式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

103 戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)

木沢長政

三好元長は希代の戦の巧者でした。主君・細川晴元の命ずるままに、何時も命懸けで戦ってきました。晴元の強敵・細川高国を大物崩れで討滅し、戦功大いにあった元長。ところが彼に対抗する人物が現れます。木沢長政です。

木沢長政は、守護・畠山義尭(はたけやま よしたか)に従属する土豪です。木沢長政はこうもり的性格で、常に自分に有利な方へと泳ぐ人でした。彼は義尭を離れて細川晴元に接近、京都の守備に就きますが、高国が攻めて来ると京都守備を放棄して行方不明。お蔭で、高国は京都を奪還する事が出来ました。その3か月後に再び現れて大物崩れで戦功を挙げます。その長政が、元長の対抗馬にのし上がってきました。元長にとってそれは我慢のならない事でした。

 

細川晴元、功臣・三好元長を討つ

ここにもう一人我慢のならない人物が居ました。畠山義尭です。

木沢長政は、畠山義尭を差し置いて細川晴元に取り入り、堺政権で勢力を増し重要な位置を占めるようになると、義尭の河内国を乗っ取ろうと謀反に動きます。

1532年(天文(てんぶん)元年5月)、三好元長と畠山義尭は手を結び、長政の飯盛山(いいもりやま)城を攻囲します。木沢長政は晴元に援軍を要請、晴元は要請に応じて、山科本願寺証如(しょうにょ)に依頼、一向一揆を起こさせ、元長・義尭の背後から襲わせます。

1532年(天文元年6月15日)、一揆軍は敗走する畠山義尭を追い、6月17日に自害に追い込み、6月20日、和泉顕本寺(けんぽんじ)に逃げ込んだ三好元長(32歳)を殺害しました。

その頃、細川晴元は、近江公方・足利義晴と義輝父子と和解の方向に舵を切っておりました。堺公方・義維(よしつな)をあくまで守り通そうとして、晴元の心変わりを言葉を尽くして諫める元長を、晴元は疎ましく思っておりました。晴元にとって、三好元長は既に用済みでした。用済みならば、今後の益々の台頭を排除する意味でも、切り捨てるのが彼の流儀です。

 

三好長慶(みよし ながよし)

三好長慶三好元長の嫡嗣子です。父・元長が戦死した時、長慶は10歳でした。彼は、父・元長以上に軍事の才能が有り、また、若くして老練でした。

晴元と木沢が焚きつけた一向一揆の暴走は、留まるところを知らず10万にまで膨れ上がり、大和まで侵攻するようになりました。その勢いは証如の制止さえ利かなくなり、享禄・天文の変へと拡大して行きます。一向宗徒は仏敵・興福寺の堂塔伽藍を焼き討ちし、春日大社の鹿などを食べ尽くしたと言われております。

長慶は当時千熊丸と言って12歳でしたが、三好家当主としてその立場をいかんなく発揮、晴元と本願寺の証如の間に入って和睦の交渉をして、成功させます。彼は、本願寺との和睦に従わない一部の一向一揆軍を撃破、彼等の拠点としていた越水(こしみず)城を奪います。この頃、彼は元服して孫次郎利長と名乗ります。が、婆は分かり易い長慶の名前で通したいと思います。

 

「十七か所」の争い

 長慶は晴元に要求します。父が代官職をしていた河内にある十七か所の荘を、三好政長から自分に替えてくれないかと・・・元長戦死後、その土地の代官は政長に取って代わられていましたので、元に復する事を望んだのです。晴元はその要求を拒否します。長慶は幕府にこの件を訴えます。幕府では、長慶の訴えは正しいと裁定しました。長慶が訴え出た「幕府」は堺公方・義維の「幕府」では無く、義晴の方の「幕府」でした。

12代将軍・義晴は、晴元と長慶に和議を斡旋しますが、不調に終わります。長慶は2千の兵を率い、本願寺の証如の後ろ盾を得て入洛、一方、晴元は細川一族を高尾に呼び集めたので、一触即発の様相を呈しました。義晴は畿内の大名に出兵を命じ、正室と義輝を八瀬(やせ)へ避難させます。万一に備えて軍を配備した中で行われた交渉でしたが、結局、長慶は「十七か所」の代官職を得る事無く妥協して和睦を受け入れます。

彼は本拠地阿波に帰らず越水城に入り、この城を居城と定めて勢力を伸ばしていきます。

 

長慶、主君を替える

 長慶は、細川晴元家臣として畠山氏や遊佐氏と共に、木沢長政を討滅します。(太平寺の戦い)

更に、長慶は六角定頼と共に、細川氏綱と遊佐長教連合軍と戦いました。氏綱は故高国の養子で、残存勢力の中心となって晴元を度々脅かしていました。(舎利寺の戦い)

舎利寺の戦いの勝敗は決せず、和睦します。この時、三好長慶は、敵方の遊佐長教の娘と結婚します。この結婚により、長慶は、遊佐長教から父・元長の死の真相を聞きます。

飯盛山城の戦いの時、元長は背後から一向宗徒に襲われて敗北して自害した事、一向宗徒の一揆を起こさせたのは細川晴元だった事、それを策謀したのは三好政長だった事などを知ります。今まで、細川晴元の手先として働いて来た長慶は、主君を晴元から細川氏綱へ乗り換えます。

