式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

139 茶の湯(1) 東山殿から侘数寄へ

何事も夢まぼろしと思い知る 身には憂いも喜びも無し   足利義政の辞世

露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢 豊臣秀吉の辞世 

位人臣を究め、天下の栄華を掌中に収めたかと思われた人が、私の人生は夢まぼろしであったと申されるとは、どんな景色が心の内に広がっていたのでしょう。

「夢は枯れ野を駆け巡る」ような寂寞(せきばく)とした風景の只中に、独りぽつねんと立って、人影に出会うでもなく、鳥や獣を見かける事も無く、温もりのある生きとし生けるものの全てから隔絶された壮絶な寂しさが、そこから立ち昇ってきます。

そういう寂しさの中で、「友遠方より来る」時、どんなにうれしい事か!全身弾けるような喜びに包まれ、あゝ、嬉しや、何しようか、どうやって持て成そうか、あれや、これやを考え、「そうだ、先ずはお茶を一服」と嬉々として浮足立って動き出す心と体が・・お茶の本質かも知れません。

 

同じ趣味でも色々ありまして

茶の湯の楽しさに嵌(はま)ってしまうと、もう、抜けられなくなってしまう様です。古田織部など、当初、茶の湯は嫌いだったようですが、後には名人上手と謳われ、天下の茶頭にまでなってしまいました。

入り口は「お茶を服す事」という単純な行為でしかありませんが、やればやる程広がりがあり、奥深さがあります。それを追求していくと、もう止められません。罠にかかった様にのめり込んでしまいます。

とは言え、のめり込む動機は人様々です。骨董蒐集が主でお茶は二の次の人も居ます。蘊蓄(うんちく)を垂れる教え魔も居れば、ストイックに修業に励む人も居ます。仕事上の人脈作りに不可欠な芸事と割り切る人も居ます。当世風の教養だからと盲目的に習う人も居れば、儲けの種にする人、文化を学ぼうと勉強する人、人それぞれあって面白いです。

彼等の追う道は千差万別、デルタ地帯のように川の流れは分流し、また、それが一層茶の湯の世界に広がりを与えています。そして、やがてその流れは「侘茶」と言う海に注いで行きます。

 

殿上の茶の湯

「殿上の茶の湯」は婆の造語です。侘茶が現れて来る以前に、足利将軍家を始めとして大名や公家達の間で行われていた「茶の湯」の事を指して、そう名付けました。大名茶と言うと、千利休の侘茶の影響を受けた多くの大名達が居ますので、それ等と区別する為です。

殿上の茶の湯を行う場所は、回遊式庭園や禅宗の庭園など、それなりに立派に整えられた庭園内に立つ殿舎の中で行われました。東山殿(足利義政の山荘。後の慈照寺(銀閣))には会所があり、その会所には6畳と10畳の大小二ヵ所の茶室が隣接していたそうです(前項138参照)。それに加えて東求堂同仁斎という四畳半の書院がありました。同仁斎には炉が切られていました。この様な事から推し量ると、少なくとも義政は公の茶室と私の茶室の都合三つの茶室を持っていたと思われます。

彼に仕えていた能阿弥・芸阿弥・相阿弥の親子三代にわたって、将軍が持つに相応しい唐物の軸や焼物などを、宝物として選び、書院飾りや台子飾りを完成させて行きます。

この三人はいずれも優れた芸術家です。絵を究め、書を能くし、文学に造詣が深く、連歌の達人でもあります。そういう彼等が茶の湯にも深くかかわって行きます。

殿上の茶の湯は格式を重んじ、唐物で道具組をして行う茶の湯です。

ただ、惜しい事に、応仁の乱や義政の趣味三昧の為に、幕府の財政は破綻(はたん)をきたしていました。義政の妻・日野富子が蓄財に奔(はし)っても焼け石に水でした。結果、歴代の足利将軍達が集めてきた唐物の蒐集品は、相阿弥の頃になると、資金繰りの為に順次手放す様になってしまいました。こうして流出した大名物(おおめいぶつ)は、新興大名や富豪たちの手に渡って行きます。

