式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

125 武将の人生(6) 出る杭は打たれる

七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき

鷹狩の時に俄雨にあい、近くにあった貧しい家に立ち寄り、雨具を貸して欲しいと頼んだ太田道灌。その家の女は黙って八重咲の山吹の一枝を差し出しました。その意味が分からず腹を立てた道灌は、館に帰ってから家臣に尋ねました。すると、家臣がこう答えます。拾遺和歌集兼明親王(かねあきらしんのう)の歌があり、それには

七重八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき

とあります。それを知っていた女が、実と蓑(みの)を掛けたこの歌に託して「蓑が無いので悲しゅうございます」と伝えたかったのでは・・・と。道灌は歌に暗かった己を大いに愧(は)じ、和歌の道に励んだと伝わっています。

この項で扱う人物は太田道灌  三好元長   佐々成政  です。

 

 

太田道灌(おおたどうかん)資長(すけなが)(1432-1486)

室町時代、太田氏は関東管領・山内(やまのうち)上杉氏を支えている上杉分家の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏重臣。図式で言うと

鎌倉公方(後に古河公方)足利氏(臣下)関東管領山内上杉氏(補佐)←分家扇谷上杉氏(臣下)扇谷上杉氏家宰・太田氏

道灌の幼名・鶴千代元服して資長法名道灌江戸城を築いた名将。

父・太田資清、扇谷上杉氏の家宰(家の中の運営を一手に引き受ける人・執事・家老・重臣など)なるが故に、室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉公方関東管領の対立(享徳の乱)、上杉内紛、本家上杉家家宰の反乱(長尾景春の乱)等々、関東の騒乱の真っ只中に立つ。道灌も然り。

道灌、扇谷上杉持朝(おうぎがやつ うえすぎ もちとも)、上杉政真(うえすぎ まさざね)、上杉定正の三代に仕える。道灌、父と共に河越城(埼玉県川越市)江戸城(東京都千代田区)馬橋城(千葉県松戸市)など各地に築城。江戸城は1457年に完成。(因みに道灌築城の130年後、徳川家康がこの江戸城を基に大規模に天下普請の拡張工事を行う)。

戦に於いて、従来の騎馬武者主体から足軽主体の集団戦法に替え、江戸城内で兵の訓練を日々行う。駆り集めの農民兵から訓練を受けた兵卒に脱皮。生涯30数度の合戦に於いて敗戦一度も経験せず。道灌の粉骨砕身の働きにより、関東に平安がもたらされ、主家・扇谷上杉家は、上杉本家の関東管領山内上杉家を凌ぐほどになる。大いに称賛されるべき所、主君・上杉定正、道灌の余りの有能振りに恐れを抱き、いつか自分の地位を脅かすのではないかと疑心暗鬼。道灌を館に招き、風呂に誘い、暗殺。随行の家臣達も皆殺しにする。享年55歳。

なお、道灌、死に際に「当方滅亡」と言う。この言葉は「当家は滅ぶ」の予言と解釈されている。また、討ち手が、道灌が歌の名人と知っていて、歌の上の句を

かかる時さこそ命の惜しからめ    

(こんな時、さぞかし命が惜しいだろうよ)と詠むと、道灌それに下の句をつけて

かねてなき身と思い知らずば     

(以前から我が身は無いものと悟っているので、命を惜しいは思わない。もし、それを悟っていなかったならば、命を惜しいと思ったであろう)と返し、絶命。

なお、道灌、上杉定正の心の動きを察知、事前に嫡男・資康(すけやす)を人質の名目で公方・足利成氏に預け、避難させている。道灌暗殺した定正はと言えば、忠勇有能なる臣を殺害した行為に、家臣達が一斉に逃げ出し、本家山内上杉家に身を寄せ、定正衰亡の道を辿る。再び関東に戦乱が呼び戻される。

 

 

三好元長 (1501-1532)

細川氏の分家である細川讃州家の代々の家臣。祖父は三好之長(みよしゆきなが)細川高国と戦い敗北、偽りの和睦により処刑さる。父は三好長秀。長秀、細川高国と如意が嶽の合戦で敗走。伊勢山田で北畠材親(きたばたけ きちか)と交戦し、自害。元長、父戦死後三好氏の総帥に就き、父祖が主筋としてきた細川讃州家の幼い当主・細川晴元(=六郎)を守り、仕える。

時の管領・細川本家・京兆家(きょうちょうけ)の細川高国、将軍の首を挿(す)げ替えるなど専横の振る舞い多く、不満の者多数。高国、重臣香西元盛(こうざい もともり)を無実の罪で誅殺するを機に、元盛兄弟をはじめ反高国派が挙兵。三好元長、主君・細川晴元を援け、11代将軍・足利義澄の遺児にして10代将軍義稙(よしたね)の養子・義維(よしつな)を擁し堺公方を樹立、反高国派の挙兵に合流。堺公方側、三好元長を総大将にして各地で激戦の末、1531年(享禄4年6月8日)、高国を自害さす(大物崩れ(だいもつくずれ))。

高国を滅ぼし、堺公方、いよいよ正式将軍就任かと思う時、細川六郎、近江に逃走中の将軍・足利義晴に接近、堺公方義維を捨て義晴側に就く。梯子を外された形の元長、畠山義尭(はたけやまよしたか)と共に主君細川晴元を諫めるも溝は埋まらず、路線対立で次第に関係悪化。

