日本の種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲がもたらされました。この鉄砲によって日本の戦国時代の戦の仕方が劇的に変わりました。信長は鉄砲入手と彼の新奇趣味により、南蛮貿易に積極的に手を出します。このころ世界は大航海時代。当時の世界情勢を少し見てみましょう。
コロンブスの航海
1492年8月、コロンブスはイザベル女王から援助を受けてインドを目指してスペインを出港します。同年10月、コロンブスはカリブ海の島に到達し、彼はその島をインドだと思い込み(西インド諸島)、住民をインディアンと呼びました。島の住民は遠来の彼等を歓待しましたが、コロンブスは彼等を攻撃して征服し、彼等を殺すか奴隷にします。1回目の成功に、コロンブスは2回、3回、4回と航海を繰り返します。2回目からは軍隊を引き連れていました。
彼等は現地で、あらゆる略奪と殺戮を行います。インディアン達は抵抗しますが、銃を持つスペイン軍に対抗する術がありませんでした。コロンブスは皮算用していた量の黄金をせしめる事ができなかったので、一層過酷に彼等を攻め立て、重労働を課しました。働けない者は殺しました。劣悪な環境に追い遣られた彼等は、征服者達が持ち込んだ病気にやられ次々と死んで行きました。彼はそうやって住民の財産と命を奪い、生きている者は奴隷にしてスペインに凱旋しました。
コロンブスに続く者達
1492年、コロンブスが西インド諸島に上陸してから1496年迄の4年間に、原住民は殆ど絶滅してしまいます。働き手が絶えたので、アフリカから奴隷を10万人連れてきて、そこで砂糖とタバコの栽培を始めます。
コロンブスに続いてスペインのコンキスタドーレス(征服者)が次々とアメリカ大陸を目指し、中米・南米を侵略し、アスティカ帝国、マヤ帝国、インカ帝国を滅亡させて行きます。彼等は金山や銀山を占領します。インディオ達を奴隷にして使役し、或いは奴隷として売り捌き、莫大な利益をスペインにもたらします。征服者達は呪術的なインディオ達の宗教を野蛮だとしてキリスト教へ改宗させます。キリスト教の教えに従えば苦しみから救われると、彼等は説きました。
財宝の行方
スペインが得た莫大な富は教会や王侯貴族の贅沢な生活に使われましたが、それよりもヨーロッパ侵略の戦費に多く使われました。イタリア戦争、ネーデルランドの80年戦争、オスマン帝国との戦争、プロテスタントとの宗教戦争、フランス・スペイン戦争、征服地の都市の独立戦争等々ヨーロッパ全域にわたり戦火が拡大します。
また、隷属させられた人々は過酷な労働を強いられ、疲弊して行きます。これが産業自体の衰退に繋がって行きました。毛織物産業はこうして英国に負けてしまいます。
英国はスペインに征服されたオランダの独立運動を陰から支援していました。スペインは英国侵攻に踏み切ります。そして、ドーバー海峡で激突、ついにスペインの無敵艦隊が英国に敗れてしまいます(アルマダの海戦)。無敵艦隊を失ったスペインは次第に没落していきます。
無敵艦隊が敗れたのは1588年、日本で言えば豊臣秀吉が刀狩令を発布した年です。
ポルトガルの場合
14世紀、ポルトガル王ジョアン1世は海洋進出を図り、モロッコのセウタを攻略します。(セウタはジブラルタル海峡に面したアフリカ側の町) そして、ジョアン1世の息子・エンリケ航海王子は更にアフリカ西海岸を航海、ギニアで金と黒人奴隷を獲得します。ポルトガルはローマ教皇からアフリカ西岸航路の独占権と、異教徒を奴隷にしても良いと言う許可を得ます。
ポルトガルはヴェルデ岬(アフリカ大陸最西端の岬)の沖にあるカーボ・ヴェルデ諸島に奴隷貿易中継基地を作り、またアフリカ沿岸各所に商館や要塞を作って貿易の便を図りました。そして、金、香辛料、象牙、奴隷等の商売を始めます。
1482年に航海王子の後押しで、バルトロメウ・ディアスが喜望峰迄到達します。
教皇子午線
1493年5月4日、ローマ教皇が、教皇子午線なるものを発布します。「この線の西側を全てスペインに与える。東側をポルトガルに与える」と言う内容のものです。それはスペインとポルトガルが平和的に棲み分ける為の線引きでした。教皇子午線の地図を見ると、およそ西経30°、東経130°の様に見受けられます。これによってスペインに与えられたのは北米・南米・太平洋のほぼ全域の島々です。ポルトガルにはアフリカ・インド・東南アジアが与えられました。これによると、日本の九州の一部がポルトガル側の線に引っ掛かります。種子島にポルトガル人が来たのは偶然でしょうか?
