式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

135 武家茶人 略列伝(5) ま行 や行

今回は、次の武将達を紹介します。

前田利長牧村利貞、松井康之、松井友閑(徳庵)、松平定綱、松平正綱松永久秀(弾正)、水野忠元、三好実休(みよし じっきゅう)、三好政長(宗三)、三好康長(咲岩(しょうがん))、村井貞勝毛利秀包(もうり ひでかね=小早川秀包)、毛利秀元森忠政森成利(蘭丸)、山名豊国

なお、「ら行」と「わ行」は省略します。

 

ま行

前田利長(1562-1614) 利休七哲、利休十哲

前田利家の嫡男。加賀前田藩の初代藩主。父と共に織田信長に仕えていたが、信長死後、秀吉に仕えた。戦歴を重ねて父とは別に北陸の地に徐々に地歩を固めて行き、やがて、父・利家より家督と金沢領などを受け取る。父没後、父の就いていた豊臣の五大老の職を継ぐ。

やがて徳川と対立、利長は母・芳春院を徳川に人質に差し出し、養嗣子・利常と徳川秀忠の娘・珠姫(3歳)と婚約させ、両家の和睦を図った。玉姫輿入れの為、江戸から金沢までの道中の橋を整備し、一里毎に茶屋を設置するなどしたと言う。

関ケ原の時、利長は北陸で丹羽長重と戦い、辛勝。関ケ原で東軍勝利の報に長重と和睦。この時、途中から利長と行動を別にした弟・利政の領地が利長に加えられ、122万石になった。大藩になった加賀藩は、家臣の寄り合い所帯になり、家臣の対立が激しくなる。利長は、尾張時代からの家臣と北陸時代からの家臣から家老を選び、藩の運営に当たらせたが、融和は難しかった。利長は病を患い隠居する。死期を悟り高岡城の破却など身辺整理を始めるが、志半ばで没する。病名梅毒。享年53歳。

参考:  「126 武将の人生(7) 書状」              2021(R3).11.30  up

 

牧村利貞 (1546‐1593) 利休七哲 台子(だいす)七人衆

キリシタン大名。名前を幾つも持つ。政治、政吉、高虎、秀光等。

織田信長に仕え、後、豊臣秀吉に仕える。小牧・長久手の戦い四国征伐九州征伐に参陣、伊勢に20,650石を得る。文禄・慶長の役に参陣し渡海、現地に於いて病で客死。享年48歳。

参考:  「111 桃山文化5 南蛮貿易(2)鉄砲」  2021(R3).08.07  up

            「112 桃山文化6 南蛮貿易(3)影響」   2021(R3)08.14   up

 

松井康之 (1550-1612)

松井家は代々足利将軍家に仕えてきた。父・正之は足利義晴重臣、兄・勝之は足利義輝に仕える。義輝が永禄の変で殺害され、叔父・新三郎が討死、兄の勝之が殉死。家督を次男の康之が継ぐ。足利将軍家衰亡の時、細川藤孝と共に行動、織田信長の家臣になり、羽柴秀吉を将とした中国攻めに従い、秀吉方の城に水軍を率いて兵糧を運び込み、軍功を挙げる。享年63歳。

参考:  102  戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)」   2021(R3).06.02  up

            「103  戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)」    2021(R3).06.12  up

            「104  戦国乱世(4) 義輝と永禄の変」     2021(R3)06.19  up

 

松井友閑(徳庵) (生年不詳-没年不詳) 武野紹鴎(たけの じょうおう)の弟子

松井康之の叔父。信長の懐刀と言われ、織田政権の文官にして茶人。室町幕府に仕え、将軍義輝が三好三人衆によって殺害されると、信長の家臣になった。信長上洛後は右筆になり、政務に当たる。堺や京都の豪商と太いパイプを持ち、名物茶器などを供出させ、信長の茶会では茶頭を務めたりした。宮内卿法印で正四位下になり、信長政権の文官トップに成る。本能寺の変後、堺の代官を務めるが、1586年突然罷免され、消息不明になる。

参考:  「104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変」          2021(R3)06.19  up

            「106 信長、茶の湯御政道」                          2021(R3).06.30  up

 

松平定綱 (1592-1652) 古田織部の弟子

徳川家康の異父弟・松平定勝を父に持つ。一時期他家の養子になるが、家康の命により松平姓に戻った。関ケ原の戦い後、11歳の時に家康にお目見えし、秀忠に仕える様に命じられた。下総国山川領を手始めに順調に出世、大坂両度の陣に出陣し、常陸国下妻藩2万石に成る。掛川藩、淀藩、大垣藩と転封を重ね、最後は桑名に転封され初代桑名藩藩主(11万石)に成る。

小幡景憲(おばたかげのり)に甲州流軍学を学ぶ。文化人としても知られ、武士から歌人になった木下勝俊(北政所の甥)、小堀遠州林羅山などとの交流がある。享年60歳。

 

