細川澄之(ほそかわ すみゆき)は、永正(えいしょう)の錯乱で暗殺された細川政元の葬儀を手際よく行い、家督者たる立場を示しました。将軍・義澄も澄之を細川家の跡取りと認めました。ところが、それも束の間、事件の揺り戻しが大きく津波の様に伸(の)し掛かってきました。(参照:99 戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱)
近江の澄元
近江に逃れた澄元は青地城(あおちじょう)へ入りました。青地城は現在跡形も有りませんが、場所としては名神高速道路草津JCTの近くです。今も昔も交通の要衝です。
青地氏は佐々木氏支流で六角氏の有力家臣です。六角氏と言えば、9代将軍・足利義尚(あしかが よしひさ)が六角氏討伐で手を焼き、鈎(まがり)の陣で病没してしまった、という因縁があります。また足利義材(あしかが よしき)も討伐を継承しましたが、六角氏を駆逐したものの、討ち滅ぼすまでには至りませんでした。(参照:96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変)
澄元は、かつて幕府に反抗した氏族の勢力圏に入り、更に、甲賀(こうか)の山中為俊(やまなか ためとし)を頼ります。山中為俊は甲賀二十一家の一つです。甲賀二十一家と言うのは、甲賀流忍者の長の一人で、亀六の法などの戦術を編み出した人です。
澄元は近江で国衆を糾合して挙兵しました。
細川氏の内紛
澄之はもともと九条家の出身。細川家に根を張っておらず、地盤が弱い立場でした。 その澄之が、細川政元死後直ちに跡目を継いだとなると、家中は騒然、と同時に反発の機運が沸き上がります。(参照:99 戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱)
3番目の養子・高国は、細川政賢(ほそかわ まさかた)・細川尚春(ほそかわ ひさはる)と畠山義英(はたけやま よしひで)と共に、澄元を後継ぎとして支持、近江で挙兵した澄元に与力します。まず、細川政元の殺害を指揮した薬師寺長忠と香西元長(こうざい もとなが)が血祭りにあげられます。
1507年(永正4年7月28日)、薬師寺長忠は居城の茨木城を、甥の国長に攻められて落城し、討死しました。
翌7月29日、高国や政賢などが、香西元長の嵐山城(京都嵐山の頂上、現在城は消滅)を攻め落とし、元長を討ち取り、
8月1日、高国側に三好之長(みよし ゆきなが)軍も加わって、澄之の居る遊初軒(ゆうしょけん)を攻め落とします。澄之は自害しました。享年19歳。
細川京兆家(ほそかわ けいちょうけ(本家))13代当主にして、室町幕府第29代管領・細川澄之は、わずか40日でその夢を閉じました。
辞世 梓弓(あずさゆみ)張りて心は強けれど 引くて少なき身とぞなりぬる
義材(よしき) 改め 義尹(よしただ)
京都における細川氏の内紛を、遠くからじっと窺っている人物が居ました。それは足利義尹です。彼は、室町幕府第10代元将軍・足利義材です。彼は、将軍職を追われてから名前を義尹と変え、流転の人生を歩んでいました。
義尹は復活を願い、時には朝倉氏や比叡山を味方に付け、京に攻め上ろうとしました。が、細川政元が先手を打って比叡山の主要な堂塔を全て焼き打ちしてしまいましたので、義尹の反攻は実現しませんでした。
義尹は、周防(すおう)の大内義興(おおうち よしおき)の下に身を寄せました。
澄元 対 高国
澄元は、高国はじめ諸将の援けを得て細川家の跡目を継ぎ、管領に就任します。
澄元に阿波からずっと従って来た三好之長は、ようやく香西元長や薬師寺長忠などの政敵を斃し、我が世の春を迎えました。
