武士がお茶を嗜(たしな)んでいたからと言って、その人が茶人と言えるかどうか判断が難しいのですが、茶の湯を趣味としていた武士達がこんなにも居た、と言う証として、その名前をピックアップして列挙してみました。
但し、取り上げるのは戦国時代後半から江戸時代初期までの武士達です。それ以前の室町時代前半や鎌倉時代については省略します。名前の姓はあいうえお順です。(中には「武将の人生」等他の項目と重なる人も居ます。)
あ
青山幸成(あおやまよしなりorゆきなり) (1586-1643) 古田織部の弟子
徳川譜代、遠江(とおとうみ)掛川藩藩主。後、摂津尼崎藩藩主。文治政策を取り、新田開発に力を注ぐ。病没。享年59歳。
秋月種実 (あきづき たねざね) (1548-1596)
筑前国の国人。毛利氏と大友氏の争いの中、毛利氏に与する。豊臣秀吉の九州征伐の時も秀吉に抵抗したが降伏。「楢柴肩衝(ならしばかたつき)(→茶入れの銘)」と国俊の刀を秀吉に献上、更に娘を人質にして死を免れた。
秋田実季(あきたさねすえ) (1576-1660) 古田織部の弟子
男鹿半島の脇本城主・安藤愛季(あんどう ちかすえ)の子。12歳で家督相続。日本海沿岸の港争奪を巡って諸族と戦う(湊合戦)。南秋田領有。秀吉・秀頼に仕え、関ケ原では東軍側に立つ。常陸国宍戸に転封。54歳の時、幕府より伊勢国朝熊に蟄居を命ぜられた。享年85歳。
浅野幸長(あさのよしなが) (1576-1613) 古田織部の弟子
浅野長政嫡子。和歌山藩主。小田原征伐出陣。文禄の役・慶長の役に渡海。朝鮮の蔚山城(うるさんじょう)の激戦で負傷。秀吉薨去後帰国。武断派・福島正則などに与し、石田三成と対立。家康に随い会津攻めに向かう。家康と秀頼対面の時には警護を担う。病死。享年38歳。
足利義政(1436-1490)
室町幕府第8代将軍。6代将軍足利義教と日野重子の間に生まれた。治世中に応仁の乱が起こる。政務から逃避、東山に東山山荘を造営する。鹿苑寺銀閣の東求堂に四畳半の同仁斎を造る。茶の湯などの趣味に生きる。享年55歳。
参考 「19 室礼の歴史(4) 武家文化」 2020(R2).06.13 up
「20 室礼の歴史(5) 同仁斎」 2020(R2).06.16 up
「79 室町文化6) 銀閣寺」 2021(R3).01.20 up
「82 室町文化(9) 東山御物」 2021(R3).02.04 up
「89 趣味天下を制す 足利義政」 2021(R3).03.13 up
「93 応仁の乱(4) 乱の前夜」 2021(R3).04.03 up
「95 応仁の乱(5) 開戦」 2021(R3).04.10 up
足利義輝 (1536‐1565) 武野紹鴎(たけのじょうおう)の弟子
室町幕府第12代将軍。父・義晴が管領・細川晴元と対立していた為、幼い頃から幾度も京都から近江への逃避が繰り返されていた。堺公方・足利義維(あしかが よしつな)と対立、三好長慶と戦う。将軍親政を志すが、三好三人衆により殺害される。剣豪将軍と呼ばれ、紹鴎の弟子で茶人でもある。享年30歳(満29歳)
参考 「102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)」 2021(R3).06.02 up
「103 戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)」 2021(R3).06.12 up
「104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変」 2021(R3).06.19 up
「124 武将の人生(5) 足利将軍家2」 2021(R3).11.13 up
足利義昭(1537‐1597)
