式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

140 茶の湯(2) 侘茶への道

茶の湯は禅寺を母源としています。それだからでしょうか。茶人と呼ばれる人達の多くは禅宗の寺に入って修行する様です。村田珠光(むらた じゅこう)一休禅師の下で禅の修行をしたと言われていますし、武野紹鴎(たけの じょうおう)千利休も堺の南宗寺に参禅しました。

お茶の文化は、栄西禅師がお茶を日本に持ち込んだ事から始まりましたが、それにしても、禅と茶人の結びつきがその後もずっと続いているのは何故なのか、不思議に思います。

禅の修行をし、人間本来無一物と思い至っても、なお、物への執着から離れられない茶人達が大勢います。茶道具の来歴(らいれき)云々誰それ様のお好み、お値段の詮索、季節に沿った演出、季節に合わせた茶碗や花入れやお軸など、その為に必要なお道具の数々、それ等の購入費用・・・茶席の格がそれで決まってしまうような風潮が、「侘茶」の世界に漂っています。

珠光が愛用した珠光茶碗を、利休は三好実休(みよし じっきゅう)に1,000貫文で売っています。三好十休は久米田(くめだ)の戦いで討死し、名物狩りを行った信長は、多くの茶器と共に本能寺で滅びてしまいました。これ等の動きを見ると、まるで船底にびっしりこびり付いたフジツボの様に、俗世の欲を削ぎ落すのは困難なのではないかと、思う様になってしまいます。茶禅一味の本質は何処にあるのか、それを見抜く透徹した目が欲しいです。

 

唐物(からもの)

足利将軍家の書院には唐物の超一級品が飾られていましたが、これには朝貢(ちょうこう)貿易が関わっています。日本の特産品を山ほど積んで、中国の皇帝に貢(みつ)ぎますと、皇帝は日本の臣従を愛(め)で、皇帝の力を見せつける為に立派な品々を、お返しに下賜します。「属国」を靡(なび)かせ、繋ぎ止める為の国策ですから、ヘボなお宝は寄こしません。下賜されたものは、献上した貢物の数倍から数十倍もする様なお宝の品々でした。その為に、朝貢貿易の正式の相手は朝貢使節を派遣できる国王にのみにその資格を与えたのでした。使節の乗った船は倭寇では無く正式の船である、と言う証拠に「勘合符」を持っていました。

日本国王と名乗ったのは、初めは後醍醐天皇の八の宮・懐良(かねよし)親王です。彼は日本国王・良懐と名乗り、日明貿易を行いました。足利義満日明貿易がもたらす莫大な利益に目を付け、日本国王の称号が欲しくて懐良親王を滅ぼし、「国王」を僭称しました。そして、足利氏は、その中でも選りすぐりの物を手元に置いて、それ以外の物を十倍にも二十倍にもして日本国内で売り捌いていきました。こうして室町幕府は財を成し、現代にも残る国宝級の宝物を数多(あまた)手に入れたのです。

(参考:「82   室町文化(9) 東山御物」       2021(R3).02.04   up)

(参考:「122 武将の人生(3)」の内、足利義満足利義持今川了俊菊池武光)

                               2021(R3).10.23   up)

 

話は脇道に逸れますが

話は脇道に逸れますが、婆の母方の祖母の話をします。

祖母は明治30年代に東北地方に生まれました。家は貧しい小作農でした。働き者で、田畑の仕事をまめにやり、糸取り(繭から糸を取る事)が上手、機織りも名手だったそうです。何々小町と呼ばれる程の美人だったそうです。或る日、赤い腰巻姿で田植えをしていた時、旧家の三男坊に見初められたのが縁で、嫁に行ったそうですが・・・いやはや大変だったとか。何しろ、行儀作法の躾がなっていないと、何かにつけて「がさつ者」と言われたそうです。戸はピシャンと閉めるし、茶碗を洗えば時々ガチャン、と言う訳で機織り名手も小町美人も形無しだったと、後年祖母は笑いながら話していました。祖母のお姑さんは、所作(しょさ)が美しく、どこにいるか分からない位に静かなのに、てきぱきと家の中を取り仕切っていたそうです。

婆は「がさつ者」の孫。野育ちの伝統にどっぷりと浸かっていました。それだからでしょうか。お茶を習い始めて気付いたことがあります。お茶の所作には、安全に美しくお道具を扱うノウハウがたくさん詰まっている、と。

 

所作(しょさ)

茶の湯での所作は、何事も大切に、丁寧に扱う事から始まります。

室町時代の頃、南宋皇帝から下賜された最高傑作の芸術品の数々、又、渡来の禅僧や留学生がもたらした多くの作品群など、優れた絵画、墨蹟、陶器、工芸品に対して、尊敬の念を込めて手厚く扱うように、所作の一つ一つの動き方が定められます。これは、禅宗寺院で行われている厳格な作法の影響を受けているのかも知れません。或いは、日本的に全ての物に神が宿ると言う考えにより、何事も徒(あだ)や疎(おろそ)かにしない所から来ているのかも知れません。兎に角、相手は無機質の物なんだからどうでも良いでしょ、とばかり、ヒョイと置いたり、ザザザァーと置き並べる様な事はしません。

