式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

143 会合衆 茶の湯三宗匠

婆が若い頃、会合衆を「えごうしゅう」と読むと学校で習いました。今は、「かいごうしゅう」と読むのですね。検索して初めて知りました。このごろ時々、昔習った言葉が今では通用しなくなったという事態に遭遇します。昭和は昔に成りにけりです。やれやれ、です。

 

会合衆

戦国時代、町の商人達が、寄合によって自分達の地域を治め、領主に頼らず自治を行っている所がありました。や、宇治山田・大湊などの町がそれです。そこの自治を担っていた人達を会合衆と呼びました。会合衆は、その土地に住んでいる者なら誰でも成れるものでは無く、その土地の特権的な有力者などが就いていました。

 

堺の歴史

会合衆で最も有名なのは堺の会合衆です。

堺は鎌倉時代の頃からの漁港として栄えていましたが、室町時代足利義満により勘合貿易が開かれ、博多から遣明船が出る様になりました。外航貿易は主に博多、長崎、平戸など九州の各港が関わっていました。堺もそれに絡まる様に、九州琉球と活発に交易をしました。1474年には室町幕府の命により堺港から遣明船が出航しています。堺は大変な賑わいを見せる様になりました。

1521年室町幕府10代将軍・足利義材(あしかがよしき(=義稙(よしたね))が政争に敗れ都落ちし、堺から沼島へ渡り、1523年阿波国撫養(むや)(現鳴門市)で没します。義稙(=義材)を後押ししていた細川澄元とその家臣の三好一族は、阿波讃岐に地盤を持っていました。三好一族は、11代将軍・足利義澄の実子にして10代将軍の義稙の養子・義維(よしつな)を将軍に推戴(すいたい)し、彼等が四国から都へ上る時の通り道として出入港していた堺に、幕府を打ち立てます。義維は堺公方となり、京都の将軍・足利義晴と対立します。その後の歴史の推移は、明応の政変永正の錯乱流れ公方、大物崩れ(だいもつくずれ)永禄の変と目まぐるしく変わって行きますが、何時でも堺と三好一族は繋がりが深く、堺は彼等の軍事力を頼みにしていました。

交易によって財力を得た堺商人達は、その富を狙われない様に開港口を除いて三方に濠を巡らし、自警団を養い、万全の態勢を備えましたが、世は戦国時代真っ只中。尾張の小国・織田信長が台頭、強大な軍事力を見せ付けながら堺に触手を伸ばして来ました。

 

矢銭(やせん)2万貫

1568年(永禄11年)織田信長は堺に2万貫の矢銭(=軍用金)を要求してきました。

2万貫は現代ではどの位の金額なのかを調べましたら、人によって算出基準が違い、かなりのバラつきがありました。6億円、24億円、30億円、60億円、500~600億円とあり、中には8000億円、と言うのもありました。

堺の会合衆は、三好一族の力を背景に徹底抗戦を構え、これを断ります。が、今井宗久は密かに堺を抜け出し、信長と面会しました。そして、帰ってから会合衆を説得しました。結局、堺は信長に屈して2万貫を支払い、この難局を乗り超えました。同じ様な要求を受けた尼崎ではこれを拒否して焼き打ちに遭い、代表者達は処刑されてしまいます。

15689月、信長は6万の大軍を率いて足利義昭を奉じて上洛を開始、1569(永楽12年)、三好長逸(みよし ながやす)は織田軍を桂川で迎え撃ち、敗北してしまいます。三好勢は阿波へ退却し、四国で態勢を立て直して信長軍に向かおうとしますが、三好方の松永久秀や三好義嗣などが寝返りし、織田軍側についてしまい、次第に三好勢は衰退して行きました。

堺は信長の直轄領になり、信長の下で繁栄して行きます。

 

茶の湯宗匠

 

茶の湯を語る上でどうしても避けて通れないのが、茶の湯宗匠と呼ばれる津田宗及、今井宗久千宗易(利休)の三人です。いずれも堺の会合衆です。

 

