式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

117 桃山文化12 焼物(3)・茶の湯

六古窯で焼かれていた焼き物は、甕(かめ)や擂鉢(すりばち)、瓦が多いようです。

甕が多いというのは不思議な気がしますが、考えてみれば成程と思い至ります。何故なら、生活で何よりも必要な物は「水」だからです。お水を入れる甕が最も重要な生活必需品になります。

水の確保の為に井戸を掘り、個々の家で水甕を用意し、煮炊きに使いました。水甕から柄杓一杯の水を汲み、喉の渇きを癒しました。水甕のみならず、塩や味噌を入れる壺などにも大いに需要があったことでしょう。

古代から室町時代の頃までの焼物は、食器よりも、甕や土鍋、擂鉢、酒器などを作る方に主軸を置いていたようです。絵巻や屏風絵などを見ても、また、古の復活料理の画像を見ても、膳に乗っているのは、陶器では無く漆塗りの椀や丸皿です。

陶器の食器が膳に並ぶのは、室町時代になってからの様です。

 

茶礼 (ちゃれい or されい)

禅寺の茶礼で使う茶碗は、青磁や天目といった唐物の茶碗でした。

建仁寺には栄西の誕生日に行う法要に、四頭茶礼(よつがしらちゃれい)と言うのが有ります。大方丈で行うそれは、栄西頂相(ちんそう(肖像画))を中央に、両脇に竜虎図を飾り、三つ具足を供えて、4人の正客をお呼びして行う茶礼です。4人の正客にそれぞれ8人の相伴客が付きますので、お客様は全部で36人になります。その時に用いられるのが天目茶碗です。前もって抹茶の入った茶碗が配られ、僧が浄瓶(じょうびん)(=水差し)と茶筅を持って、客に順次お湯を注いで回り、茶筅でお茶を点てて行きます。

四頭茶礼と言う様な大きな法要は別にして、修行僧達は日に何度か全員揃ってお茶を飲む時間があります。お茶を飲み、眠気を覚まし、心身爽やかにして座禅三昧に耽(ふけ)るのですが、それらの所作は全て清規(しんぎ)という作法に則(のっと)り、無言で行われます。

今では、茶礼は抹茶とは限らず、煎茶、番茶、焙じ茶などが使われ、茶碗も普通の湯呑で行われるようです。

 

闘茶

やがて茶礼は武士階級にも広がり、南北朝時代にもなると、俗世では姿を変えて闘茶へと移って行きます。闘茶は会所と言う会場で行われました。闘茶はお茶の産地の当てっこ遊びです。豪華な景品を沢山賭けて破産者も出る程でした。ここでの茶碗も唐物の茶碗です。今も昔も、どうも日本人は舶来物を尊ぶ風が有るようで、当時の「偉い人達」は大陸からの輸入ものを持て囃(はや)し、そういうものを持つ事をステイタスとしていたようです。(参照:「77 闘茶」)

 

淋汗茶の湯(りんかんちゃのゆ)

戦国時代、古市澄胤(ふるいち ちょういん(=古市播磨))と言う大和の興福寺衆徒の武将が、「淋汗茶の湯」という茶会を開く様になりました。淋汗茶の湯と言うのは、闘茶の替わりに賭け事をしないお茶会で、その代りにお風呂を振る舞い、宴席を設けて酒盛りをする、という、なんとも派手で賑やかなお茶会でした。お風呂と言っても昔は蒸し風呂です。蒸し風呂部屋の周りに展示物を飾り、松や竹を庭に植え、築山から滝を落して客人の目を楽しませるという大掛かりな物でした。お客様は百人も呼んだそうです。

古市澄胤はそのころ山城国一揆を鎮圧中で、また、筒井順尊(筒井順慶の曽祖父)とも交戦中でしたので、彼は地盤の結束を固める為に、或いは勢力範囲を広げる為に、そういうパーティーを頻繁に開いていたのではないでしょうか。

この古市澄胤が、村田珠光(むらたじゅこう)の弟子になりました。珠光は、澄胤の「お茶」に名を借りた派手な歓待行事を諫め、侘茶を教えます。珠光は「心の文」という手紙の中で、澄胤にお茶の心を諭します。

古市澄胤は、珠光の一番の弟子になります。山上宗二古市澄胤を称して「数寄者、珠光の一の弟子、名物其数所持の人也」として、茶の湯の名人に数えています。残念ながら、後に澄胤は畠山尚順(はたけやま ひさのぶ or ひさより)と戦い敗走、自害してしまいます。

澄胤の弟子に豪商・松屋久幸が居ます。松屋久幸は「松屋三名物」を所有していた茶人として有名です。

(参照:「96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変」の内「余談 茶人・古市澄胤(ふるいちちょういん)」)

