式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

144 信長と天下布武

天下布武」とは穏(おだ)やかではない。全く、信長は自分を何様だと思っているのか、天下を統(す)べるのは俺様だ、俺以外いない、とでも思っているのか、と咬みつきたくなる様なこの言葉。彼の戦歴や成し遂げた事業を列挙してみると、成程そう思っても仕方がない、と納得してしまう所があります。

けれど、本当にそうなのか、と立ち止まって考えますと、そこに腑に落ちないものが有ります。信長が「天下布武」の印章を使い始めたのは、まだ覇業の始まる前の初期の頃です。それは、覇業どころか、周辺国に圧し潰され兼ねない程の小国の信長が、美濃の斎藤龍興を打倒した頃に使い始めた印章なのです。

 

岐阜城

信長が足利義昭の要請を受けて上洛を援ける為には、どうしても美濃を通らなければなりません。通る為には美濃の斎藤龍興を退(ど)かさなければならず、旧来からの紛争も有って、両者は激突します。結果、信長は龍興を討ち倒して勝利します。

信長は義龍の居城の稲葉山城に入り、城の名前も地名も「岐阜」と改称しました。改称の際、どういう名前にしたら良いかを相談したのが、沢彦宗恩(たくげん そうおん)という禅宗のお坊さんでした。沢彦和尚は信長の教育係でした。和尚を教育係に選んだのは、信長の傅役(もりやく)だった平手政秀です。信長から、地名と城の改称の相談を受けた沢彦和尚は、中国古代の周王朝の立国の地・岐山「岐」と、孔子生誕の地である曲阜(きょくふ)から「阜」の文字を採用し、「岐阜」と名付けたと、言われています。そして、更に信長から、発給文書に押印する判子の言葉を何にしたら良いかの相談を受け、天下布武の文字を提案したと言われています。

周の文王(ぶんおうorぶんのう)(紀元前1125‐紀元前1052)は、岐山の麓に「周」を開き、儒教に基づいた仁政を行い、聖王として長く尊敬されている人物です。孔子は言わずもがなの聖人です。聖王、聖人のそれぞれゆかりの地の一字を取り、「岐阜」と名付けた沢彦和尚。それを採用した信長。その二人が善(よ)しとした「天下布武」の四文字が、「天下を征服してやるぞ」の意志表示と受け取るのは、みそ汁にとんかつソースを入れた様な気分になり、どうも不味くて呑み込めません。

(沢彦宗恩は平手政秀の菩提寺・政秀寺の開山。後に、臨済宗妙心寺の第39世住持になります)

 

七徳の「武」

武は戈(ほこ)を止める、と書きます。「武」という漢字は、武器を収めて戦いを止める事を意味します。

天下布武」を、武力を以って天下を制する、と婆は理解していました。ところが、よくよく調べてみると、そうでは無さそうです。

天下布武」は「七徳の武」と一緒にして語られる事が多いようです。「武」には七つの徳があって、「武」を布(し)く事は善政である、と言う風に受け取るのが、本来の意味である、とか・・・えっ本当っ ウソでしょ

という訳で、「七徳の武」の出典とされる『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)『宣公』の章の『12年』を見てみました。

 

『春秋左氏伝』

国立国会図書館デジタルコレクションに『春秋左氏伝』が収められています。

『春秋左氏伝・上』の内、問題の箇所は『宣公12年』の項で、コマ番号にして254、該当文章があるのはコマ番号264です。原文は各頁の上段に、書き下し文は下段に載っています。

さて、そこで『春秋左氏伝』の武の七徳と言われる箇所の書き下し文を、下記に転載します。旧漢字が見つからない場合は、新漢字や平仮名に置き換えています。また、旧仮名遣いで書いてある箇所は( )内に現代仮名遣いを併記しています。ふりがなも( )内に書いているので、煩雑になってしまって、ごめんなさい。

 

紀元前700年頃~紀元前300年頃迄の春秋戦国時代と言われる中国の話です。

が戦争をして、楚が勝ち晋が敗けました。楚子(そし)の家来の潘黨(はんとう)が楚子に聞きました。「どうして敗者の屍を積み上げて塚(京観)にしないのですか? 塚をつくれば敵に勝った証(あかし)を子孫に示す事が出来るのに」と言うと、楚子は「お前の知る所ではない。武と言う文字は戈を止めると書く。昔、周の武王「商」と言う国に勝った時、頌(しょう)を作ったことがある・・・

以下、読み下しの本文(太字)

 

