式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

114 桃山文化8 服飾・染織

服飾

小袖

服装は、その時代の空気を良く表しています。

安土桃山時代に流行ったのは、気楽な下着姿でした。小袖と言う名の下着です。

小袖は、狩衣(かりぎぬ)十二単(じゅうにひとえ)等の下に着るものでした。初め、下着は筒袖でした。やがて筒袖に袂(たもと)がつきました。それを小袖と言います。(この小袖が今の着物の先祖になっています)

男子の狩衣や直垂(ひたたれ)、女性の十二単などは広口と言って袖口が縫い合わされておらず、ひらひらと開きっ放しになっていました。小袖は手首を出す所だけ開いていて、後は縫ってあり、袖口が小さく窄(すぼ)まっています。

 

女性の装い

宮廷文化華やかな頃、宮仕えの女性達は正装の十二単で居る事も多かったのですが、武士の世になると公家達の羽振りも悪くなり、唐衣を着けるのを止め、小袖(うちぎ)何領かと(はかま)と、それに表着と言う簡略化されたものになります。

底辺に生きる貧しい女性は、労働着の脛(すね)の出る様な短い袖無しを着て、細紐で着物を締め、手拭の様な布を腰に巻いて働いていました。

同じ庶民でも少し余裕のある女性は、小袖を着流し、細紐で締め、(しびら)というスカートの様な腰巻を着けました。小袖は表着として華やかになり、絞り染めや刺繍が施される様になりました。

小袖は「おはしょり」無しでそのまま着ます。丈が長ければ引き摺り、短ければツンツルテンで着ます。細かい事は気にせず、おおらかです。半幅帯より細い帯か、或いは細紐などで二巻きして前で蝶結びや片結びなど適当に結びます。現代の着物教室で習う様な、かっちりと固めた様に着る着方はしませんでした。

 

腰巻姿

夏になると大名の奥方は、小袖に腰巻姿になります。腰巻と言っても褶を巻いているのではありません。打ち掛けを巻きます。代表的な腰巻姿と言えば、お市の方肖像画(浅野長政夫人像)があります。

ネット画像でよく見ると、お市の方は白絹の綸子の小袖に、赤地の菊立涌(きくたてわく)の唐織の打ち掛けを巻いている様です。唐織の所々に丸華紋の浮線綾(ふせんりょう)という浮き織りが散らされています。浮線綾と言うのは唐織の上に浮き出る様に織るもので、技術的に大変難しい織り方です。表着の白小袖の内側に覗く、僅(わず)かな重ね襟の模様から、その下には全体が白地で、肩と裾に段を設けて草花と雲紋の肩身代わりを着ている様に見受けます。花や雲は刺繍で縫い取られているのでしょうか。それとも、それらの輪郭線が少しぼやけているので、辻が花染めでしょうか。

当時の染色技術の極致と言ってもいい様な御召し物です。

 

男子の服装

武士の出仕服は直垂(ひたたれ)です。お相撲の行司が着ているあの装束です。袴は上着と共布で仕立てられています。上着の脇は縫い合わされていません。

鎧の下に着る鎧直垂(よろいひたたれ)は戦場に臨む武士の晴れ姿、蜀江錦(しょっこうにしき)や緞子(どんす)などを使用し、豪華な装束(しょうぞくorそうぞく)になります。織田信長は南蛮渡来の鎧にマントを着たりしています。信長と言えば、彼が着用した陣羽織は「茶地唐獅子模様陣羽織」と言って非常に精巧に織られた浮線綾の唐織です。豊臣秀吉の「鳥獣模様綴織陣羽織(ちょうじゅうもよう つづれおり じんばおり)」はペルシャ製の絹の絨毯から仕立てられたものです。

直垂は武士の正装に格上げされ儀式の時に着用し、普段の出仕は小袖に袴、肩衣を着用する様になります。侍烏帽子が廃(すた)れ、茶筅(ちゃせんまげ)が流行ります。傾奇者(かぶきもの)なども現れて、常識を外れた異形な姿を誇示、街を闊歩(かっぽ)していました。

 

能装束

この時代はお能が盛んでした。ですから、能装束もきっと素晴らしいものが数多(あまた)あった筈ですが、残念ながら、あまり良く分かっていません。「白地扇面雪持柳模様肩裾縫箔」「紫地色紙葡萄模様擦箔」「桜模様唐織」などなど幾かが伝わっております。ただ、華やかさ美しさから桃山時代の気分を湛えているとして「桃山」の区分に入れているだけで、明確に時代を特定できていない様です。

(領は着物の数え方です。普通の着物は「枚」で数えます。「領」で数えるのは特別上等の物です。例えば十二単とか、束帯・狩衣・直垂とか、能衣装とか、或いは鎧とかです。十二単も、全体で一領ではなく、唐衣一領、表着一領、袿一領とそれぞれ数えます。)

 

