式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

112 桃山文化6 南蛮貿易(3)影響

日本の文化史を見てみると二つの変革点が有ります。そのいずれも外国に由来しています。

一つは仏教伝来です。仏教が日本に定着する様になって、阿弥陀信仰が起こり、仏教美術が隆盛し、今でもお盆行事等習俗・習慣に深く影響が及んでいます。

もう一つが明治維新です。これも黒船によって西洋文明が一気になだれ込んできました。西洋かぶれが一時的な流行に終わらず、その延長線上に現在の私達の生活が築かれています。

仏教伝来や黒船ほど大規模では無いものの、もう二つの外国絡みの出来事があり、それも見逃してはならないと、婆は考えています。それは禅宗の渡来と、南蛮文化の輸入です。

 

二つの宗教

禅宗は仏教の一つの派ですが、それまでの仏教とは少し毛色が違っております。禅宗禅宗寺院内に納まらず、「侘び」や「寂(さび)」の基底を造りました。これも和の文化として今に続いております。

南蛮人が持って来た文物は、それまで見た事もない様な珍しいものでしたが、日本人は憧れを持って素直に受け入れました。「何これ!」と驚きながらも、それを嫌悪・排除せず、「凄い、素晴らしい!」となって取り込んで行く前向きの精神がありました。信長のマントなど、それ迄の着物の常識から見れば吹き出してしまう程の物ですが、世間はそれを認め、持て囃しました。

ただ、残念ながら南蛮文化は、度重なる禁教令によって短い期間に萎(しぼ)んでしまい、深く日本文化に浸透するには至りませんでした。闇夜に打ちあがった花火の様に華やかに開いて消えてしまいました。

けれど、確かにそれがあったと言う証拠が、祇園祭の山鋒の前懸(まえかけ)や胴懸(どうかけ)、或いは見送り(山鋒の後部に架けられた懸物)に見られます。ペルシャやインドで織られた絨毯(じゅうたん)、ベルギー製のタペストリー、中国で織られたものなどは、海を越えてやってきたものです。また、南蛮図屏風が描かれたり、工芸品などに南蛮人をモチーフにしたデザインが有ったりします。

セミナリオで描かれた聖母子像などは、その後の禁教令によって破棄され、教会などの破却や、信者への弾圧などにより、キリスト教の影響は次第に拭(ぬぐ)われていきました。

 

ジパングの奇跡

スペインやポルトガルが世界各地を侵略して植民地を作った様に、「黄金の国」と称されるジパングを、何故侵攻しなかったのか疑問です。ポルトガル王室艦隊が東シナ海にやって来て、海賊や密貿易を取り締まり、明との信頼関係を築いたと、前項の南蛮貿易(2)で述べましたが、この艦隊派遣に「あわよくば」と日本侵略の下心が有ったとしても不思議ではありません。

日本にとって幸いなことに、侵略も占領も受けずに平和的な交易が行われ、彼等と良好な関係を築く事が出来ましたが、実は・・・と言えば、スペインもポルトガルも他国を侵略する程の余力が無かったのです。植民地の地域が伸び過ぎていて、兵員の配置が間に合わなかったという事情に加えて、ヨーロッパに於ける戦費増大で赤字経営の状態になっていました。

彼等は、宮の前事件(南蛮貿易(1)と(2)参照)で経験して、日本の武士達の強さを実感したに違いありません。色々な条件が重なって、黄金の国ジパングは奇跡的に植民地にならずに済みました。

 

キリシタン浸透

信長は貿易で得られる利益に目を向け、布教活動と商業活動が一体化しているキリスト教を容認しました。信長は、貿易の利益目的だけではなく、キリスト教を入れる事によって、日本の仏教の増長を抑えようともしていました。

 1549年、ザビエルが日本に着いて布教を始めました。この頃の受洗者(洗礼を受けた人=信者)は1400人だったと言われています。この年、日本での出来事と言えば、三好長慶が前将軍・足利義晴と13代将軍・義輝を近江坂本へ追い落しています。

 1565年と1569年に、正親町(おおぎまち)天皇が異教の伴天連を嫌って、追放令を出しました。1565年と言えば、剣豪将軍・足利義輝が暗殺された年です。また、1569年は信長が将軍・足利義昭の為に二条城の造営に着手し、ルイス・フロイスキリスト教の布教を許可した年でもあります。信長は正親町天皇の意志を無視しました。こうして、信長はキリスト教を保護しましたが、

1582年6月21日(天正10年6月2日)、本能寺の変が起こります。この時のキリシタンは15万人いたと言われています。

 

