式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

123 武将の人生(4) 足利将軍家 1

家系を繋ぐと言うのは何時の世でも大変な困難を伴います。足利将軍家は正にその典型でした。

男子が生まれない、生まれても大人になる前に病死してしまい満足に育たない、健康ならばそれで目出度いかと言うとそうでも無く、兄弟が死闘を繰り返す・・・徳川幕府は過去の歴史を鑑み、系を絶やさぬ為に大奥を作り、正室の外に側室を大勢置き、更に御三家・御三卿を設置し、継承に万全を期しました。それほどにしても継承の危機は訪れます。

徳川家では、5代綱吉は舘林藩から、6代家宣甲府藩から、8代吉宗紀州藩から、11代家斉は一橋家から、14代家茂(いえもち)は紀州藩から、15代慶喜水戸藩出身一橋家からと、外から徳川本家に入り、何とか将軍位に穴を開けずに継承しました。

将軍継承が不安定ならば、政権の土台が揺らいで行きます。

この項で扱う人物は下記の通りです。

足利義量  足利義教  足利義勝  足利義政  足利義尚  足利義視

足利義材・義尹・義稙    足利義澄・清晃・義遐・義高

 

足利義量(あしかが よしかず)  (1407-1425)

室町幕府5代将軍。17歳で将軍職を継ぐ。父は4代将軍・足利義持。一人っ子。生来病弱。大酒飲みだったと言われている。在位は1423年-1425年、在位期間1年11か月。享年19歳。

 

足利義教(あしかが よしのり)  (1394-1441)

室町幕府6代将軍。前将軍義量が子無きまま急死。先代義持も後継を指名せず薨去重臣達止む無く先々代義満の三人の子を候補に石清水八幡宮くじ引きし、天台座主義圓(ぎえん)を6代に選ぶ。義圓、義教と改名。

義教、政の理想を父・義満の代に求め、直属軍・奉公衆の充実、勘合貿易再開、管領権限の制限等親政を行う。猜疑心強く、暴君。「万人恐怖」と言われる。

1433年から延暦寺と抗争し、和睦の使者の僧4人、後に殺害す。延暦寺衆徒24人、根本中堂に放火し、抗議の焼身自殺す。

1439年鎌倉公方足利持氏、意のままにならぬ関東管領上杉憲実(うえすぎ のりざね)に追討軍を差し向ける。憲実、幕府に救援を求む。義教それに応え、持氏を朝敵として討伐軍を起こし、持氏一族を討滅(永享の乱)。続いて結城氏、持氏遺児・春王丸安王丸を担ぎ叛乱を起こす(結城合戦)、義教、結城氏を討伐し春王・安王を殺害す。更に翌年、異母弟で大覚寺門跡義昭(ぎしょう)大和国人の騒乱に乗じて挙兵したとの名目で、討伐軍を派遣、国人の越智氏(おちし)箸尾氏(はしおし)等を討ち、九州に逃亡の義昭を捉えて自害に追い込む。

義教、有力大名の家督相続に積極的に干渉、影響力を及ぼし、意に染まぬ者は誅伐。大名達戦々恐々。赤松満祐(あかまつ みつすけorまんゆう)もその一人。満祐誅伐の噂が流れるに及び、1441年(嘉吉元年6月24日)、満祐、先手を打ち義教を宴に招き暗殺(嘉吉(かきつ)の変)。悲しむ者無し。在位12年3か月。享年48歳。

 

足利義勝  (1434-1443)

室町幕府7代将軍。父・義教暗殺により急遽7代目を継ぐ。時に義勝9歳。朝鮮通信使との会見を果たすも、在位8か月で急死。病死(赤痢とも)。享年10歳。

 

足利義政  (1436-1490)

室町幕府8代将軍。同母兄・義勝急死の跡を継ぎ、1449年に将軍宣下を受く。時に8歳。管領細川勝元の助けを得て政務を行うも、今参局など「三魔」の介入を受く。今参局、後に失脚。

世は凶作続き、餓死者8万余人。土一揆徳政一揆頻発。世情不穏の中、徳政令乱発し、土倉(質屋・高利貸)経営を圧迫、引いては土倉に収入源を頼る幕府財政が弱体化する。義政の正室・富子は、段銭、棟別銭、関銭などの重税賦課。これに反対する民衆を弾圧。衆人、富子を守銭奴と罵り、怨嗟す。