ローマ教皇の教書はカトリック教徒にとって絶対ですが、プロテスタントにとっては用無しです。ここにイギリスやオランダが絡んできます。そして、昔からイスラムの交易権がアラビア海にありました。という訳で、植民地を巡る戦争が世界各地で起こります。
海洋国家・ポルトガル
1498年、ヴァスコ・ダ・ガマは、香辛料の輸入ルートを模索しているポルトガルの国策に沿って、東方に向けて航海に出ます。喜望峰を回ってアフリカ大陸東海岸沿いに北進し、途中から東進に転じてインドに達します。こうしてヨーロッパからインドへ行く航路が開かれました。
彼は、訪問国の文化を理解しようとせず、行く先々で高圧的に接しました。水や食料を補給するにも言葉が通じず、大砲をぶっ放して住民を殺傷し、力ずくで奪うと言うやり方でインドを目指しました。インドのカルカッタの商人達も結局、武力の恫喝に屈服して港を開きました。この時は持参した毛織物を売って香辛料や宝石などを買いました。
2回目の航海は20隻の艦隊で出発、途中、風に流されて南西に進みブラジルを発見。3回目は14隻の艦隊で出発。いずれも武力を使いながら各地に商館や要塞を築き、植民地化して行きました。アンゴラ、モザンビーク、インドの一部、マカオ、ティモールなどがそれです。
また、ポルトガルは新たに発見したブラジルでサトウキビを栽培し、アフリカから奴隷を連行してきて奴隷制砂糖プランテーションを始めます。そして、胡椒、シナモン、ナツメグなどの香辛料と象牙を輸入、金を収奪、奴隷や砂糖を輸出しました。
マゼラン
フェルナンド・マゼランはポルトガル出身の航海者で、世界を一周し、初めて地球は球体である事を実証した人です。
彼は若い時、ポルトガルが次々とインド洋に艦隊を繰り出すのを見て、その艦隊に志願し、船乗りへの道を歩み始めます。
船乗りシンドバッドの物語に見られる様に、ムスリムの商人はアラビア海の海上交易を担っていました。そこへポルトガルが割り込もうと言うのですから、当然摩擦が起きます。
当時、東方貿易は、コンスタンチノーブルを経て陸路アジアへ向かうルートと、地中海ー紅海ーアラビア海を通ってインドへ向かうルートがありました。地中海貿易を握っていたベネチア商人は事態を重く見て、紅海ルートの拠点・カイロのあるエジプトに資金援助を行います。マルムーク朝エジプトとインドの領主諸侯は連合軍を結成、インドの西海岸の北・ディウ沖でポルトガルと大規模な衝突を起こします。このディウ沖海戦でポルトガルは勝利します。残念ながらマゼランは負傷してしまいます。更に、ポルトガルは、胡椒の原産地がインドではなく香料諸島と言われるマラッカである事を知り、マラッカ遠征軍を出します。マゼランも遠征軍に参加します。ポルトガルのアジア進出は戦いの歴史です。
マゼラン世界一周
マゼランはそれなりの功を上げ本国に戻りましたが、待遇が改善されなかったので、スペインに移ります。
その頃スペインは、教皇子午線内を西回りで行ってインドに達する方法を考えている所でした。そこへマゼランがやって来ましたので、スペインは彼に西回りの航海の開拓を任せます。スペインでは、外国人に大事な任務を任せるのは反対であるとの意見もありましたが、
1519年8月10日、船5隻に人員270人の陣容で、食料2年分、武器や交易品等々を積み、セビリアを出帆します。南米大陸を南下しつつ、大陸の向こう側へ抜ける航路を探している内に1隻が難破します。ようやく発見した水路は狭く、複雑に入り組んでおり、ここで1隻が迷子になり脱落。この船は貨物船なのに、勝手に本国へ帰ってしまいます。これによって食料は残り3か月になってしまいました。
なんとか水路(マゼラン海峡)を抜け出て広々とした海(太平洋)に出ますが、食料を補給する様な島は無く、飢えと壊血病に悩まされながら多くの船員達は亡くなって行きました。
苦難の末フィリピんのセブ島に達し、住民達と良好な関係を築きます。が、その良好な関係をマゼラン自身が壊してしまいます。彼はキリスト教への改宗を強要し、王に服従を迫りました。上から目線で次第に高圧的になり、村を焼き払ったりしました。ついに王はマゼラン達を殺してしまいます。船に残っていた幹部船員達も「王からの招待」を受け、殺されてしまいました。
残された者達がエルカーノを船長にしてフィリピンから香料諸島を経て喜望峰を周り、3年後の1522年に本国に辿り着きました。帰国できたのは18人だけだったそうです。驚いたことに、航海日誌を欠かさず書いていたにもかかわらず日付が1日遅れていました。西回りをすると1日遅れる事をこの時初めて人類は知る事になりました。
その後、何度か西回り航路をスペインは試みましたが、危険が多いと言う事で、この企画は中止になりました。
余談 現代コロンブス論
「アメリカ大陸を発見したのはコロンブスである」と言われていました。が、今ではそれが否定されています。彼が見たのは西インド諸島の一部である、と書き換えられました。また、アメリカ発見記念日「コロンブス・デー」の10月12日は、今では「先住民の日」として虐殺された人々に哀悼を捧げる日に変わりつつあります。
イスラムは、国とか文化、宗教や民族などを語る時に使う言葉です。
ムスリムは、イスラム教を信じている信者を語る時に使う言葉です。