式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

129 名馬の条件

前項、前前項の「絵で見る茶の湯」の中で、馬の絵をダシにして茶の湯の話へ進めました。

馬と言えば、武士と切っても切れない縁があります。馬の善し悪しは、武士の生死を左右すると言ってもいい程ですので、もう少し馬の話をしてみましょう。

 

三大始祖

婆達がよく知っている名馬と言うのは、大体がサラブレッドの競走馬です。ハイセイコーシンボリルドルフディープインパクトなどは競馬界の一世を風靡した名馬でした。

全てのサラブレッドの父方のご先祖様を辿って行くと、ダーレーアラビアンという名前の馬か、ゴドルフィンアラビアンと言う馬か、バイアリータークと言う馬かの、どれかの馬に行きつくそうです。その三頭はいずれも「アラブ」と言う馬種です。アラビアのベトウィン族が馬を交配させながら管理を徹底し、作り出した馬です。

「アラブ」は、肩までの高さが140~150cmくらいで、耐久性があります。その馬をイギリスなどヨーロッパに連れて来て、速さに特化して選びに選び、300年以上交配を重ねて完成させた馬種がサラブレッドです。血統重視で長年の血縁交配の結果、病気に弱く、骨折し易いと言う宿命を負ってしまっています。

 

速いばかりが名馬では無い

サラブレッドは速さを誇りますが、馬場馬術には不向きです。

馬場馬術や障害物競技では、跳躍力を含めた運動能力全般が求められ、しかも、賢さや勇気や従順さが要求されます。儀典用の馬では賢さや、物事に動じない冷静さ、忍耐強さが必要とされ、見た目の「容姿」や「気品」なども重要なポイントになってきます。

トルクメニスタン原産の「アハルテケ」と言う種類の馬は、乳白色に輝く色です。「黄金の馬」と呼ばれるほど非常に美しい光沢を放つ被毛に覆われており、運動能力と持久力が優れているそうです。この馬は三国志に出て来る「汗血馬(かんけつば)ではないかと考えられています。アハルテケは4,152㎞を84日間で走破したと言う記録があるそうです。「アハルテケ」はトルクメニスタンの国章になっています。

「リピッツァナー」という馬種も、オーストリア王室御用達だったそうで、今では馬場馬術や、馬の集団演技などにその能力を発揮しているそうです。プロイセンでは優秀な軍馬育成牧場を作り、「トラケナー」という馬種を創り出しました。軍馬の必要が無くなった今では馬場馬術用に活躍しています。スペイン産の「アンダルシアン」という馬種も運動能力抜群で従順、馬術の高等演技もこなす品種だそうです。オリンピックの馬術競技には、これらの馬が活躍しています。

 

日本在来馬

日本在来馬はサラブレッドとは見た目が大分違います。どの生息地域の馬も背は低く、体高(肩までの高さ) は大体100cm~135cmの範囲に収まっています。足が太いです。全体的にずんぐりむっくりで、馬体はがっちりしています。力が強く、持久力があり、忍耐強く、従順で農耕や軍馬に向いています。

在来馬としては南部馬、木曽馬などが有名ですが、その外に、北海道の和種馬・いわゆる道産子、対州馬(対馬)、野間馬(今治市野間)、御崎馬(都井岬)、トカラ馬(鹿児島県)、与那国馬(沖縄県与那国島)、宮古馬(沖縄県宮古島)などがあります。

この中で、武士が主に騎乗した馬種と言えば、やはり南部馬か木曽馬でしょう。

源義経は南部駒を最高の馬と褒め讃えています。

明治天皇が愛された御料馬「金華山号」も南部馬です。「金華山号」は賢明で沈着、豪胆な気質を持ち、数々のエピソードを持っています。明治天皇が北陸巡幸の時、或る橋の手前で金華山号が立ち止まり動かなくなったそうです。不審に思い調べてみると橋の一部に朽木があったので、そこを修繕したら金華山号は安心して渡った、と言う逸話があります。また、近衛師団の大演習の時、大砲の音に驚いた馬達が騎兵を振り落としたり、駆け出したりして大混乱に陥ったそうですが、明治天皇がお乗りになった金華山号だけは泰然自若として動かなかった、と言われています。金華山号は公務を130回も務め、死後剥製にされて聖徳記念絵画館に収められているそうです。