義政、畠山家の家督相続に介入し、畠山兄弟間に戦闘を誘発。更に斯波家にも介入。次々と守護家に対して家督相続の介入を行い、各地で戦闘多発す。

義政と富子夫婦に一子誕生するも、誕生当日に死亡。その後女子ばかりで男子が生まれず、義政の弟・義視を還俗させて養子と成す。1年後、実子義尚が誕生。義尚の将来を憂う伊勢貞親など側近、「義視に謀反の疑い有るにより討つべし」と義政に進言。義視、管領細川勝元の邸に逃げ込み無実を訴える。勝元、伊勢貞親等を讒訴の罪で失脚さす(文正(ぶんしょう)の政変)。義政夫婦、義視を義尚就任までの中継ぎ、或いは万一の時の後継スペアーとして義視を温存す。

1467年(応仁元年1月18)、御霊神社(ごりょうじんじゃ)に於いて、畠山義就(はたけやま よしひろ or よしなり)畠山政長の軍が衝突。応仁の乱勃発。細川勝元山名宗全これに参戦。戦の規模は拡大し、戦火は更に多くの大名を巻き込む。

1473年、勝元、宗全両名相次いで死没を機に、1474年、義政、将軍職を義尚に譲るも、実権は手放さず。義政と義尚の対立激化。

義政晩年、政治への興味を失い、建築中の東山山荘に移り住み、芸術を愛する日々を暮らす。銀閣の完成を見ずに中風で倒れ、薨去。在位24年。享年55歳。

 

足利義尚(あしかが よしひさ)  (1465-1489)

室町幕府9代将軍。義政と日野富子の次男。叔父・義視が義政の後嗣と決定された後に誕生。ここに波乱の種が生ず。誕生2年後、畠山家の内紛に端を発した応仁の乱勃発。戦乱、東軍と西軍の二派に分かれて全国に波及。富子、山名宗全に義尚を頼む。将軍義政と富子を擁する東軍の細川勝元、義視を総大将にして宗全の西軍と戦う。この乱の最中、義政、文正の政変で義視を讒訴した伊勢貞親の復帰を図る。身の危険を感じた義視、西軍側に逃亡。義視、今度は西軍側の大将になる。11年に及ぶ大乱終結1474年、義尚9歳の時、将軍職を継ぐ。父、実権手放さず。母富子、超過保護過干渉。20歳過ぎるまで義尚活躍の場無く、生活荒れる。1487年、23歳の時、近江の六角高頼を討伐に出陣。戦績芳しからず。六角高頼のゲリラ戦に翻弄され、1489年、近江の(まがり)で約1年半の滞陣の末、酒淫に溺れて病を得、陣没。在位15年、享年25歳(満23歳)。

 

足利義視(あしかが よしみ)  (1439-1491)

父は6代将軍・義教。先代義勝と先々代義政と兄弟。5歳の時出家。名は義尋(ぎじん)。

子供の無い義政に養子にと懇請されるも、幾度も拒否。根負けして受諾。還俗して名を義視と改め兄・義政の養子になる。1年後、義政正室富子、義尚を出産。富子、妹の良子と義視を娶(めあわ)せ、義視の立場を固める。義視、義尚誕生後も順調に出世、高位に登る。義尚を扶育の伊勢貞親、義尚の将来を危惧し、季瓊真蘂(きけいしんずい)斯波義敏赤松政則らが義視排除を画策、「義視に謀反あり」と義政に訴え誅殺を進言。義視、細川勝元の助けを求め無実を主張。義政、伊勢貞親らを讒訴の罪で失脚させる(文正の政変)。足利家の子等病弱にして成人まで育たぬ者多し。義政夫婦それを案じて次世代の「種」温存の為に義視を排除せず。

畠山家内紛騒動が拡大。初め細川勝元山名宗全が手を組むも、宗全、娘婿の畠山義廉(はたけやま よしかど)に肩入れし、勝元と敵対す。天下、東軍と西軍に二分し戦乱状態に入る(応仁の乱)

細川勝元、将軍義政を擁して義視を東軍の総大将とす。西軍の総大将は山名宗全。義視、東軍総大将として活躍する中、伊勢貞親政界復帰の報に身の危険を感じ西軍に奔る。西軍これを歓迎、西軍の将になる。応仁の乱終結後、美濃の土岐氏の下に亡命。そこで、子の義材(よしき)元服。その間、義政嫡子・義尚、鈎の陣で陣没。義視、義材を連れて上洛し、富子の居る小川殿に入る。富子、義材を次期将軍に推し、義材10代将軍になる。義材の対抗馬に香厳院清晃(こうごんいんせいこう(=義澄))が居た事を知り、義視怒り、富子の小川殿を破却し、所領も没収。義視、将軍職に就く事も無いまま人生を終わるが、10代将軍・義材を後見、正二位・准三宮になり、薨去従一位太政大臣の位を遺贈さる。享年53歳。

 

足利義材・義尹・義稙(あしかが よしき・よしただ・よしたね)(1466-1523)