津田宗及(つだ そうぎゅう)(生年不詳-1591)

津田宗及は堺の天王寺屋の4代目です。茶湯の天下三宗匠の一人でもあります。宗及は、堺の豪商・武野紹鴎の弟子であった父・宗達から教えを受けました。

家業は九州や琉球との交易です。又、石山本願寺の御用も務めていました。

彼は、臨済宗大徳寺大林宗套(おおばやしそうとう)が開山した堺の南宗寺(なんしゅうじ)に参禅、茶禅一味を学びました。この南宗寺は三好長慶(みよし ながよし)が父・三好元長の菩提を弔う為に建てた寺です。その点からも、堺と三好氏の繋がりは深く、信長から2万貫の矢銭を要求された会合衆は、三好氏と敵対する信長のどちらに就くか大いに迷いました。会合衆の結論は支払い拒否でしたが、武器商人の今井宗久が密かに信長と面会し、その流れを「支払う」方へ導きます。こうした策が、信長の蹂躙(じゅうりん)を免れて、更に南蛮貿易への発展に繋がりました。堺の商人達はいよいよ儲け、余ったお金が、茶道具類への投機へと向かわせます。

津田宗及も唐物の茶道具を150点ほど所持していたと伝わっています。天王寺屋の屋敷ではしばしば茶会が開かれ、柴田勝家佐久間信盛など百人ほどが招かれ、宴を張った事もあったとか・・・。また、宗及は岐阜城に唯一人招かれ、信長の茶道具を拝見する事が出来、その上ご馳走されたとも伝わっています。天王寺屋初代・津田宗伯は古今伝授を受けたほどの文化人で、子孫の宗及も和歌・連歌香道・華道を究め、刀の鑑定も優れていたそうです。

宗及の嫡男・宗凡(そうぼん)は茶人として活躍していましたが、子が無く、天王寺屋は宗凡を以って断絶してしまいました。宗凡の弟が出家して江月宗玩(こうげつそうがん)と名乗り、大徳寺龍光院に住していました。そして、宗及の遺した茶道具が宗玩に渡りました。その中に後に国宝となった曜変天目茶碗があります。

津田宗達-宗及-宗凡江月宗玩の親子三代にわたって書き綴られた茶会記天王寺屋会記』全16巻は、1548年(天文17年)~1616年(元和2年)まで記録されております。そこには自家茶会のみならず他会記の記録まで含まれており、大変貴重な資料となっています。

 

今井宗久(いまいそうきゅう)(1520-1593)

大和国寺内町今井出身。堺の納屋宗次の家に身を寄せ、商売のコツを学びました。(納屋(なや)と言うのは、倉庫業や金融業を言います)。そして、堺衆の必須の素養として、武野紹鴎に入門し茶の湯を学びます。紹鴎の弟子にはそれなりの人物が大勢いましたが、宗久は紹鴎に気に入られ娘の婿に納まります。

宗久は武野家の商売である皮屋を継ぎ、納屋宗次の下から独立、皮革製品の販売を始めます。皮革製品は軍需物資です。馬具や鎧を作るのになくてはならない物で、これによって大いに儲けました。

種子島鉄砲が伝来すると一早くその有効性を見抜き、鉄砲鍛冶を堺に興しました。当初の鉄砲は非常に高額でしたが性能が極めて低かったことから、宗久は分業による大量生産と品質保持の両立を図りました。努力の甲斐あって、堺産の鉄砲は評判が良く、戦国武将達からの注文を大量に受ける様になりました。信長が堺に2万貫の矢銭を課した時、宗久は信長と手を結びます。信長は堺を直轄領とし、宗久を堺の代官に任命します。

宗久は鉄砲を作ると同時に、火薬の原料である硝石を独占的に輸入する権利を得、硝石と鉄砲を抱き合わせで売りました。信長が堺を直轄領にした為に、武田信玄上杉謙信は鉄砲も硝石も入手困難になり、戦いに不利になりました。