1549年(天文18年6月12日)、摂津江口城(現大阪市東淀川区)に於いて、三好長慶三好政長を攻撃、長慶は政長を敗死させます。(江口合戦 or 江口の戦い)

政長を支援していた細川晴元は長慶を恐れ近江坂本まで避難、その時、足利義晴と13代将軍・足利義輝を連れて逃げます。

三好長慶は、細川氏綱と共に上洛し、京都を掌中に納めます。

 

終わりのない戦い

将軍と管領管領と元管領、守護と守護、守護と守護代、兄と弟、実子と養子 等々の間で、大小様々な合戦が毎日どこかで行われていました。義輝が将軍在位期間中、数え切れない程の戦がありました。主なものだけでも、

[ 奥州 ]  伊達氏の父と子の争いが家臣や奥州諸侯を巻き込み、戦争をしています。

[ 関東 ]  里見氏の本家と分家が争い、そこに北条氏が絡みます。この戦いは南総里見八犬伝のネタ元になっています。

[ 関東甲信越 ]  甲相駿三国同盟を結んだ武田氏が上野(こうずけ)(現群馬県)に侵攻、上杉政虎(=謙信)が関東諸将の要請を受けて出陣、途中古河御所(こがごしょ)を制圧し、北条氏側の足利義氏を放逐して代わりに足利藤氏を迎えます。上杉政虎小田原城を包囲しましたが、武田信玄川中島の陽動作戦によって小田原城包囲を解き、帰国します。

[ 東海 ]  駿河の今川と三河の徳川が、尾張の織田と争い、桶狭間で織田が勝利します。桶狭間の戦いは、義輝が暗殺される5年前に起こりました。

[ 北陸 ]  加賀の一向一揆が猛威を振るい、上杉謙信が鎮静に出陣しています。

[ 近畿 ]  将軍を巻き込んで細川、三好、松永、畠山などそれぞれが、同族内で分裂、同盟、裏切りなどを繰り返して戦っていました。

 [ 中国 ]  大内氏が尼子氏を破った後、大内義隆に対して守護代陶隆房(すえ たかふさ)(=陶晴賢(すえはるかた))が謀反を起こし、義隆を自害させました。義隆の子も殺され、大内氏に寄寓していた京都の公家達も殺されました。毛利元就はこれを期に徐々に勢力を伸ばしていきます。 

 [ 四国 ]  四国は細川氏と三好氏の本拠地です。両氏は水軍を保有しており、中央で活躍する細川管領家や三好氏の軍兵供給地にもなっていました。阿波が10代将軍・足利義稙(あしかが よしたね)の終(つい)の棲家となった事により、義稙の養子であり11代将軍・義澄の実子でもある義維(よしつな)を擁して、前将軍・義晴や13代将軍・義輝に対抗し得る強力な権威ある切り札を保持していました。

 [ 九州 ]  少弐氏は大内氏の侵攻を受け、次第に衰退していきます。そして、少弐氏は家臣・竜造寺の謀反に遭い、滅亡して行きます。大友氏では、嫡子・義鎮(よししげ)(=宗麟)と庶子・塩市丸との後継者争いが有り、庶子派は嫡子派を次々と殺害、嫡子派は主君・義鑑(よしあき)と塩市丸とその生母を殺害しました。義鎮(宗麟)は生き残りました。

 

義輝の治世の太刀

 将軍とは言え、家臣の手を逃れて近江に落ち延びている父の姿を見て育った義輝は、いざと言う時は己を守るのは己のみと覚悟し、武術の稽古に励んだことと思われます。その稽古は若様の手遊(てすさ)びでは無く、真摯なものだったに違いありません。京流剣法を学び、その腕前はかなりの域に達していたと思われます。義輝は剣聖・塚原卜伝(つかはら ぼくでん)から新当流の剣の奥義を授かりました。その奥義とは人を殺傷する剣術では無く、戦わずして勝つ剣です。その奥義は正に義輝が受け継ぐのに相応しいものでした。

無手勝流をもって治世に活かす方法は、既に卜伝に会うより前に、義輝が編み出していました。それは戦う前に相手の戦意を喪失させる方法です。

例えば、1558年(永禄元年12月28日)、義輝は三好長慶相伴衆に加え、三好義興松永久秀を御供衆にしました。これは破格の扱いでした。何しろ、三好長慶も義興、久秀にしても、将軍の家臣の細川家の、そのまた家臣の身分です。直接口を利いたら「頭が高い、下がり居ろう!」と一括され兼ねない立場です。それが、幕府の地位や役職を与えられたのです。そうやって義輝は三好長慶松永久秀を自分の陣営に取り込む事が出来ました。
また、上記の「終わりのない戦い」で述べた様に、全国で勃発する戦の調停にも乗り出したりしました。そう言う外交努力をし、更に、偏諱を与えたり、相手の官位を申請したりして、宥和の道を懸命に探りました。

けれども、そういう努力が通じない相手も居ます。三好三人衆です。