室町幕府第15代将軍。兄・義輝が殺害されたのち、還俗して15代将軍となる。権力闘争が激しく、政権は不安定。その為。居所が定まらず流浪。織田信長に推されてようやく京都に落ち着くが、後に信長と対立。追放される。信長死後、豊臣秀吉の麾下(きか)に入る。
参考 「124 武将の人生(5) 足利将軍家2」 2021(R3).11.13 up
荒木村重(道薫) (1535‐1586) 武野紹鴎と千利休の弟子。
茨木城城主。信長の中国攻略の時、羽柴軍側に居たが、突如、有岡城で信長から離反。村重は包囲網の中を一人脱出。残された122人の女房衆が処刑され、村重一族など重臣36人も六条河原で斬首される。村重自身は毛利氏に亡命。信長死後堺に移り、茶人として生きる。
参考 「125 武将の人生(6) 出る杭は打たれる (余談 岩佐又兵衛)」2021(R3).11.23 up
名門有馬一族の出で、室町幕府管領・細川澄元の孫。文禄・慶長の役の時は名護屋城に詰める。遠江(とおとうみ)横須賀3万石を領す。関ケ原では東軍に立つ。福知山藩主を経て筑後久留米に転封、21万石になる。島原の乱に出陣。手痛い打撃を受ける。享年74歳。
い
石田三成 (1560‐1600)
豊臣秀吉の子飼いの臣。近江出身。佐和山城主。能吏。頭脳明晰にして経理に明るく、後方の兵站(へいたん)に優れた才能を発揮。秀吉の天下統一に貢献する。関ケ原の合戦で西軍の将になり敗北。徳川軍に捕えられ処刑される。
参考:「119 式正の茶碗 (余談 大谷吉嗣(刑部)と茶会)」2021(R3).10.01 up
稲葉良通(一鉄) (1515‐1589) 斎藤道三の弟子、不住庵梅雪の孫弟子
美濃出身。稲葉通則の六男。初め臨済宗・崇福寺(そうふくじ)で僧侶となるが、父と兄弟全員が戦死した為還俗、家督を継ぐ。主君は土岐氏→斎藤氏→織田信長→豊臣秀吉と何人も変わる。外孫に福(後の春日局)が居る。斎藤道三から「茶の座敷置き合わせ」伝授される。道三は不住庵梅雪(足利義輝の側近)から伝授されている。良通は不住庵の孫弟子に当たる。享年74歳。
岩成友通(いわなり ともみち) ( ?-1573)
石成(いわなり)とも書く。出自不明。三好三人衆の内の一人(三好三人衆→三好長逸(みよし ながやす)・三好宗渭(みよし そうい)・岩成友通)。室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害。松永久秀と対立し抗争。織田信長と山城淀城で戦い、戦死。享年は不明。多分40代。
石川貞清(宗林) (生年?-1626) 古田織部の弟子
美濃出身。石川備前守。犬山城主。豊臣秀吉に仕え、秀頼側近となる。関ケ原では西軍に就く。敗戦後龍安寺に入り、竜安寺から妙心寺に移り、池田輝政に投降。黄金千枚で助命され、剃髪して商人に成り、茶人として過ごす。後、徳川幕府の家人となり、500石取りになる。
石川貞道(生年不詳-没年不詳)
石川備後と通称され、石川貞清と混同されている。小牧長久手の戦い、小田原の陣に出陣。文禄の役では名護屋に駐屯。関ケ原では西軍に所属。故に改易され、盛岡藩に預けられる。古田織部、小堀遠州、金森可重(かなもり ありしげ or よししげ)、堺・京の茶人達と交流。
信濃松本藩・石川数正嫡男。家督を受け2代藩主となる。古田織部に茶の湯を学び弟・康勝と共に免許皆伝。文禄の役で名護屋城詰め。会津攻めでは転戦して徳川秀忠に従い、真田昌幸の上田城を攻め大敗する。徳川幕府になってから大久保長安事件(佐渡金山等の不正蓄財)に連座、改易され豊後佐伯に流罪。配所で没。享年89歳。
石川康勝(員矩(かずのり)) (生年不詳-1615) 古田織部の弟子
信濃松本藩・石川数正次男。家康の次男・秀康が秀吉の人質になるのに随行して、秀康に仕える。文禄の役の時、名護屋城に詰める。古田織部に茶の湯を学び免許皆伝。関ケ原では東軍に就く。徳川秀忠軍で上田城攻撃に参加。大久保長安事件で改易。大坂の陣では豊臣方に就く。真田信繁隊に属し、戦死。
板倉重宗(1586‐1657) 古田織部の弟子