けれども残念ながら、南部馬に限らず、在来種はすっかり数を減らしてしまいました。

日清・日露・太平洋戦争など戦争に駆り出されたのもその原因の一つです。それから国策で優秀な軍馬に改良すべく、体格の大きい外国種の馬と掛け合わせ、更に日本の牡馬(ぼば(オス))を去勢してしまいました。これも、数を減らした大きな原因です。この去勢は全国的に行われました。その難を逃れたのは、住民の努力によって、軍部の目の届かない山の奥地に密かに隠された馬と、離島の馬などです。

南部馬は外国産馬と交雑され、純血種が失われてしまいました。今では南部馬と呼ばれる馬は存在しません。

 

木曽馬

何時だったかテレビで聞いた話ですが、木曽の黒駒は重量に耐え、長距離行軍にへこたれず、急発進、急停止、急旋回に俊敏に反応する、と言っておりました。これは武士にとって大変重要な能力です。何しろ、馬上で存分に戦う為には、馬が、乗り手の思う様に瞬時に反応してくれなければなりません。そうでなければ生死に直結します。意のままに動かない様な駄馬に騎乗していては、命が幾つあっても足りません。

山之内一豊の妻が、夫の為に持参金10両を出して名馬を買った、という逸話があります。『仙台より馬売りに参り候』と表現されている事から、これは南部馬だったと推定されますが、馬は命を託すものですから、名馬は喉から手が出るほど欲しいものです。

明治時代以前は、日本には数十万頭の馬がいたそうですが、令和2年の在来馬は、木曽馬や道産子、御崎馬など全種類合わせて1,683頭のみになってしまったそうです。

 

伝説の名馬

赤兎馬(せきとば)

三国志演義に出て来る「赤兎馬」は、名馬中の名馬と言われています。

元は蕫卓(とうたく)の持ち馬でしたが、呂布(りょふ)に与えられます。赤兎馬は手に負えない暴れ馬でしたが、呂布はそれを乗りこなし、数々の武勲を挙げました。呂布曹操(そうそう)に討たれ、赤兎馬曹操の手に渡ります。ところが、赤兎馬を乗りこなせる者がおりません。

その頃、曹操劉備玄徳(りゅうびげんとく)の義兄弟・関羽(かんう)を捕虜にしていました。曹操は、関羽劉備から寝返らせ何とか自分の部下にしようと説得を試みていましたが、関羽は靡(なび)きませんでした。そこで、曹操関羽赤兎馬を贈り、彼の心を掴もうとしました。関羽赤兎馬を受け取ると大いに喜び、早速それに騎乗しました。驚いたことに、赤兎馬呂布以外に人を脊に乗せない馬でしたのに、関羽には大人しく従いました。関羽赤兎馬に跨(またが)ると「赤兎馬は1日に千里を走ると言う。この馬に乗って兄貴(劉備)の所へ行く」と言って走り去ってしまいました。曹操は地団駄踏んで悔しがりました。

この物語は『三国志演義の創作と言われています。けれど、歴史書後漢書三国志にその名前が出てきますので、赤兎馬は実在した馬です。赤兎馬は汗血馬だったと言われており、前述した「アハルテケ」だったのではないかと推察する人も居ます。アハルテケは気難しい馬で、乗り手は一人しか許さず、気に入った人でないと寄せ付けないと言われています。また、赤兎馬は馬個体の名前では無く、馬種の名前だと言う人も居ます。

 

ブケパロス

ブケパロスはアレキサンドロス大王(紀元前356年―紀元前323年)の愛馬です。

ブケパロスは悍馬(かんば(暴れ馬))で誰も乗りこなす人がいませんでした。アレクサンドロス王子は、ブケパロスを観察すると馬が自分の影に怯えているのを知り、影が馬の視界に入らない様に向きを工夫しながら乗りこなしました。これを見た父王ヒリッポス2世は、アレキサンドロス王子の非凡さを知り、恐れ、「そなたは自分の王国を探すがよい」と言った、と伝わっています。