更に生野銀山の開発などの権利や数々の特権を得て、今井宗久は信長と結びついた政商・武器商人として巨万の富を築きました。また、武野紹鴎死後、紹鴎の持っていた茶器類は宗久が受け継ぎました。後に、武野紹鴎嫡子・武野宗瓦(たけの そうが)との間に遺産相続争いが起きます。この争いは信長の裁定により宗久が勝訴。武野宗瓦は徳川家康に見出されるまで歴史に埋もれて行きます。

宗久は、黄梅庵と言う数寄屋造りの茶室を持っていました。八畳敷の広間と小間と水屋からなっています。彼は83回もの茶会を開いたと記録があります。宗久の全盛は信長の本能寺の変で翳(かげ)りを見せ始め、羽柴秀吉が台頭してくると千宗易(利休)が表舞台に立ち、宗久の活躍の場は次第に消えて行きます。

 

千宗易(せん そうえき)(利休)(1522‐1591)

利休は茶湯の天下三宗匠の内の一人で侘茶を大成し、茶聖と言われています。

堺の商人。幼名・田中与四郎。法名千宗易。号は抛筌斎(ほうせんさい)。後に、「利休」の号を朝廷より勅賜されました。

利休の祖父は山城国の出身で、将軍・足利義政同朋衆で、田中専阿弥と名乗っていました(義政の同朋衆だったという点については時代が合わないとの疑問が呈されています)。

その専阿弥が一大決心をして職を辞し、泉州堺にやって来ます。専阿弥の子の与兵衛はこの時名字を専阿弥のセンの音をとって「千」に改め、商売を始めます。塩魚などを扱う問屋(といや)で、屋号を魚屋(ととや)と言いました。堺商人の中では新参者でした。

千与兵衛の子・与四郎(後の利休)は堺商人の倣(なら)いに従い、17歳の時に茶の湯北向道陳(きたむき どうちん)の弟子になって習い始めます。身に合っていたのか彼は茶の湯にのめり込んでいきます。与四郎は更に辻玄哉(つじ げんさい)の下で茶の湯を学び始めます。 

(南方録(なんぼうろく)では宗易は武野紹鴎に師事したとなっていますが、山上宗二は、宗易は辻玄哉に習ったとあります。南方録は利休の100年後に書かれたものと言われていますので、利休の弟子の山上宗二が書いた記録の方を信用して辻玄哉としました。)

ところが与四郎は19歳で父を亡くしました。更にその後を追う様に祖父も亡くなってしまいました。家督を継いだ与四郎は途方に暮れてしまいます。豪商が掃くほど居る堺の町では、与四郎の「魚屋」は中小企業でしかなく、祖父の七回忌の時にお金が無くて法要が出来ず、涙を流しながら墓掃除をした、と日記に残しているそうです。

恐らくこの経験が、与四郎(利休)をして侘茶に向かわせたのだと、婆は考えます。茶道具を投機的に扱い、ビジネスの道具やステイタスの証として茶の湯に奔る人々を、貧乏と言う別の視座から眺めてみると、「お茶って、そうではないだろう。もっと別の何かがある筈だ」という視点が生まれてきます。与四郎が、一国を動かす程の豪商のボンボンだったら、恐らく侘茶は生まれてこなかったと、婆は妄想します。

彼は堺の南宋に参禅し、南宋寺の本山・京都の大徳寺にも参禅して茶の奥義を窮(きわ)める道を進みます。一方、商売も手抜かりなく、堺の大旦那である三好氏を顧客に得て、順調に伸ばして行きます。

1544年(天正13年)2月27日、宗易は堺に奈良の松屋久政などを招き、初めて茶会を開きます。松屋久政は奈良の塗師(ぬし)で、村田珠光侘茶を継承している人です。久政は松屋三名物の「徐熙の鷺の絵」「松屋肩衝」「存星(ぞんせい)の盆」を持っていました。