板倉勝重の嫡男。関ケ原では秀忠に従う。大坂両度の戦に出陣。徳川の世では書院番頭に任命され、後、京都所司代を務める。裁可は慎重・公平。下総(しもふさ)関宿藩主。享年71歳。
井上正就(いのうえ まさなり) (1577‐1628) 古田織部の弟子
大坂夏の陣に参陣。遠江横須賀藩主。江戸幕府老中職に就く。正就嫡子・正利と、大坂町奉行の娘との縁談が破談になり、仲人をした幕府目付・豊島信滿の恨みを買い、江戸城中で殺害される。正就と信満と、止めに入った蕃士が死亡。縁談相手の父親も自害した。享年51歳。
猪子一時(いのこ かずとき)(1542‐1626) 千利休と古田織部の弟子
初め織田信清に仕え、後に信長に仕え、赤母衣衆になる。信長没後秀吉に仕え、黄母衣衆になる。関ケ原では東軍側で戦う。戦功により茶入「常陸帯肩衝」を賜う。大坂冬・夏の両陣で戦う。徳川秀忠のお伽衆になる。享年85歳。
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上田重安(宗箇) (1563‐1650) 古田織部の高弟
尾張出身。丹羽長秀の家臣。猛将。本能寺の変の時、大坂城を預かっていた丹羽長秀の臣・重安は、明智光秀方と目される津田信澄が守っていた同城の千貫櫓を単独攻撃し、彼を討ち取る。丹羽家没落の時、秀吉の家臣になる。方広寺大仏殿普請分担、小田原出陣、文禄の役では名護屋駐屯。関ケ原で西軍側に属する。敗戦後剃髪。浅野家に仕える。千利休と古田織部に茶道を学び、上田宗箇流を起こす。茶道と共に造園に力量を発揮。享年88歳。
参考:126「武将の人生(7) 書状」2021(R3).11.30 up
お
大久保忠隣(おおくぼ ただちか) (1553‐1628) 古田織部の弟子
徳川譜代。相模小田原藩初代藩主。10歳の頃から徳川家康に仕え、姉川、三方ヶ原、小牧・長久手、小田原征伐と歴戦。本能寺の変の時、家康と共に伊賀越えをする。関ケ原の時、秀忠軍にあって上田城の真田と戦う。老中就任。大久保長安事件翌年突如改易され、近江に配流。出家の後、没。享年75歳。
元は猿楽師。後、武田信玄の家臣になり、家老・土屋昌続(つちや まさつぐ)の与力となり、土屋姓を名乗る。武田氏滅亡後、徳川家康に仕官し、老中・大久保忠隣の配下となる。土木工事、鉱山開発に才能を発揮。釜無川、笛吹川、浅川などの堤防工事。甲州街道、川越街道、鎌倉街道が交わる交通の要衝・八王子に陣屋を構え、武田氏滅亡後の牢人達を組織化して江戸防衛の備えにした。大久保忠隣は土屋長安へ大久保の姓を与える。長安は、甲州街道を真っ直ぐにし、東海道、中山道に宿場町と一里塚を整備、更に、石見銀山、佐渡金山、伊豆金山などの開発し、掘削道を改善する。各鉱山の代官を務める。西洋のアマルガム法を取り入れ、金産出量を格段とアップ。徳川幕府の財力を盤石なものにした。中風で病没。享年69歳。
(現在、佐渡で能楽が盛んなのは、大久保長安の貢献に依っている。)
大久保長安嫡男。古田織部より免許皆伝を受ける。奈良奉行。稲富流炮術皆伝。天下の総代官と呼ばれた父・長安死後、横領が発覚。それを追及され、答えられず死罪になる。享年37歳。なお、弟達も全員切腹になる。大久保家は断絶する。
大野治長(おおの はるなが)(1569‐1615) 古田織部の弟子
豊臣氏重臣。母は淀殿の乳母・大蔵卿局。秀吉薨去後は秀頼側近になる。家康暗殺未遂事件の関係者として下総(しもふさ)に流罪。関ケ原の時は東軍で戦う。後、大阪に戻り、片桐且元の後を受け豊臣方の中心となる。織田有楽斎と共に徳川方と和睦交渉に臨むが、主戦論者の弟・治房側から襲撃される。大坂城落城の際は秀頼と、母と嫡男共々に自害する。尚、秀頼は大野治長と淀殿の子であるとの噂が、『多門院日記』『看羊録』と、内藤隆春の書状に書かれている。※『看羊録』は朝鮮の役人が、日本の捕虜となって伏見に抑留された時の手記。