之長は澄元よりも約30歳も年上です。戦場の場数を踏むこと数多(あまた)、海千山千の老獪(ろうかい)な之長に、19歳の澄元は彼を制御できません。澄元は増長し始める之長を抑えられず、二人の間に亀裂が入り始めます。
澄元を擁立した細川家の人々はこの様子を見て、「澄元では管領は務まらん」「之長をはじめ阿波から従って来た家臣ばかりがのさばっている」となり、次第に澄元から気持ちが離れて行き、高国に心を寄せる様になって行きました。
大内義興は、これを好機と捉えて前将軍・義尹を擁立して軍を発し、上洛の途に就きます。
これに慌てた澄元は高国へ義興と和睦の交渉をする様に命じます。高国は義興と和睦の席に着きましたが、澄元に背いて義興と手を結び、そのまま京都を脱出、伊勢の二木高長に身を寄せます。
流れ公方、帰還す
1508年(永正5年4月9日)、高国は京都に侵攻。高国に呼応した諸大名と共に、将軍・足利義澄や細川澄元、三好之長を攻めました。義澄、澄元、之長ともに近江へ逃れます。
義尹は大内義興に擁されて入洛し、高国に迎え入れられます。
1508年7月28日(永正5年7月1日)、義尹は名前を義稙(よしたね)と改め、将軍に就きます。義稙にとって二度目の将軍職です。彼は、細川家家督の澄元の地位を剥奪し、それを細川高国に与えます。更に、高国を右京大夫・管領に、大内義興を左京大夫・管領代に任じます。
滑り出しは順調でしたが、政権奪還した直後から澄元や之長の反攻が始まります。
如意が嶽の戦い、深井城の合戦、芦屋河原の合戦と、戦いが続きます。
1511年(永正8年8月23日)、足利義澄方と義稙側の決戦が京都の船岡山でありましたが、その10日前に足利義澄が病死してしまいます。旗印を失った義澄方の大将・細川正賢(ほそかわ まさかた)と澄元、三好之長などの兵は6千。足利義稙側には高国軍と大内義興軍の兵合わせて2万。多勢に無勢、正賢は討死し、澄元軍は敗退して阿波へ逃れます。
之長と澄元の死
1518年(永正15年8月2日)、西国の雄・大内義興が領国の争乱を鎮める為に帰国しました。京都滞在およそ10年、何時までも領国を放って置ける訳もありません。彼が京都から抜けて力の均衡が崩れ、高国軍の力が衰え始めました。それがまた戦を呼びます。勢いを盛り返した澄元側は攻勢に出ます。
田中城の戦い(現兵庫県三田市)、越水城(こしみずじょう)の戦い(現兵庫県西宮市)、いずれも高国が敗けてしまいます。高国は追われて近江坂本まで落ちました。
将軍・義稙は負け続きの高国を見限り、高国支持から澄元支持に鞍替えします。
高国は近江坂本に逃れた後、六角氏・朝倉氏・土岐氏等の支援を得て反撃に転じます。
1520年(永正17年5月5日)、等持院で、高国軍と三好之長軍が戦います。
等持院の戦いでは高国連合軍が4~5万、一方、之長軍は4~5千の兵力でぶつかりました。この時、澄元は病気で戦場を離れていました。之長の軍からは次々と戦線離脱と寝返りが続きました。ついに之長の命運が尽き、捕らえられ処刑されてしまいます。
翌月の6月10日、細川澄元が病気で亡くなりました。享年32歳。
余談 亀六の法
「亀六の法」と言うのは戦い方の一つです。亀の様に、攻撃されれば頭も手足も引っ込め、攻撃されなければ頭や手足を出す、という戦法です。相手が推して来たら逃げて隠れ、相手が退却すれば攻撃に転じる、或いは油断してのんびりしている所をやっつける、という戦い方です。
余談 空城の計
1511年(永正8年7月7日)、和泉堺にある深井城での戦いの時、城を守る細川正賢の兵は7~8千。攻める高国軍は2万。これで戦ったのですが、高国軍が大敗してしまいました。
原因は「空城の計」に引っ掛かってしまったのです。
空城の計とは、城を空っぽにして敵を誘い入れ、敵が城に入った途端出口を塞いで一網打尽に討ち取る戦法です。