式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

141 茶の湯(3)  利休以前

茶の湯や茶道には色々な流派があります。どういう流派があるかをご紹介します。

ここでは流名のみで、流内にある各派は省略し、また、明治以降に興った流派も省略し、古い順から並べました。

珠光流(じゅこうりゅう)小笠原家茶道古流・志野流・紹鴎流(じょうおうりゅう)・瑞穂流(みずほりゅう)表千家裏千家武者小路千家・松尾流・南坊流・式正織部流・織部流・石州流・有楽流(うらくりゅう)御家流・薮内流(やぶのうちりゅう)・鎮信(ちんしん)流・久田流・遠州流・三斎流・宗箇流・不昧流(ふまいりゅう)・庸軒流(ようけんりゅう)・古市流・小堀流・大口樵翁流(おおぐちしょうおうりゅう)・三谷流・宗偏流(そうへんりゅう)中宮寺御流・渭白流(いはくりゅう)・不白流・速水流・・・

茶の世界の流派には百花繚乱の趣があり、流派の名前を数えるだけでもお茶の隆盛が思われ、頼もしい限りです。

この様に沢山の流派がありますが、初期の頃の茶の湯を大雑把に分けますと、京都派、奈良派、堺派、武将派に分類できます。

 

京都派

京都派は、公家衆の間で行われていたものや、東山山荘などで能阿弥が主導していた茶の湯で、これ等は殿上の茶の湯、いわゆる書院茶(大名茶)です。京都の町人などが行っていた茶の湯も、侘茶が流行る前は堂上衆の茶の流れを汲んでいました。

 

奈良派

奈良派は、興福寺を中心とした寺院、塔頭(たっちゅう)などで行われていた茶の湯で、村田珠光古市澄胤(ふるいち ちょういん)などがその代表でしょう。村田珠光は初め浄土宗の僧侶でしたが、京都に出て禅宗に帰依し、後に古巣の奈良に戻って東大寺近くの田園に庵を結び、侘茶を始めます。

古市澄胤興福寺の僧侶(衆徒)で武将でした。古市澄胤は、淋汗(りんかん)茶の湯を盛んに行いました。淋汗茶の湯と言うのは、一度に何十人もの客を呼び、客にお風呂(蒸風呂)を振る舞い、湯上りに御馳走し、唐物の道具類の展示会を催すと言う様な、ど派手な茶の湯の事ですが、珠光に諭されて侘茶へと変わって行きます。

大和郡山豊臣秀長が入封すると、秀長は千利休山上宗二を招いたりしてお茶を盛んにしました。

   (参考:「137 村田珠光)

 

堺派

堺は海外との貿易で繁栄した港町です。日本の経済を動かす程の豪商達が多く、自治をもって町を運営していました。この自治を行っている商人の組織を会合衆(えごうしゅう)と言い、会合衆の集まりには茶会がよく利用されました。堺の茶会は単なる趣味の集まりではなく、自治会の会議の様相を呈していました。信長が堺の財力を狙って戦費(矢銭(やせん))供出を強要しますが、その可否の話し合いも茶会で行った様です。と言う事は、堺の商人ならばお茶の心得が無いと除(の)け者に成り兼ねず、「お茶が出来る」は必須条件だったようです。堺は武野紹鴎(たけの じょうおう)津田宗及(つだ そうきゅう)今井宗久千利休など、茶史に残る錚々(そうそう)たる茶人達を輩出しています。

また、財力がある人達が競って茶を行った副作用として、茶器名物の蒐集(しゅうしゅう)に奔(はし)る様になりました。手元不如意の足利家から売りに出される大名物や名物を買い、交易で唐物の道具を入手し、侘茶の先駆と言われる村田珠光の弟子や、その影響を受けた者達が多くいるにもかかわらず、堺の茶は侘茶から程遠いいものになっています。

   (参考:「 79 室町文化(6) 銀閣寺」)       2021(R3).01.20   up

   (参考:「111 桃山文化5 南蛮貿易(2)鉄砲」)     2021(R3).08.07   up

   (参考:「112 桃山文化6 南蛮貿易(3)影響」)     2021(R3).06.14   up

   (参考:「117 桃山文化11 焼物(2)・茶の湯」)    2021(R3).09.17   up

   (参考:「118 桃山文化12 焼物(3)・織部焼」)    2021(R3).09.23   up

   (参考:「119 式正の茶碗」)                                  2021(R3).10.01   up

 

 

武将茶

武将茶には二つの流れがあります。

一つは、足利将軍家が行っていた書院茶の流れを受けた茶で、美濃の斎藤道三武井助直(=夕庵(せきあん))などです。夕庵は斎藤道三・義龍・義興に右筆(ゆうひつ)として仕え、その後、信長の右筆になった有能な文官で武士です。魔王と恐れられていた信長に、度々諫言をした唯一の人物と言われています。

もう一つは、千利休古田織部などの弟子になった武将達が、その後自分なりの一流を立てたもので、武家茶を創始した古田織部や、その弟子の小堀遠州遠州流上田宗箇(うえだそうこ)の宗箇流など数多くの流派が派生しました。