大野治長の弟。豊臣秀頼の近習。大坂夏の陣では大和郡山城を攻撃、又、出撃して前田軍と交戦、徳川秀忠軍を混乱させたが、敗色濃くなると撤退。落城時に逃亡し行方不明となる。
小笠原秀政(貞政)(1569‐1615) 古田織部と山田宗偏の弟子
下総古河藩から信濃飯田藩を経て信濃松本藩初代藩主になる。武家礼法の小笠原家子孫。古市澄胤の子孫を迎えて小笠原茶道古流を起こす。父は、貞政を石川数正に人質にして徳川家康家臣になったが、数正が豊臣秀吉側に就いた為、親子共々豊臣側になった。貞政、秀吉から一字を賜り秀政と改名。関ケ原では東軍に就く。夏の陣で重傷を負い間もなく死亡。享年47歳。
小川祐滋(おがわ すけしげ)(兼々庵)(生年不詳-1605) 古田織部と千道安の弟子
伊予の国分城主・小川祐忠の子。関ケ原の時、西軍側に立つが東軍に内応、小早川秀秋に続いて東軍に寝返った。その5年後病死。
岡部宣勝(おかべ のぶかつ)(1597‐1668)) 古田織部の高弟。
大坂両度の戦いで戦功有り。大垣藩藩主→播磨龍野藩藩主→高槻藩藩主を歴任し、最後は和泉岸和田藩藩主となる。民政に尽くし善政を敷く。
岡村百々之介(おかむら どどのすけ)(生年不詳-1614) 古田織部の弟子
豊臣秀頼に仕える。190石。『古織伝』著者。織部の風炉の茶席に招かれ、正客・大野治房、次客に岡村百々之介が務め、三客以降は京の豪商が居並ぶ。大坂冬の陣で討死。
織田信秀 (1511‐1552)
織田信長の父。尾張勝幡城城主。後に今川氏の那古野城を奪い城主となる。松平清康と抗争してこれを下し、今川氏と対峙。美濃の斎藤道三と戦うが大敗。松平広忠と戦い、竹千代(後の徳川家康)を人質に取る。西三河を今川に次第に蚕食され、ついに嫡男・信長と美濃の斎藤道三の娘の縁談を纏めて備えとしたが、病没する。享年42歳。
織田信長(1534‐1582)
幼名・吉法師。「大うつけ」と呼ばれる。父死後家督を継ぎ、尾張美濃を平定。斎藤道三の娘と結婚。桶狭間の戦いで今川義元を倒し、徳川家康と同盟。鉄砲を本格的に戦に導入。破竹の勢いで足利義昭を奉じて上洛戦を敢行、義昭の上洛を成功させる。堺を抑え、伊勢に侵攻、姉川の戦い(対浅井・朝倉連合軍)、比叡山焼き打ち等々各地で戦を展開。また、義昭が信長に叛旗を翻したのでこれを破り追放。室町幕府を滅亡させる。数々の戦功を挙げ、天下統一目前にして本能寺の変で明智光秀に討たれる。茶の湯御政道に見られる様に、茶の湯に関心が深く、自身も茶の湯を楽しんでいる。
参考: 「105 平蜘蛛の釜」 2021(R3).06.25 up
「106 信長、茶の湯御政道」 2021(R3).06.30 up
「111 桃山文化5 南蛮貿易(2) 鉄砲」 2021(R3).08.07 up
「112 桃山文化6 南蛮貿易(3) 影響 2021(R3).08.14 up
「124 武将の人生(5) 足利将軍家2」 2021(R3).11.13 up
織田長益(おだ ながます)(有楽斎(うらくさい))(如庵(じょあん))(1547‐1622) 千利休七哲の一人
父は織田信秀。信長の弟。織田信忠(信長嫡子)の下で甲州征伐、上野国(こうずけのくに)出兵に従軍。本能寺の変の時、明智軍に攻められた二条城を脱出。織田信雄(おだ のぶかつ)の配下になる。小牧・長久手の合戦では徳川家康に助力。関ケ原では東軍側に立つが、その後は大坂城に入る。大坂夏の陣の前、大坂城を出て豊臣側から離脱。京都で茶の湯に専念。茶室如庵を建てる(国宝)。享年75歳。
参考までに
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参考 「102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)」 2021(R3).06.02 up
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