義政も又、隠居と言いながら義尚に政治の実権を渡そうとしませんでした。暇な義尚は、そこで何をしたかと言うと、和歌に興じ、酒と女に溺れました。

 

六角征伐

 近江国六角高頼(ろっかく たかより)と言う守護がおりました。高頼は近隣の国や、公家や寺社の荘園に侵攻し、土地を押領していました。それを成敗してくれと幕府に訴えがありました。

義尚は、この時こそ将軍の威令を示す時とばかり2万の軍を召集し、

1487年(長享元年9月12日)、自ら軍を率いて勇躍近江に出陣します。

義尚は六角氏の居城・観音寺城(かんのんじじょう)を攻撃します。観音寺城は佐々木城とも言い、琵琶湖の東岸にある交通の要衝(現近江八幡市安土)にあります。六角高頼は攻撃をうけるとその城を捨てて甲賀(こうか)の山中に入り、得意のゲリラ戦に持ち込みます。甲賀と言えば甲賀忍者の里。勝敗は決せず戦は膠着状態に陥り、鈎(まがり)と言う場所に陣を敷いたまま、義尚の陣中生活は1年5か月にも及びました。その為、幕府の機能も鈎に移ってしまった様な恰好になりました。朝倉氏を幕府の直臣に取り立てたりもしています。

義尚は、母・富子の手から離れて自由になったものの、箍(たが)が外れて自堕落になり、しかも、常にゲリラの襲撃に脅かされると言う過酷なストレスに晒されました。

1488年(長享2年)、義尚は義煕(よしひろ)と改名します。

1489年(長享3年3月26日)、義尚は近江鈎の陣中で25歳の若さで病没します。

彼は黄疸に罹っていました。死因は大酒と荒淫による脳溢血と言われています。

 

足利義材(あしか がよしき) 

義尚には後継ぎの男子が居ませんでした。そこで、義尚が近江に出陣する9か月前に、彼の猶子となって元服した義材が次の将軍の候補になりました。(義政の養子になったと言う説も有ります) 義材は足利義視の嫡男です。

管領細川政元は、次期将軍に堀越公方足利政知の子・義澄(よしずみ)を推していました。その為、義材の将軍就任は円滑には進みませんでした。しばらく将軍空位のまま、義政が将軍代行として政務を執っていましたが、結局、義政と富子の後押しがあって義材が次期将軍に決まりました。

1490年1月20日(延徳2年1月7日)、義政が薨去(こうきょ)しました。

1490年7月22日(延徳2年7月5日)、足利義材が10代将軍に就任しました。

義材は前将軍の遺志を継いで近江の六角高頼討伐の為に近江に親征、高頼の駆逐に成果を上げます。

六角征伐に成功したので、次に義材は、河内の争乱を鎮圧すべく4万の兵を率いて河内に向かいます。応仁の乱の発端となった畠山家の家督争いがまだ続いていて、畠山政長と、畠山義就(はたけやま よしひろ or よしなり)の子の義豊(よしとよ)が争っていたのです。

 

明応の政変

細川政元

幕府の権威を高めようと将軍が率先して動く事に、細川政元は反対していました。そういう仕事は管領や側近の職掌。将軍は御神輿に徹していれば良い、政務は儂が執る、と彼は考えていました。彼の意図に反して義材は親政を行い、政元と対立します。

また、彼は修験道に凝り不犯(ふぼん)の掟を自らに課しました。修行を成就(じょうじゅ)すれば役行者(えんのぎょうじゃ)の様に何でも思うままに動かせるとでも思ったのでしょうか。変な術を練習したりしていたようです。彼は結婚せず、次から次へと3人も養子を取りました。これが災いして、3人の子は後に跡目争いを起こし、細川家没落の原因となります。

クーデター

1493年(明応2年4月)、細川政元は、義材が河内に出陣している間にクーデターを起こします。

政元は、義材を廃立し、堀越公方足利政知の子・義澄(よしずみ)を擁立します。ところが、このクーデターを後土御門天皇が認めず将軍宣下を拒否、義澄は中途半端な立場になってしまいました。

細川政元は裏で義豊と結託、義材討伐の軍を河内に送り、義材達が本陣を置いていた正覚寺(現大阪市平野区)を襲います(正覚寺合戦)。河内に出陣していた幕府軍は、クーデターの話に激しく動揺、次々と大名達が細川側に寝返ってしまいます。味方だった者が敵方に回り、軍は崩れ、義材は敗北、政長は自害しました。義材は捕らえられてしまいます。義材は龍安寺に幽閉されましたが、かつて西軍に居た神保長誠(じんぼう ながのぶ)の家臣に手引きされて脱出、畠山政長の領地・越中へと落ち延びます。

