日本の絵画史上で巨大な鉱脈の様に太く長く続いて来た狩野派ですが、その長い歴史の中にはマンネリ化などで衰退の気配などを見せたりして、結構山や坂がありました。伝統継承が得手の者は継承に力を注ぎ、飛躍を追求する者は受け継がれてきた伝統に革新をもたらし、守りと攻めが時系列上に上手く綯交(ないま)ぜになって、今日の日本画壇の基底を作って来ました。
この項では、前項で狩野派と狩野永徳に触れましたので、永徳以外の狩野派の主な人々を紹介し、且つ、他派の様子などを述べたいと思います。
初代・正信(1434-1530)
狩野派の祖。室町幕府御用絵師。漢画系。東山山荘の障屏画等を制作。「山水図(掛物)」「周茂叔愛蓮図(しゅうもしゅくあいれんず)(掛物)」「日野富子像(掛物)」等
二代・元信(1476-1559)
正信の子。画才、経営共に優れ狩野派の基礎を築きます。花鳥・山水・人物等、また濃絵(だみえ)、淡彩、水墨等いずれも万能。「四季花鳥図」「細川澄元像」等
四代・松栄(1519-1592)
元信の三男。二人の兄が早世し、狩野家を継ぎます。狩野の画風を守り永徳へ繋ぎます。画風は柔和。「遊猿図」「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」等
山楽(1559-1635)
旧姓木村光頼。永徳の養子になり右腕として活躍。永徳が、東福寺法堂の天井画「蟠龍(ばんりゅう)」を描き掛けで病に倒れた時、それを引き継ぎ見事に完成させます。大画面の扱いは永徳似、画面は温和。「牡丹図」「車争図屏風」等
山雪(1590-1651)
山楽の婿養子。山楽と共に京狩野の中心になります。「寒山拾得図(かんざんじっとくず)」「雪汀水禽図(せっていすいきんず)」「猿猴図(えんこうず)」等
永納(1631-1697)
山雪長男。父の画論を纏めた著書に「本朝画史」があります。大和絵に近い平明で抒情的な画風。「春夏花鳥図屏風」「蘭亭曲水図(らんていきょくすいず)屏風」
長信(1577-1654)
松栄の四男。江戸幕府御用絵師「花下遊楽図」「彦根屏風」等。(花下遊楽図は趣味切手週間の10円切手にもなっています。)
探幽(1602-1674)
永徳の次男・孝信の子。早熟の天才の誉れ高く、16歳で江戸幕府の御用絵師になります。初期は祖父・永徳の影響を受けてか覇気盛んな画風を示していますが、雪舟や牧谿(もっけい)などの水墨画、大和絵などと漢画の融合が見られ、何も描かない空白の地に詩情を表現、新しい境地を開きます。幕府より鍛冶橋に屋敷を賜り江戸に移住。鍛冶橋狩野家の始祖。大坂城、江戸城、二条城、名古屋城、他に大寺院の障壁画を一門を率いて制作。「四季花鳥図」
長谷川派
長谷川派の始祖は長谷川等伯(1539-1610)です。等伯は能登の七尾出身、初期画名は信春です。30歳頃上京。仏画などを描きながら大徳寺に出入りし、雪舟や牧谿等の宋元画や、金碧障壁画などを自学自習。長谷川派を樹(た)てました。
御所造営の時、狩野永徳と受注を争い破れます。永徳亡き後、祥雲禅寺の障壁画を受注します。「桜図」「楓図(かえでず)」「松に秋草図」「松に黄蜀葵図(とろろあおいず)」などを息子・久蔵や一門と共に描きました。その時、久蔵は「桜図」を、等伯は「楓図」を描いています。等伯は他にも「武田信玄像」「利休居士像」等を描いています。
等伯は、将来を期待していた最愛の息子・久蔵を26歳で亡くしました。悲しみの内に描いたのが「松林図屏風」と言われています。寂寞(せきばく)とした無常感が漂う水墨画です。
晩年、等伯は自称「雪舟五代」と名乗っています。事故により右腕を負傷し、手が不自由になり、「松林図屏風」の絵を頂点にして、等伯の画力は次第に下降線を辿って行きます。
長谷川派の絵師
長谷川等伯の四人の息子の外に、等胤、等秀、等誉、等二、宋圜(そうかん)等が居ますが、等伯没後優れた指導者が現れて来ず、長谷川派はやがて普通の町絵師に埋没して消えて行きます。
長谷川久蔵(1568-1593)
等伯嫡男。父を超える才能を持つと言われましたが早世します。智積院(ちしゃくいん)壁画全般。中でも「桜図」
長谷川宋宅(生年?-1611)
等伯次男。父没後後継者になるも、後継就任翌年に卒。「秋草図屏風」
長谷川宋也(生年?-1611)
長谷川左近(1593-没年?)
長谷川等胤(生年?-没年?)
