織田信長が生まれる40年ほど前、美濃の船田で始まった船田の乱は、船田合戦とも言い、土岐氏の家督相続を巡る争いが発端です。この戦いは、美濃一国に留まらず、近隣の尾張、近江、越前を巻き込む広範な地域に及びました。
石丸(=斎藤)利光が居城としていた船田城は、今はすっかり影も形も有りません。岐阜駅から南へ約1.5㎞ 位の所に石碑があるのみです。
この合戦の中に古田氏の名前が出てきますので、もしや美濃出身の古田織部の先祖も関わっているのかもと思い、取り上げてみました。
嫡子 対 庶子
1494年(明応3年)、美濃の守護・土岐家に跡目相続の争いが起きました。
守護・土岐成頼(とき しげより) は、嫡子・政房よりも四男の側室の子・元頼(もとより)を溺愛していました。
彼は元頼を後継者にする為に、守護代の斎藤利藤(さいとう としふじ)と手を結びます。利藤は代官の石丸利光(いしまる としみつ)に「斎藤姓を名乗る事を許す」と釣り、石丸利光を味方に引き入れます。斎藤利藤と石丸(斎藤)利光は元頼を擁立し、政房を討とうと動きます。
それに対して、嫡出嗣子の政房こそ正統な跡継ぎだと、斎藤利国(=妙純(みょうじゅん))が反対します。利国は、利藤の異母弟です。(「利」が付く名前がこれから沢山出てきて紛らわしいので、ここでは「利国」を法名の「妙純」で呼ぶことにします。)
石丸利光は妙純を討とうと兵を集めますが、奇襲に失敗してしまいます。
1495年(明応4年)、利光は、自分の居城の船田城に、土岐元頼、斎藤利藤、その孫の利春と毘沙童を迎え入れます。(利春は間も無く風邪で陣没してしまいます。)
一方の土岐政房・妙純側には、尾張の織田寛広(おだ とおひろ or おだ ひろひろ)が、妙純との姻戚の縁を以って援軍に駆けつけます。
船田合戦
1495年(明応4年6月19日)、石丸利貞、秀道が斎藤方の西尾氏を攻め、これを破りました。更に勢いに乗り、妙純の居城・加納城を包囲しましたが、反撃に遭い、二人とも戦死してしまいます。
1495年(明応4年7月1日)、両者の間で戦端が開かれました。古田氏が石丸利光側についたと聞いた妙純は、弟の利安と利綱を、西郡に居る古田を討ちに向かわせます。それを聞いた石丸利光は、古田救援に1,000人余の援軍を送りました。
7月5日早く、利安、利綱、山田氏、村山氏が石丸方に攻めかかります。石丸方は敗退し、船田城に火をかけて近江へ逃れました。
土岐成頼は城田寺城(きだいじじょう)に引き籠って隠居し、嫡子・政房に家督と守護職を仕方なく譲ります。
城田寺城(きだいじじょう)の戦い
1496年(明応5年5月)、妙純は尾張の織田寛広を支援の為、尾張へ出陣します。すると、その隙を狙って、近江に逃げていた石丸利光が、六角高頼や織田寛村(おだとおむらorおだひろむら)の支援を受けて、美濃に侵攻し、土岐成頼の居る城田寺城に入ります。
それに対する妙純は、近江の京極隆清、尾張の織田寛広、越前の朝倉貞景の援軍を得て、城田寺城を包囲、総攻撃を掛けます。城田寺城は落城。5月30日に利光と利高父子は切腹し、元頼も日を置かずして切腹してしまいます。終戦を迎え、京極、織田、朝倉の軍勢はそれぞれ本国に引き返します。
土岐成頼は剃髪して宗安と名乗り、56歳で亡くなりました。
後日談
〇 妙純と利親(としちか)父子は1496年(明応5年12月)、六角高頼遠征後の帰り、武装した郷民の一揆に襲われ軍は敗退、父子は討死しました。
