乱世は無頼無道の野蛮人の世界です。家督を巡る争奪戦や権力闘争は規模の大小を越えて、無限相似形のフラクタルを描いています。
嘉吉の乱、応仁の乱、明応の政変、永正の錯乱・・・そして、将軍・義輝の悲劇、永禄の変へと繋がって行きます。
幕府滅亡への道
土地を得る事は武士としての収入を得る事。収入が無ければ家族も家臣も養って行けません。自ずと土地への執着は真剣になります。
室町政権初期は全国に御料地を有し、勘合貿易で巨万の富を得ていましたので、余裕がありました。家臣を守護職に任じ、将棋の駒の様に転勤させている内は良かったのですが、次第に固定化して既得権益化しますと、幕府が自由に裁量できる土地が窮屈になり、何々守護に任ずると言う恩賞を以って家臣の軍功に応える事が出来なくなりました。土地の活用が窮屈になれば、当然それは幕府自身の収入減にも直結しました。
貿易については、3代将軍・義満の時に始めたものの、4代の義持の時に中断、6代の義教の代に再開しました。そのまま続けばよかったのですが、応仁の乱のころになると、博多港は大内氏に、堺港は細川氏に押さえられてしまい、貿易の主体は大内氏や細川氏に取って代わられました。幕府は抽分銭(ちゅうぶんせん)(=輸入税)を取るだけになってしまったのです。
度重なる戦費、御所や東山第の造営、飢饉疫病等々の出費が嵩み収入が減り、幕府の屋台骨が傾きました。更に幼君の将軍就任が続き、近臣達の専横が常態化し、将軍はお飾りになりました。
幕府が健全に存続して行く為には、財力と軍事力と行政力の三本足が均衡を保って立っていなければなりません。室町幕府の末期になると、その全てが幽霊の足状態になっていました。
その頃になると将軍と言う権威は、千社札(せんじゃふだ)ほどの価値も有りませんでした。家臣は図柄を変えて新しい札に張り替えれば良かった・・・
菊幢丸誕生
12代将軍・足利義晴は細川晴元の圧迫を逃れて南禅寺に逃避していました。南禅寺は洛東に在り、晴元が攻めてくれば直ぐ近江へ逃げられる位置にあります。
1536年3月31日(天文5年3月10日)、足利義輝は12代将軍・足利義晴の嫡子として、東山南禅寺で生まれました。幼名は菊幢丸(きくどうまる)です。「幢」は将軍の旗とか皇后の旗を表す文字です。義晴の意気込みが伝わって来る様な名前です。母は関白太政大臣・近衛尚通(このえ ひさみち)の娘です。菊幢丸は元服して義藤と名乗り、後に義輝と名を改めます。関白・近衛前久(このえさきひさ)と義輝は従兄弟同士です。
これまで足利将軍家の正室は、尊氏、義詮、義材(よしき)を除いて代々日野家から正室を貰いました。
日野家は藤原北家の流れを汲む公家の名家で、土倉(→質屋・貸金業)などとも手を結んだ資産家でした。因みに尊氏の正室は北条流赤橋家、義詮も北条流渋川家、義材の正室は細川家から来ています。
足利将軍家の中で摂関家から正室を迎えたのは義晴が初めてでした。その正室から初めて生まれた子が男子です。義晴はとても喜び、この子を手元で育てました。
大名家の子育て
大名の家の子育ては普通とは違い、親は我が子を手元に置いて育てる事など先ず有りません。
「殿様」は非情の「職業」です。万一敵襲があった場合、同居していた故の共倒れを防ぐために、我が子を他人に預けて育てさせます。時には人質として見殺しにする場合も有るので、親子の恩愛が出来るだけ育たない様に乳母とか、傳育(ふいく)係とかが育てます。親に甘えさせず、子供の時から将たる心構えを教え込みます。獅子は子を千尋の谷へ突き落す、と言われていますが、それは、こういう事 → 過酷な環境に置く事を指して言っているのだと思います。
ただ、この様な「外注子育て」には負の側面も有ります。その負とは、養い親の台頭を許し、飛ぶ鳥を落とす程の勢いを与えてしまう危険性がある点です。今回、菊幢丸の養い親から伊勢氏を外した事で、その懸念を払う事ができましたが、逆に言えば、万一の時の支持層を失った事にもなります。養い親と烏帽子親は親に代わる第二、第三の親になる人です。菊幢丸の場合、義晴の手元で育てる方式に改めた事で、それが手薄になりました。伊勢氏にとっても相当不満があった筈です。なにしろ、政治に口を出す足掛かりを失ったのですから。