 

唐物茶碗

日本に伝わった天目茶碗は、宋の天目山の寺域一帯でごく普通に使われていた茶椀です。鉄分を多く含む土に、これまた鉄分の多い釉薬を掛けて焼いたもので、黒か褐色の茶碗です。口が少し窄(すぼ)まっていて、高台が低く、糸底の直径が小ぶりです。縁が欠けないように口造り全体に金輪を嵌めてあります。

鎌倉時代、日本の禅僧の多くが中国の天目山の禅林に留学しました。彼等は禅の精神はもとより、寺で行われていた規律や生活を日本に移植しようと、現地で使われている仏具など多くを持ち帰りました。その一つが天目の茶碗でした。そして、その天目茶碗を使って宋の様式そのままに日本の茶礼に取り入れました。

 

侘び茶碗

禅寺の茶礼が武士に広まり、闘茶などに変化しても、しばらくは唐物茶碗の出番が続いていましたが、侘茶が始まると、唐物茶碗は次第に影を潜める様になります。

侘茶では、「茶を飲む」よりも、その場の雰囲気を大切にし、空気全体を味わいながら、交わりを深くすることに重きが置かれる様になります。

季節を大切にし、趣向を凝らし、主客一体に楽しめる演出をしながら、禅の境地をその場に作り出す・・・となると、いくら端正で完成度が高い唐物茶碗であっても、春夏秋冬いつでも着た切り雀の様に同じお茶碗でお茶を点てるのは、画一的で興趣が湧きません。春ならば春らしく、秋ならば秋らしく道具を組み合わせ、侘びた土壁の庵に相応しく、或いは一輪挿しに生けた野の花に相応しく、茶碗もそれなりに変化したい・・・侘茶の指向がそうならば、自ずとそれが個性的な茶碗を生む原動力になって行きます。

楽茶碗は、一回に一碗だけ焼きます。個性そのものの茶碗です。井戸茶碗は朝鮮の庶民のご飯茶碗で、土で焼かれた極めて素朴な茶碗です。端正で無い方が良い、画一的でないのが良い、その方が味が有る、という物の見方は、工業製品的な茶碗よりも手作り感がある方を好む傾向を表しています。

侘茶が行われる様になると、懐石料理の器が、朱塗りの丸皿や椀に取って代わって、様々な形の陶器の器に盛られる様になります。侘茶のそういう美意識の延長線上に、織部の歪(ゆが)みを愛(め)でる世界が有る様に、婆は感じます。

古田織部の焼き物のデザインは、突拍子もなく突然生まれたものでは無く、侘茶の必然だったのです。

 

 

余談  松屋三名物

松屋名物には次の三つがあります。

1. 肩衝茶入(かたつきちゃいれ)銘「松屋

南宋時代、福州窯で焼かれたとされている茶入で、重要文化財です。

2. 徐熙(じょき)「白鷺図」

徐熙は南唐の画家で、水墨花鳥画の祖です。「白鷺図」は、初め足利義政が所有。その後  → 村田珠光古市澄胤 → 松谷久幸 → 東大寺 → 2千両で大坂豪商が購入 → 松花堂伝来の絵巻物と「白鷺図」と合わせて1万両で島津氏が購入と持ち主が変遷しましたが、西南戦争で焼失しました。

3. 存星(ぞんせい)の長盆

存星は漆塗りの技法の一種です。明代初期に生まれた漆塗りで、中国では「填漆(てんしつ)」と呼ばれています。存星は日本で付けられた名前です。存清とも書きます。

存星は堆朱(ついしゅ)を作る時の様に漆を塗り重ねて厚くします。厚くなった漆を彫り、文様を描きます。文様を彫った溝に、別の色漆を埋め込みます。輪郭線に沈金を施し、研ぎ出して仕上げます。

 

余録  曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)

曜変天目茶碗は、漆黒の地肌に七色に輝く星を散りばめた様な茶碗で、天目茶碗の中でも最高に美しい茶碗です。龍光院静嘉堂文庫と藤田美術館がそれぞれ1盌(わん)づつ所有しており、世界に3盌しかありません。いずれも国宝です。MIHO  MUSEUMが所有している1盌(重要文化財)を加えれば4盌になります。

天目茶碗には、他に油滴天目(ゆてきてんもく)禾目天目(のぎめてんもく)などがあります。

 

 

参考までに

何時もご愛読いただいて有難うございます。

文中、参照として「77 闘茶」と、「96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変」の内「余談 茶人・古市澄胤」を挙げましたが、次の様にクリックすればその項へ飛ぶことが出来ます。

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