松平正綱 (1576-1648) 古田織部の弟子

日光の杉並木を24年かけて植え続け、寄進した事で知られる人物である。(日光街道日光例幣使街道(にっこう れいへいし かいどう)会津西街道の三街道合わせて全長35.41㎞。当初20万本の植樹が行われたが、令和2年現在では12,126本である。国の特別史跡並びに特別天然記念物に指定され、世界最長の並木道に認定されている)。

正綱は、もと大河内正綱と言う。松平氏には幾つもの系統があり、上記松平定綱は久松松平家、正綱は大河内松平家である。正綱は江戸幕府勘定奉行を務めた。家康と秀忠に仕え、家康の遺言を聞いて久能山から日光に改葬した。家光の代になり、勘定方首座を失職。日光東照宮造営の時、お祝いに杉の苗木を贈ろうとしたところ、諸大名から「ケチな奴」と非難された。その後、24年をかけて杉を植え続け、家康33回忌までに完成。なお、正綱の養子に知恵伊豆と言われた松平信綱がいる。正綱享年73歳

 

松永久秀(弾正) (1508-1577) 武野紹鴎の弟子

松永久秀は、三好長慶(みよし ながよし)の右筆として仕え、次第に台頭、将軍・義輝の側近にまでなった。長慶が没すると久秀は三好氏内部で孤立して対立し、抗争に発展する。

三好三人衆足利義栄(あしかが よしひで)を将軍に擁立した上、将軍・足利義輝を殺害。久秀の息子もこれに加担していた。長慶の家督を継いだ義継は、三人衆から軽んぜられ、久秀陣営に入る。ここに久秀と彼等との本格的な戦いが始まるが、久秀は劣勢に立たされる。

三人衆が大和に侵攻し東大寺に陣を敷いたので、久秀はそこに奇襲をかけて勝利した。が、東大寺が焼失してしまった。

久秀は、信長の上洛を機に、人質を差し出し、名物の茶器「九十九髪茄子」を献上して臣従し、信長の援軍を得て大和を平定する事ができた。彼は信長の朝倉討伐や石山本願寺攻めに参陣し信長に協力する。ところが将軍・足利義昭は、幕府直轄領の山城の地を久秀が進出した事に不快感を示して筒井順慶と手を結んだ。久秀は筒井順慶の筒井城を攻撃、戦いは久秀側の大敗北に終わった。やがて、信長-義昭ラインに亀裂が生じ、義昭は信長打倒に動く。義昭は信長包囲網を作り、久秀とも和睦する。久秀は信貴山城に籠城。信長側の総攻撃を受けて、自ら天守に火を放ち自害した。その時、平蜘蛛の釜も焼失した。享年68歳。

三好三人衆とは、三好長逸(みよしながやす)、三好政康(宗渭(そうい))、岩成友道(いわなりともみち)の三人を指す。

参考: 「103戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)」   2021(R3).06.12  up

            「104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変」 2021(R3)06.19  up

            「105 平蜘蛛の釜」                               2021(R3).06.25  up

            「106 信長、茶の湯御政道」                2021(R3).06.30  up

            「107 桃山文化1 城郭建築」              2021(R3).07.04  up

 

水野忠元 (1576-1620) 古田織部の弟子

徳川秀忠の側近。小姓組番頭(こしょうぐ みばんがしら)。大坂両度の戦いに参陣、西丸書院番頭になる。下総(しもふさ)、下野(しもつけ)、近江の三箇所から3万5千石の領地を得る。享年45歳。

 小姓組とは将軍親衛隊の事で軍事部門の役職。常に将軍の傍に居て警護する役目。戦場では騎馬隊で本陣内を守る。1組は番頭1名と与頭1名に番士50名で構成する。本丸に6番、西の丸には4番までの組があった。書院番も役割は小姓組と同じで親衛隊であり、小姓組より守備範囲が城全体に及び、広い。指揮官の番頭1名に、番士50名、与力10騎、同心20名の編成で、これで一組になる。当初4番だったが後に6番になり、朝・夕・泊の三交代制で、休暇もある。

 

三好実休 (1527-1562) 武野紹鴎の弟子

実休は法名。俗名は之相 or 義賢 or 之康。三好元長の次男。兄に三好長慶、弟に安宅冬康(あたふゆやす)十河一存(そごう かずまさ)、野口冬長が居る。

父を早くに亡くし、少年の頃から兄を助けて政治や戦に染まり、合戦に明け暮れする。久米田(現岸和田市)の戦いで根来衆の援軍を受けた畠山高政に敗れ討死する。享年36歳。

山上宗二が、武士でありながら数寄者であると評した唯一の人物、それが三好実休である。名物を50も所有していた。中でも「三日月の壺」を天下無双の名物と宗二が称賛した。これ等は信長の手にわたり、本能寺の変で焼失した。

