近頃では、ペンを取って便箋に手紙を書く、と言う行為はすっかり廃(すた)れてしまっています。スマホに顔文字や記号を駆使して伝えるのが今の流行ですが、婆の若い頃は、遠くにいる相手に伝えるのは固定電話や手紙が主流。少しでも良い印象を与えようと、言葉遣いや筆跡の美しさに拘(こだわ)ったものです。それはさて置き、ここで紹介するのは武将の書状(手紙)です。
書状には人柄や人生が滲み出ますので、なかなか興味深いものが有ります。
丹羽長秀 (1535-1585)
長秀より秀吉宛ての書状(遺書)
煩(わずら)いの儀二ついて、度々仰せ下さるるの趣(おもむき)、承り届き候。先書に申し上げ候ごとく、煩(わずらい)終(つい)に験(げん)これなきにつきて、罷上(まかりのぼ)り候事、遠慮いたし候。殊に五三日(ごさんにち)以前は、此の頃罷上るべしと申し上げ候へ共、二三日いよいよおもり、枕もいさヽかあがらず候条、猶(なお)五三日見合わせ、路次にて相果て候とも罷上るべきと存じ候。誠に日来は、自余(じよ)に相替わり御目にかけられ、いか程の国をも仰せ付けられ候ところ、御用にも立ち候はで口惜しく候へ共、それもはや是非に及ばず候。跡目の儀は、せがれ共、ならびに家中の者共などをも御覧じ合わされ、其れに随(したが)って仰せ付けられ候て下さるべく候。此の式如何に候へ共、あらみ藤四郎の脇差、大かうの刀、市絵、進上仕り候。我等と思召候様こと存じ候。委細、成田弥左衛門、長塚藤兵衛申し上げるべく候。恐惶(きょうこう)。
卯月十四日 惟住(これずみ)越前守長秀
秀吉様
参る人々御中
(ずいよう意訳)
私の病気の事について、度々ご心配下さり周りの方々にお訊ね下さっているご様子を、伺って知っております。前の書状で申し上げました様に、病気はついに薬効の験が無く、参上して秀吉様にお目にかかるのを遠慮いたします。殊に5~3日以前は、参上いたしますと申し上げましたが、2~3日いよいよ病が重くなり、枕も上げられない状態になりました。なお、5~3日見合わせ休んでから、途中で死んでもいいから罷り上るべきと思います。誠に今までは、身に余る程にお目にかけて頂き、どのような大国の領地をも仰せ付けられて参りましたのに、お役に立てず、悔しく思いますが、それももはや致し方ない事でございます。私が亡くなった後の跡目につきましては、息子共、並びに家臣の者達などをご覧になって、秀吉様のご判断に従って差配して下さいませ。この式、どのようになりましょうとも、新見藤四郎の脇差、大剛の刀、市絵を秀吉様に進上致します。私(の形見)と思って下さいませ。詳しい事は成田弥左衛門、長塚藤兵衛が申し上げます。 恐惶(謹言)
卯月14日 惟住越前守長秀
秀吉様
お傍に仕える皆々様御中
この書状を書いた二日後、長秀は長い間の腹の激痛に耐えかねて、ついに自ら腹に刀を当て(切腹。但し介錯はせず、しばらく存命)、病巣を取り出したそうです。病名は積聚(しゃくじゅ)といって、寄生虫(回虫)だったそうです。他にも胃癌説が有力です。胆石説もあります。長い間、激痛に苦しめられた長秀は、取り出した病巣を秀吉に送ったそうです。それは石亀の様に硬く、鳥のような嘴(くちばし)を持った白い塊だったとか・・
長秀と秀吉の関係
幼名は万千代。丹羽長秀。羽柴筑前守長秀。惟住(これずみ)長秀。あだ名は、鬼五郎左(おにごろうざ)、米五郎左(こめごろうざ)。
秀吉が天下を手にする時には、清須会議で秀吉の為に動き、それを実現しました。一方秀吉は長秀を父の様にも思って何くれとなく気を使い、そして、全幅の信頼を置いて頼っていました。が、それは秀吉の本心では無い、と婆は深く疑っています。信頼していたのではなく、利用していただけなのだと。これは婆の個人的な意見です。以下は婆の想像です。
秀吉の丹羽長秀対策