伊達政宗に仕える。瑞巌寺の一連の障壁画の内、「文王の間」「上段の間」「上上段の間」の障壁画
海北派(かいほうは)
海北派の祖は海北友松(かいほう ゆうしょう)(1533-1615)です。父は海北綱親(かいほうつなちか)と言って浅井家三将の一人です。綱親は、友松が3歳の時に彼を京都の東福寺へ入門させます。
友松は禅の修行に励む傍ら、狩野元信に絵の手ほどきを受けました。又、禅寺にある宋元の絵に親しく接し、とりわけ宋の画家・梁楷(りょうかい)の絵に強く影響を受けました。
1573年(天正元年)、織田信長が浅井長政を攻め小谷城が落城した時、友松の父や兄達も討死しました。彼は海北家を再興しようと、武術を練習、その機を窺っていました。
1583年(天正10年)、明智光秀が信長に謀反、光秀は秀吉に討たれ、その家臣だった斎藤利三が捕縛され磔刑にされてしまいます。斎藤利三は友松の親友でした。友松は槍を引っ提げ真如堂の東陽坊長盛と共に磔刑場に夜襲を掛け、斎藤利三の遺体を奪います。彼等は真如堂に利三を葬りました。この頃になってようやく画家の道を本気で歩み始めます。
禅林出身の彼の絵に金碧障壁画の数は少なく、殆どが水墨画です。金砂子の霞を刷いている絵もあります。武人魂の発露か、ド迫力の雲龍図があるかと思えば、「袋人物」と言われる様な、簡略化した丸っこい線で描いた人物画も有ります。
代表作 建仁寺障壁画全50面。「雲龍図」「雲龍図屏風」「松に叭々鳥図(ははちょうず)」「飲中八仙図」
海北派の絵師
海北友松その人が、画家たる事を恥じていたので、子の友雪に絵の手解きをしましたが、弟子は余り取りませんでした。
友雪(1598-1677)
友松の子。友雪は絵屋として絵馬などを描いて糊口を凌いでいましたが、不遇のこの時期に春日局から救済の手が差し伸べられます。春日局は、元は斎藤福と言い、磔刑で死亡した斎藤利三の娘です。友雪は徳川家光に召されて江戸に屋敷を賜ります。妙心寺や禁裏にも出入りを許され、障壁画などを狩野永徳などと共に担当します。
友竹(1654-1728)
友雪の子。友松の孫。京都御所造営や東宮御所造営の時に障壁画を担当します。
海北派は明治まで存続します。
雲谷派(うんこくは)
雲谷派を開いた雲谷等顔(うんこくとうがん)(1547-1618)は、肥前国能古見(のごみ)城主・原豊後守直家の次男として生まれました。本名を原治兵衛直治、号は容膝(ようしつ)です。絵を狩野松栄(或いは永徳)に習います。
1584年、肥前有馬の戦いで父が戦死し、原家は絶えましたが、直治は毛利輝元に召し抱えられ御用絵師になります。輝元は直治に雪舟が住んでいた雲谷庵と、雪舟が描いた「四季山水図」を下賜し、雪舟を学ぶように直治に指示します。直治は日々研鑽を積み、見事に「四季山水図」を模写、輝元は大いに満足したと伝わっています。輝元の狙いは雪舟の系統を復活させ、根付かせることでした。
直治は剃髪し「雲谷庵」から姓を雲谷、名を雪舟等揚から「等」の一字を貰い等顔と改め、雪舟の正統派の復活を目指します。等顔は茶の湯も連歌も出来る文化人でした。
雲谷の絵は主に水墨画ですが、金箔の上に濃い墨で梅の枝に止まるカラスを描いたりして、金に輝く地に黒いカラスの対比が美しく、新しい試みなどもしています。また、水墨画に淡い色を要所に差したりしても居ます。
雲谷等顔は輝元の庇護を受け、雲谷派も毛利家が続く限り幕末まで続きます。
代表作 「梅に烏図」「春山夏山図屏風」
曽我派
曽我派は室町時代に曽我蛇足が起こした流派ですが、桃山時代の曽我派とはあまり関係ないようです。桃山時代の曽我派は越前に興り、曽我直庵(そが ちょくあん)が曽我蛇足(室町時代の絵師)を遠祖として名乗りました。一種特異な描き方で、細部に拘り彩色にも独特な雰囲気があります。長谷川等伯が描いた仏画に曽我派の影響が多少みられます。金や黒、赤や緑などで仏の衣や宝飾などをこれでもかという位細部を描き込み、荘厳(しょうごん)しています。
曽我蕭白(そが しょうはく)は曽我を名乗っていますが、これは自称です。曽我派を自学自習し、曽我派の色彩感覚に形のデフォルメを施し、妖怪じみた異様な雰囲気を醸し出しています。
絵屋
流派ではありませんが、絵屋出身の俵屋宗達なども忘れてはならない絵師です。
派閥や流派を作る事により、型にはまった出来映えに成りがちですが、個人プレーだとそういうものに縛られずに、殻を打破する力を発揮できます。
余談 狩野探幽
徳川家康が江戸に幕府を開いたのが1603年です。1602年生まれの狩野探幽を桃山文化の括りに入れるのに迷いがありましたが、彼は狩野派の一つのピークでもありますので、過去からの継承として取り上げました。
余談 祥雲禅寺と智積院
秀吉の子・棄丸(すてまる(=鶴松))の菩提寺・祥雲禅寺は1682年焼失しました。障壁画は持ち出されて、智積院に移されました。
余談 叭々鳥(ははちょう)
ハッカチョウとも言い、ムクドリの一種。翼を広げた時に八の字に見え、おめでたい鳥としています。
参考までに
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「前項で狩野派と狩野永徳に触れましたので、永徳以外の狩野派の主な人を紹介し・・」と、この項の始めに申し上げましたが、前項の記事をご覧になる場合は、右の欄の「最新記事」の「108 桃山文化2 障屏画(1)」をクリックして頂ければ、その項に飛ぶことが出来ます。
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