『潘黨曰(いわ)く、君いづくんぞ武軍を築きて晋の尸(し(=屍))を収めて以て京観を為(つく)らざる。臣聞く、敵に克(か)ちては必ず子孫に示して以って武功を忘るヽこと無からしむと。楚子曰く。汝が知る所に非(あら)ざるなり。夫(そ)れ文に戈(くわ(か))を止(とど)むるを武と為す。武王商に克(か)ち、頌を作りて曰く。載(すなわ)ち干戈(かんくわ(かんか))を をさめ、すなは(わ)ち弓矢(きうし(きゅうし))をつつむ。我れ懿徳(いとく(→良い徳))を求めて、つひ(い)に時(ここ)において夏(おほい(おおい)(→盛ん))なり。允(まこと)に王として之(これ)を保てりと。又武を作る。其卒章に曰く、汝の功を定むることをいたすと。其三に曰く、鋪(し)きて時(こ)れ繹(たず)ぬ。我れ徂(ゆ)きて惟(これ)定まらんことを求むと。其六に曰く、萬邦を緩(やす)んじて屢(しばしば)豊年なりと。()れ武は暴を禁じ兵を戢(おさ)め、太(たい)を保ち功を定め、民を安んじ衆を和(やわ)らげ、財を豊にする者なり。 (以下略)

 

アンダーライン部分の原文 夫武禁暴戢兵。保太定功。安民和衆。豊財者也。

 

天下布武」の成語由来は?

上記アンダーラインを基に、「武に七徳あり(武有七徳)」の成語が出来たようです。
1. 暴を禁ず。 2. 兵を戢(おさ)む。 3. 太を保つ 4. 功(こう)を定む。 5. 民を安んず。 6. 衆を和(やわ)らぐ。 7. 財を豊かにす。

この七つの徳目が挙げられています。が、「天下布武」の様な四文字の成語は、春秋左氏伝にはどこにも書かれていませんでした。

戈を止めるという文字を合成すると「武」。ならば、この二文字を並べて書くとどうなるかと調べてみましたら、「止戈(しか)」と読み「戦争を止めること」と、辞書に出ていました。因みに「止」は、歩くのをやめてそこに留まっている足首から下の、足の象形文字だとか。いや、面白いです。「武」が平和的な意味を持つとは、夢にも思いませんでした。コペルニクス的逆転の発想です。

天下布武」の出典を求めてその他を検索してみましたが、「天下布武」の四字熟語そのものを見つける事は出来ませんでした。中国の古典を精査して読めばどこかにあるのかも知れません。が、ここ迄が婆の限界、お手上げです。

 

天下布武とは?

天下布武」の出典元が分からないので、婆は大胆に妄想します。これはきっと、沢彦和尚が「武」の徳目を善しとして、それを天下に広める事を願って造語したのではないかと。

七つの徳目の中で、婆が注目したのは、「保太」です。

「太」って何? 「太」って「大」を二つ重ねた字です。大ヽ←繰り返し記号のチョン点が大の中に入ってしまっている字です。大よりももっと大きい事を表します。太平洋、太陽、太白(=金星)、太河(=黄河)、太極(→宇宙の根源)・・・と辿(たど)って来ると、「太」を保つ、と言う事は、余程大きい事を保つ、維持すると言う事だろうと、想像する訳です。

宇宙や大地を保とうとしても、それは人間がどうのこうのして保てるものではありませんから(治山治水を除いて)、保つものは人間世界の事でしょう。そこから考えられる事は、国を保つ、国家を保つ、体制を維持する、或いは、治安を保つ、乱れた世を正し平和な世を保つなどなど連想ゲーム式に色々な言葉が浮かんできます。

 

天下静謐(てんかせいひつ)

1567に、信長が稲葉山城岐阜城と改め、「天下布武」の印章を用い始めましたが、その時より遡ること90年前の文明9年(1477年)11月20日応仁の乱終結を祝い、「天下静謐の祝宴」室町幕府によって開かれました。西軍の山名宗全が病死、東軍の細川勝元も病死し、次世代の山名政豊細川政元の間で和議が成立しました。厭戦気分の各武将も本国へ引き上げ、乱を起こした首謀者が誰だかうやむやの内に処罰される者も無く、何となく治まった「天下静謐」でした。

足利義尚が政務を執り始め、義政が隠居して東山に山荘を建て、平和が訪れたかに見えましたが、権力闘争はまたぞろ頭を擡(もた)げ始め、争いは止む事を知りません。室町幕府凋落の果てに、最後の将軍となった足利義昭が頼ったのは、織田信長でした。

信長が自分の印章に「天下布武」の文字を用いたのは、天下静謐を願っての事かも知れません。義昭を援(たす)け、足利将軍家を中心にした秩序ある武家社会を打ち立てようと軍務に忙殺されている間に、将軍と信長との間にある権力の二重構造にヒビが入り、義昭は信長に叛旗を翻しました。義昭を駆逐して後の信長は、次第に力の信奉者になって行き、仕舞には自身を「魔王」とまで自称する様になって行きます。

沢彦和尚はひょっとして「武」の持つ平和と武力の二面性を喝破して、天下布武の文字にそれを仕込んだのかも知れません。戈を止めて戦いを無くすには、戈を止める武器が必要です。でなければ、無手勝流の真剣白刃取りで立ち向かうしかありません。人徳で靡(なび)かせ、交渉術で歩み寄り、慰撫して陣営に取り込み、皆の憧れの国を築いて我も我もと押し寄せて来る様な、そういう国を造れば・・・うーん、大変なこっちゃ!