式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

122 武将の人生(3)

室町幕府守護大名の寄合所帯です。足利将軍はその上に乗っかている御神輿の鳳輦(ほうれん)に過ぎません。足利家は御神輿の安定化を図る為に担ぎ手の守護大名の背丈を揃えようと、強大な守護大名を狙い撃ちにしては内紛を起こさせて弱体化を図り、挑発しては謀叛を起こさせて討滅の機会を作り、何とかバランスを保とうとしました。そうする事がお家の安泰、引いては天下泰平に繋がると考えていました。

けれどそれは、結局自分が拠って立つ地盤を弱体化させて行く事に外なりませんでした。

この項で取り上げる人物

足利義満 足利義持 赤松則祐 大内義弘 今川了俊 菊池武光 土岐康行 

山名氏清

 

室町幕府前期

足利義満 (1358-1408)

幼名春王。足利義詮の次男として伊勢貞継邸で生まる。南朝に攻められ父・義詮近江に逃亡の際、春王、京都を脱出し赤松則祐居城に避難。京都帰還後、斯波義将(しば よしゆき)に養育さる。義政失脚後は細川頼之が扶育。父・義詮没後の翌年11歳の時、室町幕府3代将軍に就任。九州の南朝勢力を叩き、懐良(かねよし)親王日明貿易の利権を得ようと画策す。将軍直属の軍・奉公衆設立、康暦(こうりゃく)の変細川頼之を罷免、代わりに斯波義将管領に任命。土岐康行の乱で土岐氏を討伐、明徳の乱で山名氏を没落に追い込む。長年の懸案であった南北朝の件、北朝有利の条件で南朝と和解し、南北朝時代終結させる。

1395年(応永元年)、将軍職を嫡男の義持に譲るも、実権は手放さず。九州の懐良親王に代わり、日本国王を名乗り明と勘合貿易を開始。出世街道をひた走り、太政大臣にまで上り詰める。北山第を造営。猿楽の観阿弥世阿弥を庇護。溺愛する次男・義嗣元服式を行った2日後、病に倒れ、1408年(応永15年5月6日に薨去(こうきょ)。享年51歳。

 

足利義持(あしかが よしもち)(1386-1428)

室町幕府第4代将軍。3代将軍義満の庶子ながら嫡嗣子として遇される。将軍在位28年余。歴代足利将軍の中で最長の在位期間。専制政治よりも調整型の政治手法を取り、所領安堵を多く行い、朝廷への参内、家臣邸への渡御(とぎょ)を頻繁にして、結び付きの強化を図る。

9歳で将軍職を継ぐ。実権は父の掌中に在り。父とは不和。父・義満は義持の弟・義嗣を溺愛す。義嗣元服の2日後、父は病に倒れ、9日後薨去。義満亡き後、衆目は義嗣を義満の後継と見る所、斯波義将これを阻止、義持の家督相続を決める。

義持、朝廷からの義満への太政法王尊号遺贈を辞退。更に父の花の御所を出て祖父・義詮の三条坊門邸に移り、義母死後、金閣寺を除く北山第を破却、義満の冊封関係の日明貿易を否定し、明の永楽帝の勅使を追い返し、国交断絶す。父の路線を次々と否定し、独自路線を行く。

1416年、鎌倉公方足利持氏関東管領上杉禅秀(氏憲)の更迭に端を発し、上杉禅秀の乱が勃発。禅秀、挙兵し持氏を攻撃。持氏、幕府に救援を求む。幕府、鎌倉救援軍を派遣し鎮圧するも事は単純に非ず。関東の上杉禅秀の乱に呼応して義嗣、有力幕閣を巻き込み将軍府攻撃を画策する事変と判明。義持、義嗣を殺害。加担した公家や守護の地位剥奪・配流(はいる)・謹慎命ぜらる者多数。

鎌倉府、一件落着の安定を期待される中、鎌倉公方・持氏、事後の処断厳しく、関東武士に不満鬱積、離反の動き加速。将軍・義持激怒し、これを叱責。「持氏討伐令」を発す。後に和睦。

1423年、義持、嫡子・義量(よしかず)に将軍職を譲るも、2年後の1425年、義量急死。義持、将軍職継続。

1428年(応永35年1月7日)、浴室で尻のおできを掻きむしり悪化。9日後重体に陥る。重臣集まり後継者指名を懇願するも、義持、後継者を決めず。重臣達評議して、義持弟4人から石清水八幡宮の神意に従い、事前にくじを引き、義持没後に開封の事とす。同年1月18日没。享年43歳。

 

赤松則祐(あかまつ のりすけ or あかまつ そくゆう)(1314-1372)

元は比叡山延暦寺の僧・律師妙善。天台座主護良親王に従い、初め宮方で戦績を重ねるも、後に則村・則祐父子共々尊氏側に帰順。尊氏破れ九州に落つる時、これを追撃する新田義貞軍を播磨で阻止。則祐、九州に赴き尊氏に再起を促す。尊氏東征に転ず。数々の戦功により播磨守護になる。観応の擾乱の時、南朝に降り足利義詮の攻撃を受く。正平一統を機に義詮に帰順、備前守護になる。南朝楠木正儀細川清氏による京都侵攻の際、春王(=義満)を守って播磨に避難。宮方→幕府側→宮方→幕府側との向背の変転、これ以降無く、生涯幕府側に尽くす。禅宗律宗の管理職『禅律方」に任命され、管領細川頼之を補佐。正室佐々木道誉の娘。舅・道誉と共に一流の茶人。享年61歳。