室町幕府10代将軍。父は足利義視。義材は名を3度変える。応仁の乱終結後、父と共に美濃に亡命。義尚亡き後、1490年、香厳院清晃を退けて将軍になる。

義材、親裁志向強く独断行動多し。義材を将軍に推した先々代御台所・富子や、細川政元と対立。義材、幕府内の反対を無視し、六角氏を討伐す。更に畠山義豊討伐の遠征で留守の時、富子と政元、政権転覆させ、香厳院清晃(足利義澄)を将軍位に就かせる(明応の政変)細川政元畠山政長を自刃に追い込み、義材を幽閉。義材、幽閉先を脱出して逃亡。北陸、中国地方流浪13年半。

1507年、永正の錯乱(えいしょうのさくらん)細川政元暗殺されるを好機と捉え、義尹(よしただ(=義材))は反撃を開始。大内義興と共に上洛して義澄近江・朽木谷(くちきだに)に追い落とし、将軍に返り咲く。その後も義澄と抗争続くも、義澄病死。義稙(よしたね(=義材=義尹))与党の大内義興畠山尚順(はたけやま ひさのぶ or ひさより)は本国に帰国。故に義稙の軍事力低下。管領細川高国と対立を深め、義澄派の台頭を招く。

義稙、義澄派の細川澄元を討つ様に赤松義村(実は義澄派)に命ず。細川澄元反撃。義稙、更に細川高国に赤松応援を命ず。が・・・高国排斥を狙い、澄元と高国の勢力を両天秤に掛けての保身の策の義稙、事前に澄元側と内通す。高国、尼崎で大敗し、近江に落つ。高国、義稙の内通裏切りを知り、近江で勢力を蓄え捲土重来の猛攻開始。義稙を破り京都を奪還す。義稙、後柏原天皇即位式準備をせず、天皇激怒。高国、将軍に代わり即位式を整える。義稙没落し堺で反撃を志すも、味方集まらず。阿波国の撫養(むや)(現鳴門市)で病没。将軍在任期間一期目3年。二期目13年6か月。享年58歳。(満56歳)

義材の名前のおよその区分:将軍初任の時は義材、流浪の時は義尹、二期目の将軍の時は義稙。

 

足利義澄・清晃・義遐・義高  (1481-1511)

室町幕府11代将軍。父は義政や義視の異母兄弟で堀越公方(ほりごえくぼう)足利政知。初名は清晃(せいこう)。後に還俗して義遐(よしとう)義高、義澄と変わる。

政知には先妻との間に嫡子茶々丸、後妻円満院との間に清晃(義澄)と潤童丸がいた。

次男の義澄、上洛して天龍寺香厳院に入り、香厳院(こうごんいん)を継ぎ清晃と名乗る。茶々丸行状不良につき廃嫡さる。代わりに後妻円満院の潤童丸を後継に指名。政知、これを諫めた家老上杉政憲を自害させ、茶々丸を土牢に監禁す。政知死後、茶々丸、牢番を殺し脱獄。継母・円満院と潤童丸を殺害、堀越公方になる。

一方、9代の足利義尚死去。義政も亡くなり次期将軍候補に義視の子・義材と、政知の子・清晃が挙がる。大御台所・富子の推挙で、10代は義材と決定。が、義材、富子と細川政元の意に染まず、明応の政変で義材追放さる。この時、香厳院清晃還俗し義遐と名を改め、更に義高、義澄となる。富子、政元、伊勢貞宗の推挙により将軍空位1年5か月の後、義材の跡を継ぎ、義澄、11代将軍となる。

義澄、奉公衆の伊勢宗瑞(=伊勢新九郎盛時=北条早雲)に伊豆の堀越公方茶々丸の討伐を命ずる。茶々丸は義澄の生母の仇なり。茶々丸、宗瑞の攻撃を受け自害。宗瑞、伊豆を支配。因みに、伊勢宗瑞は「文正の政変」を起こした伊勢貞親の流れを汲む。

1507年(永正4年)細川政元暗殺さる (永正の錯乱)。混乱に乗じ、追放された前将軍・義材、大内義興を従えて攻め上るの報に、義澄、六角高頼を頼り近江へ逃亡。義澄、将軍位を廃位され、没落。再挑戦するも、船岡山合戦を前にして病死。在位13年4ヵ月。享年32歳。(満30歳)

 

 

余談  三魔

三魔とは、義政の乳母・今参局(いままいりのつぼね) 通称「おい

     義政育ての親の烏丸助任(からすまる すけとう)の「からす

     義政側近の有馬持家(ありま もちいえ)の「あり」(又は有馬元家?)

の三人の事を指し、義政の傍にあって絶大な権勢を誇った人物達です。今参局は、富子の最初の子が直ぐに亡くなった原因は今参局の呪詛によるものと断じられ、琵琶湖の沖ノ島流罪になり、その途中自害します。