式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

97 山城国一揆

山城国(やましろのくに)はどこ?

山城国と言うのは、山向こうの国と言う意味です。昔、奈良に都があった時、今の京都は山の彼方の国でした。山背(やましろ)の国、山代とも書きました。

794年、桓武天皇平安京に遷都した時、「山背国」の「背」の文字を忌み、詔を発します。 

「此の国の山河襟帯(きんたい)にして自然に城を作す。斯の形勝に因り新号を制すべし。宜しく山背国を改め山城国と成すべし」

(ずいよう訳) 山背の国は山や川によって襟(えり)や帯の様に囲まれ、自然のお城の様です。その形に因って名前を新しく定めます。山城国と。という訳で、山城国と名付けられました。

山城国は京都の南部に当たります。およそ京都盆地とその周辺の山々を含めた地域で、南は奈良県に接しています。

山城国一揆が起きたのは、その中でも最も大和に近い久世(くせ)郡、綴喜(つづき)郡、相楽(そうらく)郡の地域でした。

 

朝廷のお膝元

山城国は朝廷のお膝元でしたので、皇室領、宮家領、門跡領、公家領、女官領、社家領などの荘園がびっしりとモザイク状にありました。8郡500ヵ村に及びます。そういう地域に、幕府の御料地などが点在していました。

この様な状況から、山城国は守護が領主の様に君臨する土地では無く、六波羅探題守護代わりに警備を担当するとか、山城国に守護が置かれても、何となく監督している様な緩い体制で推移してきました。

鎌倉幕府が出来た頃の守護は、天皇領や摂関家領、公家領などの荘園の警備監督をして、その手数料を得て生活をしていました。ところが時代が下ると、守護は年貢を荘園領主に納めるどころか、半済令(はんぜいれい)の乱用が起き、年貢を誤魔化したり、あたかもその土地から上がる年貢は全て自分の物であるかのように我が物顔に振る舞い始め、戦費に使い、闘茶などに湯水の様に贅沢に使い、挙句の果ては、土地の相続に骨肉の争いを始める始末になってしまいました。お蔭で公家達は窮乏し、明日の食べ物も満足に得られないほど没落してしまいました。(半済令→年貢の半分を納める事。最初の半済令は1349年、ちょうど足利尊氏と弟・直義(ただよし)が戦った観応の擾乱の時に発令、兵糧米徴収が目的でした。但し、後世目的が変化します)

 

山城国一揆の背景

1485年(文明17年)、山城国国一揆が起こります。

国一揆と言うのは、国人(誰の家臣でもない土着の武士達) が起こした一揆の事を言います。

山城国一揆は、土着武士に加えて農民も混ざって蜂起したもので、守護を追い出して自治を始めた特筆すべき出来事でした。

さて、山城国一揆に至る迄の経緯は次の様でした。

時は少し遡ります。

1478年(文明10年)、畠山政長山城国守護になりました。これによって政長は、河内、紀伊越中に山城を加えて4か国の守護になりました。とは言え、長年家督相続で争って来た義就(よしひろ(orよしなり))河内国を実効支配していましたので、河内国に関しては、政長は名目上の守護に過ぎませんでした。そこで政長は、山城国では年貢を半分取る権利や裁判権、警察権、その他様々な権利を一円的に得られる守護領国制の導入を目指します。これは荘園領主にとっても、幕府にとっても苦々しい事態でした。幕府は、山城国については御料国化したい目論見がありましたから、政長が頑張って守護職に邁進するのは迷惑だったのです。

1482年(文明14年)、細川政元畠山政長の連合軍が義就討伐に動きます。が、政元は義就と単独講和して軍を引き上げてしまいます。残された政長は義就と戦い続けます。義就は河内から山城へ侵攻、木津川沿いに軍を展開します。主戦場になった山城国の国人達は彼等に反発します。

 

山城国一揆

1485年(文明17年)、国人衆や惣の農民らが宇治平等院に集まって評定を開きました。彼等は「国中掟法(くにじゅうおきて)を取り決め、36人の代表による自治を行なうことに決めました。

 興福寺「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうき)という日記には、次の様に書かれています。

 「今日、山城の国人衆会す。上は六十歳、下は十五、六歳と云々。同じく一国中の土民等群集す。今度両軍の時宜を申し定めんが為の故と云々。然るべきか。但しまた下剋上の至りなり」

(ずいよう意訳) 今日、山城の国人達が集まりました。上は60歳から下は15~16歳までの者、同様に同じ年齢の農民達が一堂に会しました。それは今度の畠山両軍の退き時を話し合って決める為だそうです。それは当然でしょう。ただしこれもまた下剋上の現れです。

その集会で決議された事は次の通りです。

1. 畠山両軍は南山城から撤退する事。以後入って来てはならない事。

2. 寺社領地の権利関係は元の通りに認める事。

3. 住民は年貢を滞納せず、半済(はんぜい)する事。(本来なら、半済分の年貢は領主に納めますが、この集会での話し合いでは、この半済分を自治費用に充てるようにしました)

4. 新しく関所を作ってはならない事。

一揆側は畠山両軍と交渉。話し合いは難航しましたが、これを実施する為には武力行使も辞さないと毅然とした態度で臨み、結果、畠山両軍を撤退させることに成功します。

 

一揆の崩壊

 1486年6月(文明18年5月)、畠山政長の跡を、伊勢貞陸(いせ さだみち(政所執事伊勢貞宗の嫡男))が守護に補任されます。

貞陸は一揆側の自治を認め、その上で緩い支配をしていきますが、やがて欲を出し、政長と同じ様に山城国全域の一円化を目指す様になります。彼は、大和土豪にして僧侶・古市澄胤(ふるいち ちょういん)守護代にして南山城を治めようとしたことで、国人達の中にそれに随おうとするものと反発する者が現れました。国人同士の間や農民仲間同士、或いは国人対農民の間でも、それぞれ意見の食い違いなどが生じて来て、まとまりを欠いて来ました。年貢を滞納する者達も現れてきました。こうして次第に内部分裂を起こし始めました。澄胤はそういう隙を突いて反抗する者達を弾圧します。あくまで自治を貫こうとした人達は、稲屋妻城(いなやつまじょう)に立て籠って戦いました。が、澄胤はこれを討ち、鎮圧しました。

山城国一揆の約8年間続いた自治は、こうして終わりを告げました。