かねてより元長、六郎の臣・柳本賢治(やなぎもとかたはる)と不仲。賢治急死の跡を継いだその子・甚次郎の城を攻撃して落城さす。甚次郎討死。更に、権謀術数多く向背危うい木沢長政が晴元に取り入るのを善しとせず、長政の元主君・義尭と共に元長これを攻撃。長政、晴元に讒言したが為に、晴元、元長討伐に動く。長政、事に備えて三好元長に対抗意識を持つ三好政と手を組む。

義尭と元長、木沢長政の居城・飯盛山城を攻囲し優位に立つ所、突如一向一揆に挟撃され潰走。畠山義尭自刃。三好元長、和泉本願寺まで敗走するも、そこで自害す。堺府も消滅。元長享年32歳。

一向一揆軍の蜂起、黒幕は細川晴元なり。元長討伐の為、山科(やましな)本願寺飯盛山城支援を要請。三好元長法華宗庇護者なれば一向宗の宗敵也と吹き込み、襲わせる。宗敵打倒の火が着いた一揆軍の勢いは燎原の火の如くに広がり、最終的には10万もの大群に膨れ上がったと言う。

後年、元長の嫡男・三好長慶(みよし ながよし)細川政権を打倒し、三好政長、木沢長政を討つ。

 

 

佐々成政(さっさなりまさ)(1536?-1588)

織田家家臣。猛将で知られ、織田信長の黒母衣衆のリーダー的存在。数々の武功を挙げ、北陸方面軍の柴田勝家の下に、成政前田利家、不破光春(府中三人衆)と共に組み入れられる。

成政、富山城城主となる。一向一揆や越後の上杉景勝の脅威に対処しつつ、常願寺川の治水工事(佐々堤)などを行う。時には北陸を離れ、石山合戦有岡城の戦いなどにも出陣。

1582年(天正10年6月)、本能寺の変勃発。

上杉景勝春日山城を攻略中の柴田勝家以下諸将身動きならず、秀吉に天下取りの先を越される。

1583年(天正11年)、羽柴秀吉柴田勝家賤ケ岳の合戦で、成政、勝家に与(くみ)するも、勝家敗北。翌年3月~11月に掛けて小牧・長久手の戦い(羽柴軍 対 徳川・織田連合軍)では、織田信雄(おだ のぶかつ)の誘いを受けて、成政、徳川軍に与す。前田利家に末森城を攻撃され敗北。突如秀吉と信雄の間で和議が成る。結果として、越中の成政、今は敵方となった越前の利家と、越後の上杉に挟撃される形になる。成政、密かに十数人(?)の家臣と共に城を抜け、浜松の家康に再起を促すべく説得に赴く。越前、越後の敵地を避け、ルートを北アルプス越えに取る。厳冬のさらさら越え(ザラ峠)や針ノ木峠を経て浜松に行くも、家康、成政を相手にせず。空しく帰国。成政、秀吉の軍門に降る。織田信雄の仲介により助命さる。

秀吉の九州征伐の時、功を上げ、為に肥後国を領す。秀吉より急激な改革を慎むべしと厳命されるも、急いで検地に着手。国人の蜂起に遭い収拾できず。責任を取らされ切腹を命ぜらる。享年49歳~52歳くらいか?

織田軍団の武将として全く孫色の無い猛将なるも、信長-信雄への忠誠心故に、新たな支配者・秀吉に従順になれず、秀吉の指示無視による出過ぎた振る舞いが懲罰対象か・・・

 

 

余談  太田道灌(資長)

幼少より聡明で知られ、父資清(すけきよ)、それを案じ「驕者不久(きょうしゃふきゅう)(驕れる者久しからず)」と諭すと、資長「不驕者又不久(ふきょうしゃまたふきゅう)(驕らざる者又久しからず)と即答しました。又、父資清が「障子は真っ直ぐ立ってこそ役に立つ」と教えると、「屏風は真っ直ぐ立っては役立たない。曲がってこそ役に立つ」と反論します。建長寺で禅を学び、足利学校で学問を治めました。日本有数の学者。文化人。歌人

江戸城を築城(現東京都千代田区)。皇居に「道灌濠(どうかんぼり)」、荒川区日暮里(にっぽり)道灌山の地名を残しています。都内・埼玉・神奈川各所に銅像が立っています。名将の誉れ高く、築城の名手です。

 

余談  岩佐又兵衛

絵師の岩佐又兵衛荒木村重の子です。有岡城落城の時、赤ん坊の又兵衛は乳母に抱かれて脱出。石山本願寺に保護されました。「岩佐」は母方の姓です。長ずるに及んで絵師などの技を以って織田信雄に仕えましたが、信雄が改易されて出家すると、又兵衛は京都や北の荘、江戸などで絵師として活躍します。

 

余談  さらさら越え

さらさら越えと言うのは、ザラ峠を越える事をいいます。ザラ峠は立山の室堂(むろどう)近くにある峠で、標高2,348mです。

鉢の木峠と言うのは、後立山連峰の針の木岳と蓮華岳の間にある標高2,536mの峠です。佐々成政が富山から浜松まで厳冬の北アルプスを通って行ったと言うのは史実です。が、登山装備も満足にない昔の人が、冬のアルプスをさらさら越えするなど無理だとする登山家も居て、他にもルートが幾つかあり、実際には高山を経て、より標高の低い安房峠(あぼうとうげ)(1,790m)を通ったのではないか、と言う説もあります。