どうすれば、お道具に対して失礼のない様に取扱えるのか、その為には、何処に何を置き合い、どのような所作が理に適っているか、を考えます。漫然と平面に道具を並べても、美しくありません。空間構成の緊張感が緩んでしまって間の抜けた雰囲気になり、折角のお道具の良さが台無しになってしまいます。考え無しに無駄な動作を繰り返せば、道具類を引っ繰り返したり破損したりし易くなります。

無駄が無く合理的で美しい動線・体の移動・足の動き・手の動きは、能を連想させます。今風に置き換えれば、フィギアスケートや床運動に通じる所があります。体の傾きや指先の角度、安定した体幹、乱れの無い動き、隙の無い演技の構成、それらは見る人を感動させます。洗練された美しい振る舞いは一つの芸術作品にもなり、一碗の茶と同じく御馳走にもなるのです。

 

能阿弥と茶の湯

能阿弥(のうあみ)が生まれた1397年は、足利義満が北山山荘(後の鹿苑寺・通称金閣寺)を造営した年でした。

彼は初め朝倉氏の家臣になりましたが、後に室町幕府足利義教に仕えました。彼は墨絵を能くし、阿見派という一派をなしました。そればかりか連歌に大いに才能を発揮、宗祇などの文化人とも交流を持ち、また、表装の腕も良く、幕府が所有する絵画や墨蹟に対しても優れた鑑定をしました。その彼が、書院の飾り方や、茶の湯の台子飾りなどを定め、点前のやり方も、武家作法を取り入れながら定めて行きました。 

これは凄い事です。実際に点前をやってみると分かるのですが、何処か一か所順序を間違えてしまうと、それから先の手が交差したり、所作が混乱したりして後が続かなくなってしまうのです。婆の失敗に、お釜の蓋が開いていないのに、柄杓を取ってお湯を汲もうとしたことがありました。その他の失敗は数知れず・・・と言う訳で、実に合理的に点前の流れが組み立てられています。

その能阿弥が、奈良に村田珠光というお坊さんが茶の湯をやっていると聞き、彼を招いて交流したと言われています。

連歌師心敬(しんけい)(1406-1475)が著した「心敬僧都庭訓」には、「雲間の月を見る如くなる句がおもしろく候。八月十五夜のつきなるは、面白からず候」とあるそうですが、この美意識を村田珠光も共有していたとか。又、同じく心敬が「言わぬところに心をかけ、冷え侘びたるかたを悟り知れりとなり。境に入り果てたる人の句は、この風情のみなるべし」と言った事に対して、武野紹鴎もその通りだと共感していたそうです。

色々調べて行くと、彼等のお茶の共通項に「連歌」というキイワードがあるようです。

 

余談  連歌の七賢人

連歌の話が出てきましたので、連歌の七賢人を列挙してみます。

宗砌(そうぜい)(生年不詳-1455)

大和の出身で山名宗全の家臣。俗名を高山時重と称し、村田珠光と親交がありました。

宗伊(そうい)(1418-1486)

足利義政の近習をして仕えていました。俗名・杉原賢盛

心敬(しんけい)(1406‐1475)

天台宗の僧侶。和歌と連歌の達人。主著「ささめごと」「老いのくり言」「ひとりごと」があり、連歌集・歌集に「心玉集」や「心敬僧都十体和歌集」があります。侘茶の村田珠光に影響を与えています。

行助(ぎょうじょ)(1405-1469)

比叡山の僧侶。連歌を宗砌に学びました。「連歌口伝抄」の著書があります。

専順(せんじゅん)(1411-1476)。

柳本坊、春陽坊とも号します。連歌師にして華道家池坊(いけのぼう)26世

能阿(のうあ)(1397‐1471)

能阿弥の事。室町幕府に仕えました。同朋衆。絵師、連歌師、鑑定家、表具師、茶人

智薀(ちうん)(生年不詳-1448)

俗名・蜷川親当(にながわ ちかまさ)。雅名・智薀(ちうん)。通称・新右衛門。アニメ「一休さん」に出て来る「新右衛門さん」で有名になりましたが、室町幕府の政所の役人です。

宗祇(そうぎ)(1421-1502)

号・自然斎。宗砌、専順、心敬に連歌を学びました。室町幕府の奉公衆で、和歌の二条流の弟子でもある東常縁(とう つねより)から、古今伝授を受けました。

(参考:「83 室町文化(10) 連歌」        2021(R3).02.07   up)