   参考:20 室礼の歴史(5) 同仁斎

      80 室町文化(7) 庭園

      81 室町文化(8) 水墨画

      82 室町文化(9) 東山御物

 

 

侘数寄(わびすき)の茶

侘数寄の茶は、名物の茶碗や高価な茶道具を持たないで行う清貧の茶の事で、殿上の茶の対極にある茶です。村田珠光が侘数寄者の一人と言えるでしょう。

山上宗二記』『南方録』によると、珠光は圜悟(えんご)墨蹟徐熙(じょき)の「鷺の絵」などの名物を数々持っていたそうです。が、『清玩名物記』という足利義晴の時代の頃に書かれた本によると、珠光が所持していたのは珠光茶碗が四つだけだったとあるそうです。最近では、この記述の信用性が高くなり、珠光が名物を多数持っていたと言う話は影が薄くなっているいるようです。

同じ様な侘数寄者の一人に丿貫(へちかんorべちかん)が居ます。彼は反骨の茶人です。

丿貫は武野紹鴎(たけの じょうおう)の門下生で、千利休と兄弟弟子です。丿貫は千利休をライバル視しており、利休を鋭く批判しておりました。

二人は二者二様の茶の道を歩みました。一人は権力に近づき、一人は真の侘茶へと歩みます。権力に近づいた方が茶道の全盛を築き、真の侘茶に進んた方が、変人という烙印を押されて埋没してしまいました。丿貫の茶は、高価な茶碗も特別の茶釜も無く、ありふれた茶碗と、煮炊きの釜との兼用の釜で湯を沸かし、極めて質素な道具立てでお茶を点てていました。

これぞ侘しい、正に寂しい、うらぶれた茶の湯。けれどそれは貧乏ったいものでは無く、全ての無駄を省いた清冽な美しさが漂っていたのではないかと、婆は想像しています。

 

余談  東山殿

東山殿は8代将軍・足利義政が隠居所として造営した山荘です。山荘は、京都の東山の麓にあった浄土寺の跡地に建てられました。隠居はしても政治の実権は手放さなかった義政らしく、或る程度の政治的機能が果たせるようなミニ将軍御所の構えをしておりました。大きな建物が10棟ぐらいあったそうですが、足利義晴と義輝の親子二代にわたり三好勢との攻防があり、天文(てんぶん)19年(1550年)、足利義輝&細川晴元三好長慶の中尾城の戦いの時、その多くが焼亡してしまいました。中尾城は東山殿の裏山にありました。その時、焼失を免れたのが現在ある銀閣と東求堂です。

    参考:79 室町文化(6) 銀閣

 

余談  圜悟墨蹟(えんごぼくせき)

宋の時代に圜悟克勤(えんごこくごん)(1063-1135)と言う臨済宗の高僧がおりました。その圜悟が書いた墨蹟を圜悟墨蹟と言います。圜悟克勤は幼少の時に出家、雪ちょう重顕(ちょうけんorじゅうけん)の百則の公案を基に評唱を加えて『碧巌録(へきがんろく)10巻を表しました。碧巌録は禅宗第一の典籍(てんせき)と言われています。圜悟克勤は圜悟禅師、仏果禅師、真覚禅師と尊称されています。

   参考: 48 鎌倉文化(4) 禅語

       49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟

 

余談  徐熙(じょき)(生年不詳-975)

南唐の画家。水墨画に淡い彩色を施した様な畫境を拓き、花鳥や魚や果実の絵を得意としたそうです。宋の太宗が徐熙の絵を評して「花果の妙、吾れ独り熙あるを知るのみ」と讃えたと言われています。徐熙の白鷺の絵を見て茶道の真髄を悟ったと言う話があります。水墨画に漂う神韻とした空気観に、仄かな色気が滲み出ているのを見て、そのように悟ったのでしょうか。徐熙の鷺の絵は兵乱で焼失したと聞いたことがあります。