菊幢丸元服、義藤となる
1546年(天文15年7月27日)、菊幢丸は朝廷より「義藤(よしふじ)」の名前を賜りました。
同年11月19日、義藤は左馬頭の官職に任じられました。
同年12月19日、六角定頼を烏帽子親(えぼしおや)にして、義藤の元服式が近江坂本で執り行われました。烏帽子親になると言うのは、親ともなり子ともなる関係を結ぶことで、それが一生続きます。本来ならば管領の細川晴元が烏帽子親を務めるべきでしたが、丁度その時、晴元は細川氏綱・畠山政国・遊佐長教(ゆさ ながのり)と戦って敗北し、丹波に逃げている時でしたので、細川晴元の舅の六角定頼の出番となった訳です。もっとも、細川晴元と義晴とは敵対していましたから、事情はどうであれ、烏帽子親を頼まなかったでしょう。
元服翌日の1546年(天文15年12月20日)、勅使を近江坂本に迎えて、義藤は将軍宣下を行い、第13代将軍に就任しました。この時、義藤11歳でした。
勅使を迎えて義藤が将軍宣下をしたと言う事は、朝廷は堺公方の義維(よしつな)を将軍とは認めておらず、義維は将軍を僭称(せんしょう)しただけになります。
その年の暮、義晴と義藤は坂本を離れ、東山慈照寺(銀閣のあるお寺)に入りました。
1547年(天文16年1月26日)、父と共に宮中に参内、後奈良天皇に拝謁しました。
1548年(天文17年)、細川晴元と義藤が和睦、細川晴元は義藤の将軍を認めました。義藤はこれで京都へ帰る事が出来ました。
順風満帆の滑り出しの筈が・・
義晴は息子の為に良かれと思うもの全てに手を尽くしました。自分の目の黒い内に早々と義藤を将軍にし、天皇にご挨拶をし、細川晴元と和解しました。そのお蔭で平和が来ると思いきや、そうは行きませんでした。
細川晴元は義晴の次男・義維を擁立して堺幕府を打ち立てました。が、朝廷はあくまで義晴の嫡嗣子・義藤を将軍と認めています。義晴次男・義維を押し立てて権力を振るおうにも、将軍でない義維では意味がありません。晴元は義維を見捨て、義晴・義藤側と和睦、義晴側に接近します。
驚いたのは三好元長です。義維将軍で共同戦線を張っていた細川晴元が、手の平返しで義晴側についてしまったのです。
晴元と元長は対立します。元長の長男の三好長慶(みよし ながよし)と松永久秀は
元長に従いますが、同じ三好一族でも三好政長と三好正勝は晴元側につきます。彼等は多くの武将を呼び込み、戦い始めました。
義藤(=義輝)がこの争いに巻き込まれて行きます。
余談 戦国武将の生まれ年
足利義輝と同じ時期に、お馴染みの戦国武将達が生まれています。
織田信長は義輝の生まれる2年前の1534年に生まれ、羽柴秀吉は義輝の1年後の1537年に生まれました。
三好長慶(みよし ながよし)は義輝の生まれる14年前の1522年に生まれており、松永久秀は義輝より28年前の1508年に生まれています。
上杉謙信は義輝より6年前の1530年に生まれ、武田信玄は義輝が生まれる15年前の1521年に生まれています。
徳川家康はまだ生まれていません。
余談 後奈良天皇
義輝が将軍宣下して拝謁した後奈良天皇は、大変慈しみ深い天皇でした。
疫病が蔓延していた時「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉・・(以下略)」と書き、般若心経を写経してあちこちの寺に納めたそうです。大意は、「今疫病が流行り多くの人々が亡くなっています。私は民の父母と成ろうとしても徳不足でなれず、大変心を痛めております。」
とあり、私の写経が民の薬になります様にと一心に願い、般若心経を写します、と続きます。その時写経したものが何巻か現在に伝わっているそうです。
その頃、宮中は大変貧乏をしていました。後奈良天皇は宸筆をお書きになって売っていたそうです。そういう窮乏生活をなさっておりましたが、清廉なお人柄で、即位式に献金し、任官を望んだ大内義隆に対して即刻拒否、お金を突き返してしまったそうです。
令和の天皇様が皇太子の頃、後奈良天皇をはじめそのような天皇のお名前を7人挙げられ、範としたいと言われたそうです。