式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

108 桃山文化 2 障屏画(1)

 日本史の教科書に必ずと言っていい程載っている大政奉還の場面、その時使われたあの部屋は、二条城の大書院です。大書院は、襖・長押(なげし)の上の壁、天井、床の間など全てに絵が描かれており、とても豪華な部屋です。あのような絵を障屏画(しょうへいが or しょうびょうが)、又は、障壁画(しょうへきが)と言います。

障屏画又は障壁画には、金箔や銀箔、青や緑、赤など極彩色に彩られた金碧障屏画(きんぺき しょうへいがor きんぺき しょうびょうが)又は金碧障壁画(きんぺきしょう へきが)と、水墨画のものが有り、どちらも安土桃山時代に最も輝かしく花開いた絵画です。これらの絵画は、安土桃山時代に突然湧いて出たものでは無く、平安時代からの長い積み重ねの中から生まれて来たものです。

 

大和絵

平安時代遣唐使が廃止されると日本国内に国風文化が育まれ、絵も日本風になって行きました。大和絵と言えば、源氏物語絵巻や伴大納言絵詞などが有名ですが、絵巻物以外にも多くの障屏画が描かれました。残念ながら、それらの多くは戦乱で焼失してしまいました。

大和絵に描かれる題材は、州浜松原、遠山景色など日本の名勝、松・梅や秋草など樹木・花卉(かき)類、物語、似絵(にせえ)(=肖像画)などがありました。それ等は屏風、衝立、軟障(ぜじょう or ぜんじょう)や巻物、掛物などに描かれました。

屏風などは叙任祝いなどの贈答用に盛んに作られました。大和絵の屏風に名筆家の色紙などを張ったものなどは、最高の贈り物でした。

寝殿造は間仕切りが無い為、間仕切り用のそれらの調度は必需品だったのです。

 

大和絵の描き方

大和絵は線描画に彩色したものです。大和絵の絵師になるには、先ず線描きの修行から始めます。線の太さは初めから終わりまで一定で、抑揚は無く、強弱も無く、一本迷いなく引けるようになるのが第一です。そうやって線引きした枠線内を、色ムラが無い様に同じ色で塗って行きます。

対象物に陰影をつけて立体的に見せると言う事はありません。画面構成の中に納めつつも、人物など遠近に関わりなくほぼ同じ大きさで配置します。

写実から離れ、明快で分かり易い絵です。顔料もあまり厚塗りをしません。

もう一つ、吹抜屋台という建物の描き方が特徴的です。屋根なしの室内を斜め上から俯瞰して描いたもので、柱の垂直線と鴨居の斜め平行線で構成された画面に人物を配しています。

 

唐絵(からえ)と漢画

唐絵と言うのは、中国大陸から伝来した絵の事です。大陸から禅宗が日本にもたらされ、交易が盛んになると共に大陸の文物が輸入される様になりました。その頃になると、唐絵と言えば宋や元の絵の事を指す様になります。宋の宮廷画家の絵は彩色されていますが、文人や画僧の絵には墨絵が多く、これらが、それまでの大和絵に多大の影響を与えました。

遠く霞む山、霧の中に浮かぶ樹木、近景の峩々(がが)とした岩肌の山などを、墨の濃淡によって描き分けています。人物画に於いても、風に翻(ひるがえ)る衣の袖や裾を描く線は、太さ細さ濃さ薄さの脈動する様な緩急自在の動きがあり、大和絵の線とは異にしています。

徽宗の「桃鳩図(ももはとず or とうきゅうず)」の鳩の描写は、羽のグラデーションに羽毛の柔らかさが感じられ、鳩の生身の温かさが伝わってきます。桃の花びら一つ一つにも細かい色の変化があり、立体感があります。

この様な唐絵に接した日本の絵師達は、それを自分達の画に大いに取り入れて行きました。

大陸から来た絵を唐絵と言い、それを真似て唐絵風に描いたものを漢画と言います。

 