父王は王子に、アリストテレスという最高の学者を家庭教師に付けます。アリストテレスの学識や哲学、帝王学などを生涯にわたって学びながら、アレキサンドロスは父王の跡を継ぎ、マケドニアの王となります。それから小アジア、エジプト、ペルシャ、インドへの一大遠征を行います。その間連戦連勝を続け、征服地はかつて無い様な広大な領地に広がりました。

この大遠征は、世界史上に大きな変化をもたらし、日本にも影響を強く及ぼしました。

例えば、仏像ですが、これはアレキサンドロス大王の賜物と言えるでしょう。それまで、仏教ではお釈迦様の像を作るなどと言う事は、とても畏れ多い事で、誰も成し得ませんでした。インドでは、釈迦の偉大さを仏足や法輪という車輪の様な形をもって表していました。ところが、大王は、アリストテレスの教えに従って、征服地の文化融合を図りました。遠征軍に兵士のみならず、技師や彫刻家、詩人や文化人などを連れて行ったのです。

ギリシャの彫刻家達はパキスタン西北部にあるガンダーラに達した時、仏教の話を知り、早速、ギリシャ神話の神々を彫る様に仏像を彫り始めました。もともとガンダーラには西方民族が住んでいましたので、そう言う文化的土壌がありました。ガンダーラの仏像はインドに広まり、中国を経て日本にやって来ました。

また、ギリシャではコスモ(宇宙・秩序)の考え方があり、一つ一つの独立したものが一つに連合して秩序を保つのを理想の世界としていました。一つ一つの都市国家が中央に集まって平和な世界を作る姿を、コスモの複数形コスモスとし、それに似ているコスモスの花が喜ばれました。コスモスは菊の花に通じ、菊の花は高貴な花としてペルシャ帝国に伝わりました。菊の図柄は中国を経て日本に入り、やがて皇室の花として定着します。

このアレキサンドロス大王の遠征に、終始付き従っていたのがブケパロスです。ブケパロスの馬はアハルテケだったと言われています。

 

余談  馬の色

馬の色には次の様なものが有ります。

鹿毛(かげ)                     赤茶色、鬣(たてがみ)や尾や四肢は褐色や黒。

黒鹿毛(くろかげ)           褐色。鬣や尻尾や足が黒っぽい。

青鹿毛(あおかげ)         青光りする程黒に近い。目や鼻の周りが褐色。

青毛(あおげ)                  全身真っ黒。季節により茶色になる事もある。

栗毛(くりげ)                   黄茶色。鬣や尾は濃い色から淡白色まで有り。

尾花栗毛(おばなくりげ) 栗毛の鬣が白く透き通った馬。

栃栗毛(とちくりげ)          濃い茶色。鬣・尾も茶色。四肢の先は白い。

芦毛(あしげ)                    灰色や茶色に生まれ成長するにつれ白くなる。

佐目毛(さめげ)                象牙色。ほんのりピンク。目は青。

河原毛(かわらげ)             クリーム色、亜麻色、淡い黄褐色。

薄墨毛(うすずみげ)           灰色っぽい色。薄墨色。

月毛 (つきげ)                    クリーム色、淡い黄褐色、目は茶色。

白毛 (しろげ)                    生まれた時から全身白。目は茶色や黒。稀に青。

粕毛 (かすげ)                     白っぽい茶色。所々に白が混ざる。

白墨毛 (しろすみげ)             白茶色に灰鼠色を混ぜた様な色。鬣や尾は茶系。

駁毛(ぶちげ)                       茶色と白、褐色と白、黒と白など色がブチている。

 

余談  アレキサンドロスの名前

アレキサンドロスはギリシャ語読みの名前です。ドイツ語読みではアレサンダー とかアレサンダーと読みます。アラビア語読みやペルシャ語読みではイスカンダルと読みます。なんだか、宇宙戦艦ヤマトイスカンダルを連想してしまいませんか。

 

年の瀬も押し詰まり、あと数日で来年になってしまいます。

締めに、干支の今年の牛の話や、来年の虎の話になれば良かったのですが、馬の話になってしまいました。これにガッカリしないで、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

どうぞ、よいお年をお迎え下さいませ。