参考:下記の4項目は、三好政長、三好康長にも共通します。

            「101 戦国乱世(1) 大物崩れ」            2021(R3).05.26  up

            「102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)」 2021(R3).06.02  up

            「103 戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)」 2021(R3).06.12  up

            「104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変」 2021(R3).06.19  up

 

三好政(宗三) (1508-1549) 茶人。

政長は三好一族の分家。三好本家嫡流の元長とは対立関係にある。政長が細川高国を追い落として堺に上陸すると、元長は足利義維(あしかが よしつな)を擁して堺に幕府を作った。政長はその中枢に入った。元長が将軍・足利義晴と和睦に動くとこれを妨害し、逆に、政長が高国に攻められて窮地に陥ると、元長の出動を求めた。元長が高国軍を大物崩れで滅ぼして元長の勢力が台頭してくると、政長は一向一揆を起こさせて元長を挟撃、元長を討ち取ってしまった。

政長が三好家中を掌握し、勝手放題の振る舞いをする様になった。娘の嫁ぎ先の摂津池田城城主・池田信正を切腹させ、信正の宝物を奪った。元長の嫡子・長慶は政長排斥を決意、政長が進出した江口城を長慶は攻めた。この江口の戦いで政長は討ち死にした。享年42歳。

政長は天下三肩衝(てんか さん かたつき)「新田肩衝を所有していた。(肩衝は茶入れの事)

 

三好康長(咲岩(しょうがん)) (生年不詳-没年不詳)

三好一族。父は本家嫡流の三好長秀。兄に元長がいる。長慶の叔父。三好実休に仕える。また、豊臣秀次は、一時期、三好康長の養子になっている。

松永久秀三好三人衆が信長に下った際に、三好康長も降ったが、彼は松井友閑を介して、信長が欲しがっていた名器「三日月の茶壷」を献上した。

※ 秀吉の甥(後の秀次)は浅井長政の家臣・宮部継潤(みやべ けいじゅん)の人質兼養子になって宮部吉継となり、更に三好康長の養嗣子となって三好信吉となった。秀吉の鶴松が夭折したので、更に秀吉の養嗣子になって羽柴秀次となった。

 

村井貞勝 (生年不詳‐1582)

織田政権の時の京都所司代。文官。朝廷・貴族・寺社・町方の行政、治安などをこなした有能な官吏。公文書などの発給、土地の調査、係争などを担当。信長の命で二条城とは別の「二条新御所」を普請。本能寺の変の時、本能寺向かいに住んでいた貞勝は、いち早く妙覚寺に居た信忠に報せ、信忠と共に二条新御所に立て籠って戦い、討ち死にした。貞勝の子・貞成と清次も一緒に討死している。

 

毛利秀包 (もうり ひでかね)(小早川秀包) (1567-1601) 古田織部の弟子

毛利元就の9男として生まれる。備後国人・太田英綱の養嗣子となり、太田元網と名乗り、更に小早川隆景(実兄)の養子となり、小早川元総(こばやかわ もとふさ)と改名。

吉川広家と共に羽柴秀吉の人質となり大坂に送られ、秀吉の「秀」の字を賜り、秀包と名乗る。小牧・長久手の戦いを始め、数々の戦に従軍。伊予宇和島郡の大津城で3万5千石を与えられる。その後も数々の武功があり、久留米城を築く。大友宗麟の娘を妻として、受洗。洗礼名はシマオ。朝鮮出兵の際、渡海。先鋒隊になる。実兄にして養父の隆景の下に、秀吉の養子・木下秀俊(=小早川秀秋)が養子として来たために、秀包は弾(はじ)き出されて廃嫡にされた。関ケ原では西軍に与する。小早川秀秋の寝返りにより、小早川家の姓を捨て毛利姓に戻る。大徳寺で剃髪。領国へ帰国途次、喀血し病没。享年35歳。

 

毛利秀元 (1579-1650) 古田織部の高弟

7歳の時、毛利輝元の養嗣子となる。14歳の時に文禄の役で渡海、それが初陣の舞台となる。毛利輝元に実子・松寿丸(秀就(ひでなり))が生まれたので、養嗣子を辞退する。慶長の役の時も再び毛利軍3万を率いて渡海する。

関ケ原の戦いの時、大坂城に入った毛利輝元に代わり、秀元が関ケ原に出陣し、家康の後方を窺う絶好の位置・南宮山の頂上に陣取った。が、西軍の勝利を危ぶむ秀元の家老・福原広俊や後見役の吉川広家などが秘密裏に、本領安堵を条件に徳川に敵対しない事を約束していた。若き毛利軍大将・秀元を、山の上に押し上げて、老練な家臣達はその麓に陣取った。家臣達が動かなければ、頂上の秀元は攻め下れない。いわば籠の鳥にしたのである。結局戦況を静観した為に、同地域に布陣していた安国寺恵瓊や長曾我部盛親の南宮山グループは、毛利が動かないので動く事が出来なかった。大坂両度の陣の時、毛利は東軍側で城を攻囲した。

