式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

138 東山殿のお茶

初期の頃の茶の湯は、別室でお茶を点ててお客様の下に運ぶ形式になっておりました。

(参照 : 「127 絵で見る茶の湯(1) 厩図」、「128 絵で見る茶の湯(1) 調馬図」)

それはきっと、水屋仕事は汚れ物などを扱うので人目に付く場所でするものでは無い、という考えから、そうしていたのだ、と思っておりました。ところが、色々調べていく内に、そうでは無く、表に出られない事情があると、気が付きました。それは、家の造りに関係しています。

 

君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)

足利義政に仕えていた能阿弥・相阿弥という父子の同朋衆が、将軍の小川御所や東山殿(後の鹿苑寺(銀閣寺))が所有している宝物リストを作りました。そのリストが「御物御畫目録(ごもつおんがもくろく)」と「君台観左右帳記」と言います。

「君台観左右帳記」には優れた絵画などの列挙の次に、書院には何をどのように飾ったら良いのか、という六つの事例の絵図と共に、茶湯棚飾の図が載っています。

以下の右図は、国立国会図書館デジタルコレクションから「君台観左右帳記」の茶湯棚飾を描き写したものです。(参考:左図は式正織部流の真台子の点前で時々行う跪座(きざ)の姿勢)

f:id:bukecyanoyu:20220306160634j:plain

茶湯棚飾の図に書いてある事

上段右 建盞(けんさん)六台に座る中に大海袋に入 (建盞は建窯で焼かれた天目茶碗の事。又、大海とは大振りの茶入れの事。袋は仕服の事)  上段左 うがい茶碗大小二つ同臺(同じ台)方盆(四角いお盆)に座る(単に茶碗と言ったら天目茶碗以外の茶碗を言う)  中段  食篭(じきろう)、具(菓子)  下段右 火搔きと羽箒と炭こ立て掛ける・水指、蓋置・火箸、杓子立、杓子(ひさこ)  下段左 三建盞  中に肩衝  盆座る  畳の上 炭斗(すみとり)・釜据え  胡銅の物 畳に置くべし・大茶碗  下水  畳の上に置かる

そして、茶湯棚飾の次の頁にはこう書かれています。

「一間ノ茶湯棚是ハ御會所ノ御飾ニテ候此外二ハ色々取合テ飾可有之候」

御覧になれば分かる様に、高さは天井まで有り、幅は一間幅の造り付けです。そういう大きな棚に、色々な茶道具が載っています。立たなければ手が届かない様な上段の棚に、天目茶碗や茶入れが大きなお盆に載っているとなると、そこでお点前するのは大変です。

 

茶湯棚点前

この様な棚でのお点前は、亭主は壁の棚に向かって座る様になります。つまり、客に背中を向けます。又、亭主は上の物を取る為に、立ったり座ったり動かなければなりません。

式正織部流に「六天目点て」という秘伝があります。道具立てはこの図にかなり近いですが、真台子で行うので、これより簡略化されています。

式正織部流の真台子は他流の真台子よりも一回り大きく、幅も丈も有ります。天板の上に六つの天目茶碗をお盆に載せて、なお余裕があり、色々なものが載ります。けれど、天板へ茶碗やお道具を上げたり降ろしたりする度に、跪座(きざ)になったり、正座になったりして大変です。

この図の茶湯棚ですと、跪座では済まず、完全に立ち上がらなければ用が足りないでしょう。亭主が後ろ向きのまま立ったり座ったりして点前するなんて、そんな事は有り得ないよなぁと悩んでいましたら、当時の茶室は邸宅内ある会所の付属施設としてあった、と分かり納得しました。

 

会所

会所と言うのは、集会所の様なものですが、集会所と言うより迎賓館に近い建物です。その会所の主座敷の次の間に続いて茶室があった事が分かりました。

建築家・堀口捨己(ほりぐち すてみ(1895-1984))氏の研究に依りますと、東山殿の会所の主座敷は24畳あり、主座敷に続く次の間に接続して茶室があった様です。そして、その茶室(茶湯棚のある部屋)は大小二ヵ所あり、6畳と10畳だったようです。

多分そこで同朋衆がお茶を点て、小姓が座敷に運んだのではないかと、想像します。主人は主座敷の正面に機嫌よく着座して客を迎えていたのではないでしょうか。或いは、位の高い賓客に上段の席を譲って歓待していたのかも知れません。

大体、此の頃のお茶は、お茶を振る舞う為にだけで人を招くのではなく、そこには酒肴が出されご馳走があり、能楽を見物し、山ほどの贈物があり・・・という一連の接待の中に組み込まれたものなのです。現在行われている茶事の流れに似ています。が、そこには「侘茶」の様な求道的な精神性は無く、また、無理強いに万人に頭を下げさせるような家の構造物の仕掛けもありません。

 

茶の湯への道

会所の接待や儀式の大仰なお茶は毎日ある訳ではありません。普段の日常の中で、もっと手軽にお茶を頂きたい、という思いが募るのも人情というものです。尤も、高い抹茶を入手できる様な人は、それなりの地位や財力のある人達ですから、庶民一般にまで喫茶の風習が広がる迄には参りませんでしたが、ただ、そういう流れを後押しする様な動きが出てきました。

それは、和物の陶器の発達です。唐物陶磁器は輸入ものですから、値段が高く、余程の余裕のある人しか手に入れられませんでした。ところが唐物陶器を真似した日本産の茶碗なら、ちょいと手を伸ばせば入手できるようになってきたのです。

君台観左右帳記に書いてあります様に「一間の茶湯棚、これはご會所のお飾りです。此の外には色々取て飾ってもよろしい(ずいよう意訳)」とある事から、お道具の取り合わせや茶湯棚の形も色々あった事が想像できます。この頃、既に持ち運びの出来る半間巾位の小さな茶湯棚が現れていたようです。そして、これが流行り始めます。この移動式茶湯棚が台子の原形ではないかと、考えております。

支配層の茶の湯を、より一般的に馴染めるような茶の湯に変えて行こうと、村田珠光が創意工夫している頃、能阿弥などによって、点前をスッキリ合理的に組み立てていこうとする流れが加わり、武家礼法などの影響もあり、次第に茶の湯が洗練されて行くようになります。