キリシタン禁教令

信長亡き後、その跡を継いだ秀吉は、九州で三つ巴の戦いをしていた島津氏、大友氏、竜造寺氏に停戦命令を出しますが、島津氏は聞き入れません。

1586年(天正14年)、関白秀吉は西国諸大名に島津氏の追討を命令します。
1587年(天正15年)、秀吉は弟・秀長と共におよそ30万の大軍を率いて九州平定に出陣します。余りの大軍に九州の諸将の多くは戦わずして降伏しますが、島津氏は最後迄抵抗します。
同年4月、島津氏を降(くだ)した帰り道に、秀吉は筑前筥崎に寄り、長崎がイエズス会の領地になっていた事を知ります。しかも、その領地が要塞化されていました。医師の薬院全宗(やくいん ぜんしゅう(施は読まない))の言葉によれば、彼等は信者以外の者を奴隷として売っている、と言うのです。

1587年7月24日(天正15年6月19日)、秀吉は長崎で、コエリョとカビタン・モールに、ばてれん追放と貿易の自由を宣告します。

 

サン・フェリペ号事件

1596年8月28日(文禄5年・慶長元年7月5日)、スペインのガレオン船・サンフェリペ号が、フィリピンのマニラからメキシコに行く途中、嵐に流されて土佐に漂着しました。スペインのガレオン船と言うのは、3本マストを備え、500t~600t、砲門が1列から2列あり、軍艦にも商船にもなる船でした。

日本側は取り調べの中で、「お前たちは海賊であろう」と言ったものですから、船員が怒って世界地図を示し、「日本はこんなに小さくて、俺達の国の方がこんなに大きい」と自慢しました。

「なぜそんなに大きいのか?」と日本側が問い質した所、こう言いました。

「スペイン国王は世界中に宣教師を遣わして布教させ、その土地に信者を増やしてから征服しているからだ」と話しました。

長崎のイエズス会の教会領地の件と言い、サン・フェリペ号の話と言い、これはもうキリスト教を排除するしかない、と言う結論に至って、同年の12月18日に秀吉は再び禁教令を出します。

そして、フランシスコ派の宣教師と修道士6人と、日本人信徒の20人が捉えられ、

1597年2月5日(慶長元年12月19日)に処刑されました(26聖人の殉教)。

この時没収した船の積み荷は朝鮮出兵の資金の一部に宛てられ、外の有力者などにも分けられました。船員達はサン・フェリペ号を修繕してマニラに帰りました。

 

 

余談  南蛮関連語句

南蛮人

「南蛮」の語源は、中国の中原に住む漢民族を中心にして、東西南北に住む異民族を蔑称して言う四夷(しい)或いは夷狄(いてき)の一つでした。

四夷は、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)南蛮北狄(ほくてき)の四つです。  

東夷は、大陸東端沿岸部・朝鮮半島・日本列島に住む民族。西戎は西域に住む民族。南蛮は南方の民族。北狄万里の長城以北の遊牧民族です。

日本で南蛮と言う場合は、南欧のスペイン・ポルトガル・イタリア人などを指します。概して髪の毛が黒いです。これに対してイギリス人やオランダ人は茶髪や赤毛が多いことから、紅毛人と呼びました。

 

キリスト教

キリシタンキリスト教カトリック信者の事を言いいます。英語でクリスチャン(Christian)、ポルトガル語キリシタンです。プロテスタントカトリックでは無いのでキリシタンとは呼びません。ですから、プロテスタントを信じているイギリス人やオランダ人は、キリスト教徒であってもキリシタンとは呼ばないのです。吉利支丹,切支丹、耶蘇教、天主教とも書きます。なお、伴天連(ばてれん)は宣教師を表すバードレから転じたものです。

 

カトリックプロテスタント

 カトリックローマ教皇を中心としたキリスト教の一派で、旧教とも言います。

プロテスタントカトリックに異を唱え、新しく起こしたキリスト教の一派です。新教とも言います。

カトリックで使われる聖書はラテン語でしたので人々は読めませんでした。そこで神父はキリストの生涯やマリア像などを見せて絵解きをして説教をしました。

1515年教皇レオ10世がサン・ピエトロ寺院の建築資金調達の為、贖宥符(しょくゆうふ)を販売します。贖宥符と言うのは「これを買ったら罪が許される」というお札の事です。人々は競って買いました。特にドイツは盛んでした。その時、ドイツにマルチン・ルターと言う神学者が現れて「そんな事は聖書に書かれていない」と反論します。彼は聖書をラテン語からドイツ語に翻訳、それを当時グーテンベルクが発明した印刷機で出版します。ルターの聖書はそれから各国語に訳されて行きました。多くの人がその本を読み、聖書の本当の内容を知る事になります。贖宥符の件に限らず、神父の中には自分の都合のいいようにまやかしの説法をしていた者も居て、ここにプロテスタント宗教改革が始まります。

因みにカトリックは神父や司祭と言います。プロテスタントは牧師と言います。又カトリック教会には絵画や彫刻が飾られていますが、プロテスタントの教会は十字架のみです。