茶の湯や茶道には色々な流派があります。どういう流派があるかをご紹介します。
ここでは流名のみで、流内にある各派は省略し、また、明治以降に興った流派も省略し、古い順から並べました。
珠光流(じゅこうりゅう)・小笠原家茶道古流・志野流・紹鴎流(じょうおうりゅう)・瑞穂流(みずほりゅう)・表千家・裏千家・武者小路千家・松尾流・南坊流・式正織部流・織部流・石州流・有楽流(うらくりゅう)・御家流・薮内流(やぶのうちりゅう)・鎮信(ちんしん)流・久田流・遠州流・三斎流・宗箇流・不昧流(ふまいりゅう)・庸軒流(ようけんりゅう)・古市流・小堀流・大口樵翁流(おおぐちしょうおうりゅう)・三谷流・宗偏流(そうへんりゅう)・中宮寺御流・渭白流(いはくりゅう)・不白流・速水流・・・
茶の世界の流派には百花繚乱の趣があり、流派の名前を数えるだけでもお茶の隆盛が思われ、頼もしい限りです。
この様に沢山の流派がありますが、初期の頃の茶の湯を大雑把に分けますと、京都派、奈良派、堺派、武将派に分類できます。
京都派
京都派は、公家衆の間で行われていたものや、東山山荘などで能阿弥が主導していた茶の湯で、これ等は殿上の茶の湯、いわゆる書院茶(大名茶)です。京都の町人などが行っていた茶の湯も、侘茶が流行る前は堂上衆の茶の流れを汲んでいました。
奈良派
奈良派は、興福寺を中心とした寺院、塔頭(たっちゅう)などで行われていた茶の湯で、村田珠光や古市澄胤(ふるいち ちょういん)などがその代表でしょう。村田珠光は初め浄土宗の僧侶でしたが、京都に出て禅宗に帰依し、後に古巣の奈良に戻って東大寺近くの田園に庵を結び、侘茶を始めます。
古市澄胤は興福寺の僧侶(衆徒)で武将でした。古市澄胤は、淋汗(りんかん)茶の湯を盛んに行いました。淋汗茶の湯と言うのは、一度に何十人もの客を呼び、客にお風呂(蒸風呂)を振る舞い、湯上りに御馳走し、唐物の道具類の展示会を催すと言う様な、ど派手な茶の湯の事ですが、珠光に諭されて侘茶へと変わって行きます。
大和郡山に豊臣秀長が入封すると、秀長は千利休や山上宗二を招いたりしてお茶を盛んにしました。
(参考:「137 村田珠光)
堺派
堺は海外との貿易で繁栄した港町です。日本の経済を動かす程の豪商達が多く、自治をもって町を運営していました。この自治を行っている商人の組織を会合衆(えごうしゅう)と言い、会合衆の集まりには茶会がよく利用されました。堺の茶会は単なる趣味の集まりではなく、自治会の会議の様相を呈していました。信長が堺の財力を狙って戦費(矢銭(やせん))供出を強要しますが、その可否の話し合いも茶会で行った様です。と言う事は、堺の商人ならばお茶の心得が無いと除(の)け者に成り兼ねず、「お茶が出来る」は必須条件だったようです。堺は武野紹鴎(たけの じょうおう)、津田宗及(つだ そうきゅう)、今井宗久、千利休など、茶史に残る錚々(そうそう)たる茶人達を輩出しています。
また、財力がある人達が競って茶を行った副作用として、茶器名物の蒐集(しゅうしゅう)に奔(はし)る様になりました。手元不如意の足利家から売りに出される大名物や名物を買い、交易で唐物の道具を入手し、侘茶の先駆と言われる村田珠光の弟子や、その影響を受けた者達が多くいるにもかかわらず、堺の茶は侘茶から程遠いいものになっています。
(参考:「 79 室町文化(6) 銀閣寺」) 2021(R3).01.20 up
(参考:「111 桃山文化5 南蛮貿易(2)鉄砲」) 2021(R3).08.07 up
(参考:「112 桃山文化6 南蛮貿易(3)影響」) 2021(R3).06.14 up
(参考:「117 桃山文化11 焼物(2)・茶の湯」) 2021(R3).09.17 up
(参考:「118 桃山文化12 焼物(3)・織部焼」) 2021(R3).09.23 up
(参考:「119 式正の茶碗」) 2021(R3).10.01 up
武将茶
武将茶には二つの流れがあります。
一つは、足利将軍家が行っていた書院茶の流れを受けた茶で、美濃の斎藤道三や武井助直(=夕庵(せきあん))などです。夕庵は斎藤道三・義龍・義興に右筆(ゆうひつ)として仕え、その後、信長の右筆になった有能な文官で武士です。魔王と恐れられていた信長に、度々諫言をした唯一の人物と言われています。