狩野派の誕生

 戦乱の激動の時代に天下統一の光が見え始め、織田信長の様な新興勢力が現れて来ると、今までにない活気が世の中を動かし始めます。城の建設があちこちで始まり、焼失した寺院の再建があり、そういう所の内装を飾る絵画が、求められる様になりました。そう言う時代の要求をいち早く捉えて、大和絵や漢画の融合した力強い絵を提供し始めたのが、狩野元信です。

狩野元信は、将軍・足利義政の御用絵師だった狩野正信の子として生まれました。彼は才能と才覚に恵まれ、大画面で豪華な障壁画の需要に応える為に、大勢の弟子を育成し、それらを受注して行くようにします。弟子達の画力が高いレベルに達する様、また、彼等の画力が同質であるよう、徹底的に個性の発露を禁じ、師が描いた絵手本を学ばせます。この様に弟子を教育し、時の権力者と結びつき、盤石の絵師集団・狩野派を作りました。狩野派はその後400年以上もの間、日本の絵画史に影響を及ぼし続けました。

 

狩野永徳

狩野派の中でも特に不世出の天才と言われたのは4代目・狩野永徳です。安土城や二条城、聚楽第大坂城等の障壁画は永徳とその弟子達によって描かれました。さぞかし見事なものだったでしょう。残念ながら、安土城と二条城は本能寺の変で、大坂城大坂夏の陣で炎に包まれ落城、聚楽第は破却され今に残っていません。

それでも、狩野永徳の絵で残っているものがあります。

洛中洛外図屏風(上杉本)」「檜図屏風」「花鳥図」「唐獅子図屏風」 等々がそれです。

「檜図屏風」は荒々しい幹肌をドーンと屏風に鎮座させた豪壮な構図で、余計なものをこそげ落しており、生命力が樹神となって屹立しています。

「花鳥図」は聚光院(じゅこういん)にある障壁画で、墨で描かれています。聚光院は三好長慶の菩提を弔う為に、子の義継が建立したお寺です。大きく描かれた梅の樹を見ていると婆には、根方から立ち上がる幹の姿が、悍馬がいななきながら棹立ちする姿に見えてしまいます。稀有の武人・三好長慶への思い入れでしょうか。文人画の梅墨図と違って、筆に早さがあり、鋭く、力強く、エネルギッシュな動きがあります。

 

もしもそこで暮らしたなら 

極彩色の金碧障壁画に囲まれて暮らすなんて、どんな気持ちになるでしょう。きっと婆の様な野育ちの者は、雰囲気に圧倒されて委縮してしまうに違いありません。婆は小さい時、よく部屋の中を駆けずり回って障子を破って叱られました。御殿で暮らす若様や姫様は、襖を破いたことなど無いでしょう。きっときちんと躾けられてお行儀良くしていたに違いありません。また、そこに居る人達も無頼な振る舞いをせず、作法に則った立ち居振る舞いをしていたでしょう。だからこそ無傷で今日まで作品が残っているのです。

そうです。最高の芸術作品はその場の空気を支配します。住まう人の行動を規制し、威厳を与えます。来訪者を威圧し、襟を正させ、大人しく恭順させてしまいます。逆に言えば、何より支配者の権威を示す為に、絵のそういう効果を狙って描かせた、と言ってもいいでしょう。

 

余談  軟障(ぜじょう・ぜんじょう)

 軟障は襞(ひだ)の無いカーテンの様なものです。絹布などに松や吉祥の絵、花や景色などを描き、紫色の布を額縁の様にその布の四辺に付けて、上部に紐を付け、御簾の内側などに掛けます。

令和天皇大嘗祭の時、大饗の儀で、天皇様のお座りになる背後に、まるで緞帳(どんちょう)の様な巨大な松の絵の軟障が掛けられました。

 

余談  障壁画と障屏画

障壁画には、襖絵や天井画、壁張り付け絵、杉戸絵があります。

障屏画と言うのは、それらに屏風絵や衝立絵を加えたものを言います。障屏画の方が含む範囲が広いです。なお、掛け軸などは含みません。