 

利休以前の茶人達

 

藤田宗里(生没年不詳)

茶の湯の系譜を辿って行くと、藤田宗里という人物が浮かび上がってきます。どういう人物だったのか、調べてもなかなか分からず、壁に突き当たってしまいましたが、武野紹鴎の師だったとも言われており、放って置く訳にもいきません。

宗里の生没年は不詳です。京都に住んでいて、茶歴としては元々書院茶の流れを汲んでいた人の様です。宗里は侘茶の村田珠光の弟子だったと言われています。村田珠光は1423年から1502年の人で、晩年になってから京都に出たそうですから、宗里は京都時代の珠光に弟子入りしたのかも知れません。宗里は竹の蓋置を作ったと言われております。

 

鳥居引拙(とりい いんせつ)(生没年不詳)

引拙は村田珠光の高弟で、堺の豪商の天王寺屋の縁戚の人です。天王寺屋と言えば、天下三宗匠の一人・津田宗及がいます。

引拙は村田珠光の弟子です。武野紹鴎と並び称される程の達人だったとか。特に目利きに優れていて、名物茶器を多く所持していました。代表的なものに「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」「初花肩衝」「引拙茶碗」「緑桶水指」等があります。それらの多くは豊臣秀吉の手に渡ったそうです。

彼は引拙棚を作り、それを愛用したと言われています。引拙棚と言うのは、茶器などを飾る飾り棚です。台子大の大きさ位で、引き違い戸が付いた地袋があり、地袋に水指を仕舞っておきます。また、道幸(=洞庫)と言う小さな押入れを点前座の傍に造り、そこに点前に必要な物を入れて置き、点前の助けにしたと言われています。後に、武野紹鴎が引拙棚を改良して、袋棚を作ったと言われています。

   (参考:81 室町文化(8) 水墨画)

   (参考:82 室町文化(9) 東山御物)

 

荒木道陳(あらきどうちん)(北向道陳)(1504-1562)

堺出身。医師、或いは商人だったとも言われています。家の造りが北向だった事から、北向道陳と称していました。

道陳は、足利義政に仕えていた能阿弥の弟子・空海(本名・島右京と言い、弘法大師空海とは別人)から東山流の茶法を習いました。道陳は武野紹鴎と近所付き合いをしており、その縁で自分の弟子だった千宗易(利休)を紹鴎に紹介しました。そして、宗易を紹鴎の弟子に推薦します。こうして宗易は、最初に道陳の弟子になり、次に紹鴎の弟子になります。

道陳は能阿弥の孫弟子で「書院の茶」「台子の茶」の流れを受け継いでいました。彼は多くの名物を所持していました。

 

辻玄哉(つじげんさい)(生年不詳-1576)

玄哉と書いて「げんさい」と読みます。堺の辻家に養子に入り、後、京都で禁裏御用を務める呉服商になりました。連歌師で茶人です。

玄哉は武野紹鴎の一の弟子で、紹鴎から小壺(唐物茶入)の秘伝を授かっています。そしてまた、千利休はその玄哉に師事して、台子の点前の相伝を受けたそうです。つまり、小壺と台子の点前は、武野紹鴎 → 辻玄哉 → 千利休と伝わりました。辻玄哉はお茶の松尾流の始祖です。

 

十四屋宗伍(or宗悟)(生年不詳-1552)

室町時代末期の茶人で京都の人。村田珠光の弟子で、武野紹鴎に茶法を伝授したと言われています。人物についての詳しい事はよく分からないのですが、大徳寺に宗伍像があるそうです。

 

余談  天下三宗匠

天下三宗匠とは、千利休今井宗久、津田宗及の事です。

 

余談  肩衝(かたつき)とは

肩衝と言うのは茶入の事で、肩が張った様な形をした物を言います。(肩衝の外に、茶入には茄子の形をした物や、下膨れをした文林と言う形のものもあります。)

「楢柴肩衝「初花肩衝、それに「新田肩衝(にったかたつき)の三つを天下三肩衝と言い、それぞれ名立たる人達が所有し、数奇な運命を辿(たど)っています。

楢柴肩衝の来歴  足利義政村田珠光-鳥居引拙-芳賀道祐-天王寺屋宗伯-神屋宗伯-鳥井宗室-信長(信長の手に渡る予定でしたが本能寺の変が勃発し実現せず)-秋月種実-豊臣秀吉徳川家康-明暦の大火で焼損-修復-行方不明

初花肩衝の来歴  伝楊貴妃の油壷-足利義政-鳥居引拙-疋田宗観-信長-信忠-松平親宅-家康-宇喜多秀家―家康-松平忠直-松平備前守-綱吉-柳営御物-徳川記念財団所蔵

新田肩衝の来歴  新田義貞村田珠光三好政長-信長-大友宗麟-秀吉-秀頼-大坂夏の陣で焼損-修復-家康-徳川頼房(水戸)-彰考館徳川博物館所蔵