繊維

絹の歴史

魏志倭人伝によると、倭の国から魏の国へ染織物を献上していたと言う記録があるそうです。日本書紀には大陸から技術者がやって来て、日本に綾織りなどの織り方を伝えたそうです。吉野ケ里遺跡の甕棺(かめかん)から絹製品の断片が出土した、と言う話もあります。

462年、雄略天皇の時、天皇、后妃をして、親(みずか)ら桑こかしめて、蚕の事を勧めむと欲す」とあります。

(「桑こ」は蚕の成虫。つまりカイコガの事です。「かしめて」はネジなどでしっかり止める事ですが、古代では手放さないで保持するとか、留めるという意味に使っていたのでしょうか。婆の勝手な想像です)

以来、途中長くの中断はあっものの、養蚕は皇后の仕事となっています。美智子上皇后様から養蚕を受け継がれ、雅子皇后様も「お蚕さん」を飼っておいでです。

 

綿の歴史

日本に綿の種が伝来したのは799年(延暦18年)だそうです。が、日本の風土に合わなかったのでしょうか。根付きませんでした。その後、専(もっぱ)ら綿を輸入していましたが、大陸でも生産が少なく、大変貴重で高価でした。それでも何とか工夫して室町時代から日本でも綿花の栽培が始まりました。戦国時代の後半になるとかなり作付面積が広がりました。

綿布は暖かく丈夫なので需要が多く、次第に生産量が増えました。夢の繊維の木綿は、下着や小袖は勿論の事、耐久性があり、仕事着や、侍の兵服に持ってこいでした。

桃山時代になると木綿はかなり普及しました。松坂木綿などが有名です。

 

その他の繊維

麻、苧(からむし)(別名苧麻(ちょま))、(くず)、(こうぞ)などは、植物の茎を細かく裂いて繊維にしたものです。庶民の着るものは大体こういう繊維で織られた布で作られていました。特殊なものに、蹴鞠(けまり)で着る袴が有ります。蹴鞠袴は交織されています。蹴鞠袴は経糸(たていと)に麻や綿や絹、緯糸(よこいと)に葛が使われているそうです。(葛布(くずふorくずぬのorかっぷ))

 

染色

先染め

染色には先染めと後染めが有ります。先染めは布を織る前に糸を染めます。

先染めの糸を使って、平織、綴織(つづれおり)経錦(たてにしき)緯錦(よこにしき)緞子(どんす)、浮線綾など様々な織り方で布を織りあげます。

 

後染め

後染めは、布を織ってから生地を染めます。

後染めには色無地、纈染(けちぞめ)などの手法があります。捺染(なっせん)手描き友禅染は、未だこの頃には有りませんでした。

纈染には、纐纈染(こうけちぞめ)夾纈染(きょうけちぞめ)臈纈染(ろうけちぞめ)、の三つの方法があります。この三つの纈染は奈良時代から用いられた染色方法です。

纐纈染は絞り染めの事です。夾纈は板で強く挟んで染料が染み込まない様にする染め方、そして、臈纈は蠟(ろう)で防染して模様を描く方法です。

 

辻が花染め

辻が花染めは、安土桃山時代に全盛した絞り染めの一種です。本当の作り方は謎に包まれていて、良く分かっていません。絞り染めの代表は、糸で点々と絞って作る鹿の子模様が有名ですが、辻が花染めは、多分描きたい模様の絵の縁に沿って麻糸で縫い、その糸をぎゅっと絞って作ったようです。

 

染料

化学染料の無い時代、当時は主に草木などを煮だした天然染料で染めていました。

藍、茜(あかね)、ウコン、槐(えんじゅ)、苅安(かりやす)、キハダ、クチナシクヌギ、五倍子(ふしorごばいし)、蘇芳(すおう)、紫根、紅花、などなどが染料の元になっています。

絹はタンパク質で出来ているので、タンパク質の分子と染料の分子が電気的に結びつき易いので染色し易く、良く発色します。

麻や苧はセルロースと言う植物繊維で出来ています。セルロースの分子と染料の分子は引きあう力が弱く、なかなか結び付きません。

そこで仲人役の媒染剤が必要になります。媒染剤には灰汁(あく)や鉄や銅、ミョウバン,酢などを使います。

 

余談  十二単(じゅうにひとえ)

十二には「御馳走を十二分に頂きました」と使われる様に、沢山と言う意味があります。十二単という名前は、後世の人が、沢山重ね着をしていた宮廷女性の装束に勝手に名付けた俗称です。正式名称は五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)と言います。

十二単の初めの頃は、単衣(ひとえ)の着物(この場合は袿と言う着物)を何領か重ねていましたが、やがて袷(あわせ)に仕立て、裏地を表地よりはみ出させて縫い、外から裏地が見える様にしました。そうすると、一枚着ても二枚着ている様に見えます。また、引き摺って歩くので、裏生地がはみ出している分、表地が汚れないと言う効果もありました。