信長亡き後、信長の二人の遺臣・丹羽長秀と柴田勝家。信長の跡を襲った秀吉にとって、自分の真の政権を樹立するには二人の信長の遺臣は邪魔な存在です。秀吉は、先ず柴田勝家を攻め滅ぼしました。残る一人の長秀をどう料理するか・・・丹羽長秀は温厚で思慮深く、人望があり、しかも勇猛果敢。信長や秀吉、家康からも絶大な信頼を得ていた人物で、安土城築城の総奉行を務める程の有能な人物。その彼を追い落とすにはどうすればよいのか。
秀吉の立場に立って考えてみると、一番の上策は「褒め殺し」です。
「その方は儂の身内と思っている。どうだ、儂の「羽柴」の名前を上げよう」
「そちは今まで戦で敗けた事が無い。だから是非とも今度の大事な戦に出陣して貰いたい」
秀吉は他の大名にも、これはと思う大名に「羽柴」の姓を与えています。けれども、丹羽長秀にとって「羽柴」には特別の想いがあります。上から目線で「羽柴」の名前を授与して長秀の誇りを奪い、丹羽軍を激戦地の真っ只中に次々と投入して消耗させて行く秀吉の戦略は、長秀の身心を蝕んで行ったに違いありません。賤ケ岳の戦いからは、病気で出陣できず、嫡男の長重(12歳)が父名代で出陣します。小牧長久手の戦いも、越中の佐々成政討伐戦も長重の出陣です。秀吉にとって、長秀は既に「役立たず」の域に入っていました。
加賀百万石の誕生
秀吉は長秀に何くれと見舞いの品を届けさせたり、優しい言葉を掛けたりしていましたが、
1585年(天正13年4月16日)に長秀が自害しました。嫡男の長重が14歳でその家督を継ぎます。が、その同じ年、秀吉は、越中の佐々成政攻撃中に、丹羽家家臣の中に成政に内通した者が居たと疑いをかけ、丹羽長重から越前国・加賀国を没収し、更にその2年後には若狭国を召し上げて、松任(現白山市)4万石にまで落としてしまいます。そして、丹羽家から没収した越前・加賀・若狭の123万石を秀吉は、竹馬の友とも言うべき前田利家に与えます。前田の加賀百万石はこうして生まれました。減封されると言う事は、大量の失業者が出る事を意味します。主家没落で職を失った家臣の中に、上田重安(宗箇)が居ます。
上田重安は通称佐太郎。出家して宗箇と名乗ります。千利休に学び、古田織部の弟子となり、武家茶の上田宗箇流の流祖となります。丹羽家から放出された有能な家臣達は秀吉に抱えられる事になります。秀吉は丹羽家から土地と人材を奪いました。
その後、長重は関ケ原の合戦で西軍側に就き敗北。改易され、牢人になります。彼は地道に努力を重ねて、ついには陸奥白川藩10万石の大名にまで復帰します。
豊臣秀吉 (1537-1598)
豊臣秀吉より秀頼宛の手紙
文給候御うれしくおもひまいらせ候 昨日も状をもて申入候ごとく こヽもとふしん申つけ候に 仍存(じょうぞん)ながら 不申候 やがてさいまつに参候て可申候 そのときくちをすい申まいらせ候 たれたれにもすこしも御すわせ候まじく候 そなたの事こなたへ一だんとよく見え申候 かへすかへす御ゆかしさ申候 御かかさまへも文にて可申候へとも 御心もて給候へく候
めでたくかしく
十二月二日 秀吉 (花押)
秀よりさま とヽ
(ずいようぶっ飛び意訳)
お手紙有難う。昨日もお手紙でお知らせした様に、私は(伏見城)普請を申し付けています。だから(仍)そういう事があ(存)るので(あなたに会って)お話も出来ません。やがて、歳末にそちらへ参り、お話ししようと思います。その時キスしたいです。誰にも誰にも絶対にキスさせてはいけません。あなたの事、私には一段と可愛く見えます。返す返すあなたがゆかしく思えています。お母様(おかかさま→淀君)へも文で申し渡しますが、あなたも心してください (あなたも用心してかか様にもキスをさせてはなりません。あなたは私だけのものですから、の意か?)。
めでたく かしく
十二月二日 秀吉(花押)
秀頼さま 父
この書状は秀吉が62歳の時、5歳の秀頼に宛てたものです。62歳と言えば、秀吉の死の前年です。いずれも数え年なので、秀頼は満年齢で言うと4歳。年取ってから出来た子なので、目に入れても痛くないような溺愛ぶりが目に浮かびます。微笑ましい限りの文面ですが、地位も富も天下も思いのままに手に入れた秀吉も、子供だけは思い通りになりませんでした。正に、秀吉の人生の集大成は子供にかかっていた、と申せましょう。