〇 土岐政房は父と同じ轍を踏み、嫡男頼武を廃嫡、次男頼芸(よりのり)を守護にして美濃を混乱させました。この混乱に斎藤道三が乗じます。
〇 織田寛広は後盾だった妙純死後、衰退。別家織田家から後の信長が出ます。
参考までに群書類従第21(合戦の部)、船田前記(明応4年)の記述を載せます。
なお、( )内の小さい字は、ずいようが後から付けた注です。
群書類従第貮拾壹輯(合戦の部)
船田前記 (明応四年)
七月一日吾兵星(ノ如クニツラネテ)行軍於西郡討古田氏。以其與(与)光(石丸利光)也。光聞之遣鋭卒千餘人救之。以石丸正信新左衛門為上将。國枝氏為助為次将。馬場氏為之副。吾兵以其寡告急。
五日之早利安(斎藤利安)。利綱(斎藤利綱)領山田氏。村山氏曁(至るor及ぶの意)諸兵往而討之。貔貅(読み:ひきゅう、勇猛の兵の意)三千餘人。駢(並)部曲列?隊。一瞻(読み:せん、仰ぎ見るの意)将帥・麾節以為進退動止。朱幡白閃々交色。遠而望之則如雑花亂發。至高春遘(逅)敵於中野。山(山田)氏為先鋒。與國(国枝)氏戦乃捷矣。國(国枝)氏昆季(読み:こんき、兄弟の意)五人倶死。村氏與石氏箭(読み:せん。真っ直ぐの意)鋒相抂(狂)及其交鋒。利安。利綱自左右挟撃大破之。如山壓(圧)卵。馬(馬場)氏同族九人。石(石丸)氏三人。正信等父子三人皆死。刎額(首)者百三十餘級。遭虜十餘。横死者填野。
(ずいよう超意訳) 7月1日、妙純が、西郡の古田氏を討ちに行った、と聞いた石丸利光は、石丸正信を上将、次将国枝氏、馬場氏を副将にして、精鋭千人余の兵を救援に派遣した。
5日の早くから、妙純側の利安、利綱、山田氏、村山氏の諸兵が既に攻撃を始めていた。勇猛な兵三千余人が大将の采配に進むも退くも動くも止むも一糸乱れぬ動きをし、紅白の旗が閃いて遠目で見ると花々が咲き乱れる様だった。村山氏が先鋒、国枝氏の動きは早かったが兄弟5人討死。利安と利綱は左右から挟撃して大いに破った。まるで潰れた卵が山の様。馬場氏9人、石丸氏3人、正信等父子3人討死。討ち取った首は130余、捕虜10余、戦死した者は野に充ちていた。
(貔貅:貔(ひ)も貅(きゅう)も虎や豹に似た獰猛な動物の事です。昔、中国で貔貅を飼い慣らし、戦場で使役したと言う伝説から、貔貅は勇猛な兵士を表す言葉になりました。)
余談 古田城落城
船田の乱の時、古田氏が石丸利光側についた為、妙純は弟の利安、利綱を中之元にある古田城(中野城)に向かわせました。古田勝信と信清兄弟は応戦しましたが、兄弟とも討死し、城も落城しました。たぶん古田城は平城で、館の様な構えだったのではないかと婆は推測しています。
古田の嫡男・古田彦左衛門が政房側に居たので、生存者を、美濃加茂郡八百津に亡命させた、との話があるようです。が、研究者によれば、古田彦左衛門は船田の乱よりずっと前に亡くなっているので、この話は違うと言う説も有ります。
戦乱により古田は美濃、尾張と散り散りになり、系図もかなり混乱しているらしいです。ただし、古田彦左衛門については不二庵(大仙寺)への寄進文が残っていて、実在の人物です。
船田の乱で亡くなった者達を葬ったのが古田山徳林寺と言って、やはり大野町中之元にあります。徳林寺は以前は寂乗山徳林寺と言っていたそうですが、山号の変わった理由は分かっていないそうです。古田織部が天正時代に寺を再建した時に山号を変えた、と伝わっているそうです。