これを手始めに、宗易は茶会を頻繁に行う様になりました。彼は幾度か珠光茶碗を使って茶会を開いています。この頃には既に与四郎改め宗易と名乗る様になっています。

   (参考:137 村田珠光 2022(R4).02.27   up)

   (参考:139 茶の湯(1) 東山殿から侘数寄へ 2022(R4).03.15   up)

珠光茶碗は言うなれば出来損ないの青磁の茶碗です。それを三好実休に1000貫で売りつけるなど、商売人の顔をも持った宗易は、茶の人脈を最大限に生かし、堺の会合衆にまで上り詰めます。彼は、津田宗及や今井宗久と並び、信長に茶堂として取り立てられる様になります。宗易は信長の為に鉄砲の玉を用意したりして、何かと信長の便宜を図っていましたが、

天正10年6月2日(1582年6月21日)本能寺の変が勃発し、信長は自刃してしまいました。

天下は、明智光秀を討った羽柴秀吉の手に渡り、宗易も秀吉に仕える様になりました。宗易は秀吉の依頼で茶室「待庵(たいあん)」を作り、更に翌々年、大坂城内に茶室を作ります。

1585年(天正13年)10月、秀吉による正親町天皇へ献茶に、宗易は宮中に上がって奉仕します。この時、無位無官の町人の宗易が宮中に参内(さんだい)するのは如何か、と言う話があり、「利休」居士号を賜ります。黄金の茶室を設計したり、北野大茶湯をプロデュースしたり、大活躍をしますが、突然秀吉の勘気に触れ、閉門蟄居を命ぜられます。北政所や弟子、大名達が助命に動きますが、ついに切腹を命ぜられます。享年70歳。

下記は利休辞世の句です。

遺偈(ゆいげ)

人生七十 力囲希咄   人生七十 力囲希咄(りきいきとつ)

吾這寳剱 祖佛共殺   吾がこの寳剱 祖佛ともに殺す

堤我得具足一太刀    ひっさぐ我が得具足(えぐそく)の一太刀

今此時天抛       今この時 天に投げ打つ

( 力囲希咄は、エイヤーッ!と言う様な掛け声)

[ずいようぶっ飛び超意訳} 人生70年、エエエーイッ! こん畜生! この宝剣で先祖も仏も何も皆殺しにしてやるわい。手にした武器の一太刀、今、此の時に天に投げ打ってやるーーツ!

遺偈とあるので禅の問答の様です。本当の意味する所はもっと別の事かも知れません。他の方の訳を見ると、解釈が色々あります。切腹に臨んでの利休の心境がなんとなく推し量れるような・・・

 

余談  宇治山田と大湊(おおみなと)会合衆

宇治山田と大湊の会合衆について、前置きで少し触れましたが、宇治山田という所は、宇治の平等院のある京都では無く、伊勢の国に在ります。

宇治と言う地域は伊勢神宮天照大神を祀っている内宮の有る所、山田は豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀っている外宮(げくう)の有る所です。伊勢神宮は昔からお伊勢参りで大変賑わっておりました。門前町の両地区は、中世の頃から自治を始めていました。

大湊と言う地名は全国に3ヵ所あります。日本海側の青森県北東部と新潟県で、両方とも北前船の寄港地です。残りの一か所の大湊は、伊勢湾の出入り口にあります。太平洋側の沿岸航路の拠点の一つで、伊勢神宮の外港の役割も果たし、廻船問屋達が会合衆による合議制を取り入れていました。大湊は造船業も盛んで、北条早雲などの大名達の軍用船を受注したり、秀吉の朝鮮出兵などにも大量の船を供給したりして、武家社会とも密に関わっておりました。

 

余談  存星の盆

存星」と言うのは黒地や赤地や黄地の漆を塗った上に、別の色漆を使って模様を描き、細い線彫りを施して、その線の溝の中に金泥を埋め込んだもの。(沈金に似ていますが色漆などが使われますので華やかです))