秀吉は若い頃「猿」と呼ばれ、美男とは言い難い面相だったようです。
ルイス・フロイスの手記によれば、『身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった、目が飛び出しており・・・』とあり、朝鮮使節の記録では、『秀吉は顔が小さく色黒で猿に似ている』とあります。信長からは「禿鼠」だの「六つめ」とも呼ばれていました。身長はおそらく140㎝位だったと言います。忖度抜きの外国人の観察は、信じていいように思います。
一方、秀頼の成人した様子は、身長180cmの偉丈夫。立派で品があり、見るからに君子然としている秀頼に、家康は、警戒を一層強めたと言われています。
父と子で、これほど違う外見であっても、秀吉は一途に秀頼を我が子と思っていました。と言うか、自分の血を受け継いでいようがいまいが、憧れの「お市様」の血を引く茶々が生んだ子ならば、種は誰であれ、もうそれだけで満足だったのではないでしょうか。「お市様」は主君の妹君で絶世の美女。いくら秀吉が懇望しても、普通に考えれば、家臣の「猿」と呼ばれる男の側室(既に秀吉には正室の寧々がいたので側室のポストしか空いていないと言う事情がありました。)に成る筈もありません。ましてや、「お市様」の娘・茶々ならば、父母を殺した「猿」の閨所(ねや)に入るなど、悍(おぞ)ましい限りと思う筈ですが・・・秀吉は、あらゆる手を尽くして不可能を可能にし、茶々を手に入れました。
昔は、側室が生んだ子は全て正室の子と遇していました。正室の子ならば、秀吉の子でもあります。それに、秀頼を我が子では無い、と否定すれば、養子の秀次を殺害した今となっては、豊臣政権は秀吉一代で滅びる事になります。何としてもそれは避けなければならず、天下大乱を招かない為にも、又、自分が打ち立てた事業の後継者を保護する為にも、秀頼は失ってはならない掌中の珠でした。
彼は、二人の親子関係を揶揄するような落書に激昂し、犯人を探し出して関連した人達も含めて老若男女70人を磔にし、さらに100人を超える人達を処罰しました。異常なまでの執念で残酷な処刑をしたのは、秀吉の心の奥底に潜む黒い琴線に触れたからだと、婆は見ています。
余談 書状の読み方
昔の紙は和紙で、紙を漉くのに手間暇がかかり、大変貴重な物でした。そこで、書状などでは特殊な書き方をしていました。普通は縦書きで右から左へ文面が移って行きますが、書き切れなくなって紙が足りなくなった場合、元に戻って、最初に書き出した文章の間に書いて行きます。詰り、行間に書き綴って行きます。それでも、書き終わらない時は、最初の文章の出だしの前の開いた空間に、返し書きをします。形としては下記の様になります。番号は読む順番です。
7 〇〇〇・・・・ (返し書き)
8 〇〇〇・・・・ (返し書き)
1 〇〇〇(以下略)・・・・ (本文書き出し。一行目)
4 〇〇〇(以下略)・・・・・・・・ (折り返しは一文字位上から書く。文字は小さめ)
2 〇〇〇(以下略)・・・・ (二行目)
5 〇〇〇(以下略)・・・・・・・・ (折り返しは一文字上から書く。文字は小さめ)
3 〇〇〇(以下略)・・・・ (三行目)
6 〇〇〇(以下略)・・・・・・・・ (折り返しは一文字上から書く。文字は小さめ)
9 恐惶謹言 or かしくなど
10 月日
11 署名(花押)
12 宛名
余談 書状の記号
書状では、良く使われる言葉は記号化されています。
例えば「申す」は英語の「P」に似た文字を使います。また、「申し候」は英語の「P」と平仮名の「し」が合体した様な文字です。「P」の先っぽが少し右に丸まった様な形です。筆が走って早い時には、チョンと点が棒にくっついたようなものもあれば、異様に短く、文字のハネにしか見えない場合もあります。「し」と読んだら「候」だったなんて事も有ります。「恐惶謹言」等も、草書を越えてもはや記号化しており、一見柳の枝の様に見える事も有ります。