戦後、徳川は毛利との密約の本領安堵を反故にし、大減封に処した。秀元も毛利家から分け与えられていた領土が没収されてしまった。大幅に削減された領地を、家臣団に再分配し、人員削減のリストラを断行した。輝元は隠居、秀就が後を継ぎ、秀元は幕府との交渉役になった。やがて、秀就と秀元の間に溝が出来たが、和解。秀元は江戸に出て、家光の御伽衆となった。享年72歳。

 

森  忠政 (1570-1634) 古田織部の弟子

森可成(もり よしなり)の6男。兄に森蘭丸(成利)がいる。

天正10年(1582年)春、13歳の時、信長に小姓として出仕するが、先輩小姓と喧嘩して「小姓として能(あた)わず」と母の下に返される。為に、同年6月の本能寺の変に巻き込まれなかった。

兄・長可が小牧・長久手の戦いで討死後、忠政が家督を受け、岐阜の金山城を継ぐ。豊臣政権下になり九州と小田原征伐に参陣、朝鮮の役は名護屋に詰める。秀吉亡き後、徳川と関係を強化、兄・長可の旧領・川中島を継ぐ事を希望して、海津城に入城する。兄の治世の時、兄を裏切った高坂昌元の一族を徹底的に探し出し、数百人を磔刑に処した。また、検地を行い増税。苛政に苦しんだ百姓の一揆が勃発した。忠政は彼等を磔にした。その数600余人。兄への恨みで儂への報復の機会を待っていたであろうと、海津城を待城(まつしろ(→現代の松代))と改名する。

関ケ原の戦いでは真田の抑えで信州に残る。小早川秀秋改易で美作国(みまさかのくに)津山藩に転封。津山藩では忠政入府に反対する者多く、迎撃の態勢を取ったが、忠政は彼等を調略し、難なく入る事が出来た。13年の時をかけて津山城を完成。町割りや道路整備などを行い藩の基盤を作る。病死(食中毒)。享年65歳。

 

森  成利 (蘭丸) (1565-1582)

森可成の3男。信長の近習。甲州征伐に貢献した功により、美濃岩村城主5万石を与えられた。成利は、兄・長可(ながよし)の家老・各務原元正(かがみ もとまさ)に城代を任せていたが、城主になった同じ年の6月、本能寺の変にて明智光秀軍に囲まれ、奮戦空しく、二人の弟と共に討死した。享年18歳。

 森可成(もり よしなり)と6人の息子達の死因は下記の通り。

  可成・浅井朝倉攻めの時、宇佐山城の戦いで討死。享年48歳。

  長男・可隆(よしたか) 朝倉の手筒山城攻撃の時、討死。享年19歳。

  次男・長可(ながよし) 小牧・長久手の戦いで討死。享年27歳。

  三男・成利(なりとし)(=蘭丸) 本能寺の変で討死。享年18歳。

  四男・長隆(ながたか)(=坊丸) 本能寺の変で討死。享年17歳。

  五男・長氏(ながうじ)(=力丸) 本能寺の変で討死、享年15歳。

  六男・忠政(ただまさ)(=仙千代丸or千丸) 病死、享年65歳。

なお、可成は側室を置かず、上記の兄弟達は全て同母兄弟である。

 

山名豊国 (1548-1626)

日本六十四州の内十一州を治め、六分の一殿と呼ばれた名族山名氏の末裔。先祖に山名宗全がいる。新田源氏の流れで、家系の格は徳川家康より上である。豊国の生母は細川高国の娘。

羽柴秀吉因幡国に攻めてきた時、豊国は鳥取城に立て籠ったが、徹底抗戦を主張する家臣達を置いて一人秀吉方に出奔、降伏する。秀吉の二度目の鳥取兵糧攻めに城は陥落、豊国はこの戦いに参陣するが、戦後、豊臣氏への帰属を断り、浪人する。関ケ原では東軍に加わり、翌年但馬の七美郡(しつみぐん)全域の6,700石を与えられる。名流の子孫に相応しく、有職故実(ゆうそくこじつ)、和歌や連歌茶の湯など文化教養面に造詣が深く、将軍・足利義晴から賜った羽織を、着た切り雀の様に生涯大事にして着ていた、と言われている。享年79歳。

参考:  「91 応仁の乱(2) 続・お家騒動」                  2021(R3).03.24  up

             「95 応仁の乱(6) 終結への道」                     2021(R3).04.16  up

 

ら行、わ行は省略

 

参考までに

何時もご愛読いただいて有難うございます。

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