もう一つは、千利休や古田織部などの弟子になった武将達が、その後自分なりの一流を立てたもので、武家茶を創始した古田織部や、その弟子の小堀遠州の遠州流や上田宗箇(うえだそうこ)の宗箇流など数多くの流派が派生しました。
利休以前の茶人達
藤田宗里(生没年不詳)
茶の湯の系譜を辿って行くと、藤田宗里という人物が浮かび上がってきます。どういう人物だったのか、調べてもなかなか分からず、壁に突き当たってしまいましたが、武野紹鴎の師だったとも言われており、放って置く訳にもいきません。
宗里の生没年は不詳です。京都に住んでいて、茶歴としては元々書院茶の流れを汲んでいた人の様です。宗里は侘茶の村田珠光の弟子だったと言われています。村田珠光は1423年から1502年の人で、晩年になってから京都に出たそうですから、宗里は京都時代の珠光に弟子入りしたのかも知れません。宗里は竹の蓋置を作ったと言われております。
鳥居引拙(とりい いんせつ)(生没年不詳)
引拙は村田珠光の高弟で、堺の豪商の天王寺屋の縁戚の人です。天王寺屋と言えば、天下三宗匠の一人・津田宗及がいます。
引拙は村田珠光の弟子です。武野紹鴎と並び称される程の達人だったとか。特に目利きに優れていて、名物茶器を多く所持していました。代表的なものに「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」「初花肩衝」「引拙茶碗」「緑桶水指」等があります。それらの多くは豊臣秀吉の手に渡ったそうです。
彼は引拙棚を作り、それを愛用したと言われています。引拙棚と言うのは、茶器などを飾る飾り棚です。台子大の大きさ位で、引き違い戸が付いた地袋があり、地袋に水指を仕舞っておきます。また、道幸(=洞庫)と言う小さな押入れを点前座の傍に造り、そこに点前に必要な物を入れて置き、点前の助けにしたと言われています。後に、武野紹鴎が引拙棚を改良して、袋棚を作ったと言われています。
荒木道陳(あらきどうちん)(北向道陳)(1504-1562)
堺出身。医師、或いは商人だったとも言われています。家の造りが北向だった事から、北向道陳と称していました。
道陳は、足利義政に仕えていた能阿弥の弟子・空海(本名・島右京と言い、弘法大師の空海とは別人)から東山流の茶法を習いました。道陳は武野紹鴎と近所付き合いをしており、その縁で自分の弟子だった千宗易(利休)を紹鴎に紹介しました。そして、宗易を紹鴎の弟子に推薦します。こうして宗易は、最初に道陳の弟子になり、次に紹鴎の弟子になります。
道陳は能阿弥の孫弟子で「書院の茶」「台子の茶」の流れを受け継いでいました。彼は多くの名物を所持していました。
辻玄哉(つじげんさい)(生年不詳-1576)
玄哉と書いて「げんさい」と読みます。堺の辻家に養子に入り、後、京都で禁裏御用を務める呉服商になりました。連歌師で茶人です。
玄哉は武野紹鴎の一の弟子で、紹鴎から小壺(唐物茶入)の秘伝を授かっています。そしてまた、千利休はその玄哉に師事して、台子の点前の相伝を受けたそうです。つまり、小壺と台子の点前は、武野紹鴎 → 辻玄哉 → 千利休と伝わりました。辻玄哉はお茶の松尾流の始祖です。
十四屋宗伍(or宗悟)(生年不詳-1552)
室町時代末期の茶人で京都の人。村田珠光の弟子で、武野紹鴎に茶法を伝授したと言われています。人物についての詳しい事はよく分からないのですが、大徳寺に宗伍像があるそうです。
余談 天下三宗匠
肩衝と言うのは茶入の事で、肩が張った様な形をした物を言います。(肩衝の外に、茶入には茄子の形をした物や、下膨れをした文林と言う形のものもあります。)
「楢柴肩衝」と「初花肩衝」、それに「新田肩衝(にったかたつき)」の三つを天下三肩衝と言い、それぞれ名立たる人達が所有し、数奇な運命を辿(たど)っています。
楢柴肩衝の来歴 足利義政-村田珠光-鳥居引拙-芳賀道祐-天王寺屋宗伯-神屋宗伯-鳥井宗室-信長(信長の手に渡る予定でしたが本能寺の変が勃発し実現せず)-秋月種実-豊臣秀吉-徳川家康-明暦の大火で焼損-修復-行方不明
初花肩衝の来歴 伝楊貴妃の油壷-足利義政-鳥居引拙-疋田宗観-信長-信忠-松平親宅-家康-宇喜多秀家―家康-松平忠直-松平備前守-綱吉-柳営御物-徳川記念財団所蔵
新田肩衝の来歴 新田義貞-村田珠光-三好政長-信長-大友宗麟-秀吉-秀頼-大坂夏の陣で焼損-修復-家康-徳川頼房(水戸)-彰考館徳川博物館所蔵