1495年1月23日(明応3年12月27日)、義澄が新たな将軍になります。

 明応の政変は、家臣が将軍の首を挿(す)げ替えた、正に下剋上の事件として、戦国時代の幕開けの事件と言われています。

足利義澄(あしかが よしずみ)

 足利義澄は、堀越公方足利政知の次男です。

父・足利政知は6代将軍・義教の四男で8代将軍・義政と義視の異母兄です。つまり、堀越公方足利政知は将軍一家の生まれでした。

政知には3人の子がおりました(4人説も)。長男が茶々丸、次男が義澄、三男が童子(じゅんどうじ)と言います。

政知は嫡子・茶々丸を素行が悪い事を理由に土牢に幽閉します。次男については、将来将軍を継ぐかもしれない事を念頭に、天龍寺香厳院に入れて僧侶にします。これは義政・富子の意向でもあったようです。将軍候補控え選手の手駒だったのでしょうか。僧になった次男は法名清晃(せいこう)と名乗りました。清晃が後の義澄です。政知は三男の潤童子を自分の後継者として指名し、嫡男の茶々丸を廃嫡しました。廃嫡を諫めた上杉政憲切腹させられてしまいます。

1491年5月11日(延徳3年4月3日)、政知が亡くなります。その3か月後、茶々丸は牢番を殺して脱獄、継母と潤童子を殺害して堀越公方の座を奪います。彼は恐怖政治を敷き、重臣達も容赦なく斬り殺した事から家臣達は茶々丸を支持しなくなりました。

伊勢新九郎こと北条早雲の登場

天龍寺に居た清晃は、1493年の明応の政変で還俗して義遐(よしとう)と改名し、更に義高と名を変え、最終的に義澄の名前に落ち着きます。彼は将軍になっても、母と弟を茶々丸に殺された恨みを忘れていませんでした。幕府政所伊勢貞親の流れで伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)と言う者が駿河に居ましたので、義澄は伊勢新九郎茶々丸を討つ様に命じます。新九郎は手勢と今川氏から借りた兵とで茶々丸を攻撃、茶々丸を敗走させます。

茶々丸は再起を図って伊豆を窺(うかが)っていましたが早雲に捕えられ、1498年(明応7年8月)に自害しました。

北条早雲今川氏親と連携しながら領国を拡大して行きます。

 

義材(=義尹(よしただ))の流浪

将軍位から追放された足利義材は、供回り30名ばかりと共に畠山政長の領地・越中国に入り、守護代神保長誠を頼ります。神保勢は義材と共に畠山義豊と戦い、甚大な被害を出しましたが、長誠自身は病気療養中で河内国の合戦に参陣していませんでした。

長誠は、義材の為に放生津(ほうじょうづ)正光寺(しょうこうじ)を御所に造り直し、彼を迎え入れます。義材を細川政元の軍が攻めてきますが、これを神保は撃退します。

義材は北陸の大名達に協力を求めましたが、成果を得られず、越前朝倉氏を頼ります。この頃、義材は義尹(よしただ)と改名します。

1499年(明応8年9月)、正覚寺で死んだ畠山政長の子・尚順( ひさのぶ or ひさより)は、筒井順賢(つつい じゅんけん)、十市遠治(とおち とおはる or とおいち とおはる)の協力を得て、父の仇である畠山義豊を討ちました。この時を捉えて、義尹(=義材)は尚順と手を結び、又、叡山や根来寺(ねごろじ)高野山等の僧兵とも糾合して京都に攻め上ろうとしますが、敗北。義尹は逃れて周防(すおう)大内義興(おおうち よしおき)の下に落ち延びます。

 

余談  茶人・古市澄胤(ふるいち ちょういん)

1499年に畠山尚順が攻撃した相手・義豊側に、古市澄胤と言う武将がおりました。澄胤は興福寺の僧侶出身です。彼は茶の湯には欠かせない重要な人物で、村田珠光(むらた じゅこう or むらた しゅこう)の一の弟子です。山上宗二茶の湯の名人としてその名を挙げています。澄胤の弟子に松屋久幸が居ます。松屋が持っていた三名物の内で、現在所在が分かっているのは、根津美術館に所蔵されている松屋肩衝(まつやかたつき)という茶入れだけです。(肩衝(かたつき)と言うのは茶入れの事で、口の周りが肩が張っている様な形のものを言います。茶入れは抹茶を入れるもので陶器で出来ています。木製で出来ている物を「棗(なつめ)」と言います。茶入れには、丸っこいもの、撫で肩のもの、下膨れのものなどがあり、それぞれの形に名前が付いています。) 

 澄胤は1508年(永正5年)、畠山尚順を攻めましたが敗走し、自害しています。