 

大内義弘(1356-1400)

百済聖王の子孫と称し、中国地方の太守。倭寇の討伐に励み朝鮮からの信篤く、地の利を生かし貿易で巨万の富を築く。義満、北山第山荘造営の賦役を諸守護に課すも、義弘のみ拒否。義満との関係悪化。上洛命令に服従せず。義弘、九州の今川了俊を誘い(実は了俊これを拒絶)、反義満派の足利滿兼(鎌倉公方)、滅亡の山名氏嫡男・宮田時清、没落の土岐顕直南朝比叡山興福寺の衆徒などと密約し討幕の狼煙(のろし)を上げ、堺に進発。将軍、義弘討伐令を下す(応永の乱)。義弘、自身の生前葬を行う。反義満派の諸将、各地で蜂起し、幕府の勢力分散を企てるも功無く、堺陥落。義弘討死。享年45歳。

 

今川了俊(=貞世)(いまがわ りょうしゅん)(=さだよ)(1326-1420)

足利尊氏、義詮、義満三代に仕える。観応の擾乱の時、尊氏側に属す。

九州の懐良(かねよし)親王菊池武光征西府を築き太宰府を占拠、九州を南朝一色に染め上げ、その勢いに誰も敵わず。少弐氏これを攻撃して惨敗、大友氏も負け、九州探題斯波氏経も敗退、後任探題・渋川氏は九州に足を踏み入れる事さえ出来ず。幕府は1379年頃、最後の切札に今川了俊を投入。了俊、充分な準備をして進発。中国地方の守護や豪族を召集、瀬戸内海の制海権を抑え、東征の気配の南朝方を阻止、太宰府を攻めて奪還し、そこを拠点にして懐良親王菊池武光を追い落とす。了俊、島津・大友・少弐の各氏に来陣を促すも、少弐氏のみ拒否。了俊、宴を口実に少弐冬資を呼び、これを謀殺す。謀殺の件により九州諸将の信を失い、九州平定難儀す。了俊、九州探題に任命されてから22年後の1392年、ようやく南朝勢力を帰順させ、九州を平定。が、3年後罷免さる。応永の乱の時、謀叛を疑われ、了俊追討令が発せられるも、助命嘆願により、政界引退を条件に許される。以後、著作活動に専念.難太平記』『言塵集(ごんじんしゅう)』『了俊歌学書』『道ゆきぶり』などなど著書多数。歌人、文化人。享年87歳とも、96歳とも・・・

 

菊池武光(1319?-1373)

蒙古襲来絵詞を描かせた菊池武房の子孫。後醍醐天皇の八の宮・懐良親王に仕え、九州での南朝勢力拡大に生涯を捧げる。筑後川合戦 (懐良・菊池等4万  vs 少弐・大友等10万) では双方合わせて5千人以上の戦死者を出す大激戦を制し、武光勝利。連戦連勝の勢いで九州を席捲。京都を目指して東征を企(くわだ)てるも、瀬戸内海渡航に失敗、以後退勢に転ず。今川了俊から太宰府攻撃を受け敗退。筑後高良山(こうらさん)城に籠城。武光、そこで陣没す。享年52歳か?

 

土岐康行 (?-1404)

土岐氏4代当主。2代当主に光厳上皇に「院と言うか、犬と言うか、犬ならば射ておけ」と暴言を吐き狼藉を働き処刑された頼遠(よりとう)がいる。康行の養父・頼康は頼遠処刑後美濃守に就く。

1352年、正平一統破綻の時、足利義詮後光厳天皇を奉じて美濃に脱出。その時土岐頼康揖斐郡(いびぐん)小島に義詮と天皇を迎え、行在所(あんざいしょ)を造営、歓待す。その後、美濃・尾張・伊勢の守護になり勢力拡大。養父・頼康没後、将軍義満は、土岐氏の勢力を削(そ)ぐ為、康行弟・滿貞尾張守護にし、家督を弟に移す。これに反発した康行は挙兵。早速土岐康行討伐を命令。康行、敗北す(土岐康行の乱)。1391年、康行、許されて伊勢守護に再任さる。享年不明。

 

山名氏清 (1344-1392)

山名氏は足利氏の支流で一族は「六分の一殿」と呼ばれる。「六分の一殿」の呼称は、守護している領国が、以下の通り、全国66ヵ国の領国の内の1/6に当たる事から来ている。

長男・師義 (もろよし) 丹後・伯耆(ほうき)

次男・義理(よしただ or よしまさ)紀伊

三男・氏冬因幡(いなば)

四男・氏清丹波・山城・和泉

五男・時義美作(みまさか)・但馬・備後

惣領師義の三男・滿幸播磨(はりま)

以上合わせて11ヶ国。この絶大な勢力が幕府の脅威となり、守護弱体化政策の対象となる。

山名氏の一族の内に、家督相続で内紛発生。足利義満家督相続に不満を持つ氏清と氏清の甥・滿幸に対し、惣領を相続した時煕とその義兄・氏之の討伐令を出す。氏清と滿幸、命令を承って時煕と氏之を討ちに行くも、義満その後時煕・氏之両名を赦免。幕府のこの仕打ちに対し滿幸・氏清・義理は挙兵。1391年京都に攻め入り(明徳の乱)、幕軍と対戦するも、氏清戦死。滿幸処刑、義理は出家。山名氏の所領は3ヵ国に減る。氏清の享年49歳。