式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

145 信長年表 1 誕生前から元服迄

織田信長と言えば、知名度抜群の戦国武将です。学校で習うのは勿論の事、小説で、映画で、テレビのドラマで、そしてゲームで、頻繁に取り上げられています。彼の生涯についてはそれ故、御存じの方が大勢いらっしゃいますので、ここでは敢えてそれを書かず、代わりに彼の人生の年表を記して、それに代えたいと思います。

彼が生まれた時代を知る為に、彼が誕生する2年前からの世の中の動きを書き出します。また、彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども視野に入れながら、彼本人の事績に関係のない事柄であっても、或る程度取り入れていきたいと思います。

 

※ 年表表記について

〇 西暦年月日を前に、その後に続けて和暦元号年月日を( )内に記します。

〇 西暦年はグレゴリオ暦です。

〇 年月日という漢字表記はピリオドを以て代用します。

〇 元年の場合は1と表記します。(例:弘治元年→弘治1)

〇 年だけが分かり、月日が分からないものについては、年初にまとめて列記します。従って、その年の初めに書かれた事柄であっても、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあり、時系列の順序が、その場合は狂っている場合があります。

 

信長誕生2年前から

1532(享禄(きょうろく)5)  織田信秀、策略をもって那古野城を奪う。(乗っ取りの時期については1533年の蹴鞠大会以降という説も有り)。

尾張勝幡城(しょうばたじょう)主・織田信秀(信長の父)は今川氏豊連歌好きを利用して連歌仲間に入り、信用を得てから氏豊の那古野城にしばらく滞在。信秀は病に倒れ、本国より家臣を呼び寄せ、油断していた氏豊側の隙を見て兵を引き入れて城に火を放ち、これを奪い取った。氏豊は捕らえられるも解放される。

1532(享禄5.05.~ ) 堺公方政権内部の抗争激化。

堺公方足利義維(あしかが よしつな)を擁立していた細川晴元は、対立していた管領細川高国を前年1531年の摂津の大物(だいもつ)で討滅すると(大物崩(だいもつくず)れの戦い)、京都の将軍・足利義晴と和睦する。それまで義維(よしつな)を擁立していた晴元は、これを機に義晴側に接近して行く。

細川晴元と共に、堺公方・義維を盛り立てていた三好元長(みよし もとなが)がこれに激怒。細川晴元 vs 三好元長の争いが始まる。これとは別件で、畠山義堯(はたけやま よしかた) の家臣木沢長政が、主君・義堯(よしかた)から細川晴元へ乗り換えようと晴元に接近。これに義堯が怒り、細川晴元憎しの一点で三好元長と畠山義堯が手を結ぶ。そこに、細川晴元に肩入れしていた本願寺一向宗(浄土真宗)が絡まる。

1532.07.17(享禄5 .06.15) 飯森山城の戦い、堺公方の幕府瓦解を誘発。

木沢長政と細川晴元の援軍が立て籠もる飯森山城(いいもりやまじょう)を、三好元長・畠山義尭が攻囲、その攻囲網の更に外周から一向一揆軍が攻めて挟撃する。三好・畠山連合軍が敗北。畠山義尭自害。三好元長は堺の顕本寺(けんぽんじ(法華宗))まで敗走するも、一向一揆軍は20万の大軍をもって堺を包囲。進退窮まった元長は嫡子・仙熊丸(せんくままる(=長慶(ながよし))などを逃がして、顕本寺で6月20に自害。

堺公方足利義維細川晴元に捕えられる。

1532.08(天文1.07) 将軍・足利義晴近江八幡の桑実寺(くわのみでら)に避難。

管領細川高国は将軍・足利義晴を支えていたが、細川家本家の跡を狙う細川晴元と対立し、高国と晴元は天王寺で衝突 (天王寺の戦い)。結果、高国が敗北し自害する(大物崩(だいもつくずれ))。側近高国の敗死に危機感を募らせた足利義晴は近江の六角定頼を頼り、六角氏の観音寺城山麓にある桑実寺に入り、そこで幕府の政務を行う。

1532.08.28(享禄5.07.28) 改元元号を享禄から天文(てんぶん)に改める。 

1532.08.29(天文1.07.29) 天文元年

1532.09.22.~ (天文1.08.23) 天文法華の乱・山科本願寺合戦

飯森山城で畠山義尭を討ち取り、三好元長を敗走させて堺の顕本寺で自害させた一向一揆勢は、勢いを止む事なく大和に侵入。興福寺春日大社を襲い、京都までも争乱に巻き込みかねない情勢になった。一向一揆軍が法華宗を攻撃すると言う噂が流れ、それに対抗した法華宗徒が蜂起。一向宗を初めに焚きつけた細川晴元も燃え広がった一向一揆に脅威を覚え、これを鎮圧すべく逆に法華宗と手を結んだ。そして、8月23日、法華一揆軍・細川晴元・六角定頼の連合軍が山科本願寺を包囲、攻撃を始める。結果、細川晴元側が勝利し、山科本願寺側は寺院の全てを焼亡した。この戦いはこれで終わらず、長きにわたり尾を引く事になる。

山科本願寺はこれによって寺地を、証如の居た大坂へ移し、石山本願寺へとなって行く。やがて信長は、石山本願寺と戦う事になるが、それは凡そ40年後のことである。

 1532.11.16 (天文1.10.20) 足利義維、阿波に逼塞

細川晴元に捕えられていた堺公方足利義維は堺を脱出、淡路に逃れた後、阿波に渡りその地に逼塞(ひっそく)する。

1532.12.03. (天文1.11.07) 将軍・足利義晴細川晴元の間で和睦が成立する。

1533.07.12.(天文2.06.20) 三好仙熊、一向宗細川晴元の和睦斡旋の労を取る。

細川晴元三好元長・畠山義尭を討つ為に、一向宗を焚きつけて一揆軍を起こさせ、飯森山城攻防戦に利用した。が、目的を果たした後も一揆軍の反乱は勢いを増し、法敵・法華宗徒と衝突を繰り返した。更に、各地に波及、鎮火にてこずった晴元は、一揆討伐に舵を切った。細川晴元一向宗が対立し、戦乱は拡大。一揆に対しては一揆をと、晴元は、今度は法華宗徒に一揆を起こさせ一向一揆を攻撃させた。(「享禄の錯乱」「天文の錯乱」「天分の乱」「天文法華の乱」)

この事態に、三好元長家督を継いだ嫡子・仙熊丸(せんくままる)は、12歳ながら事態収拾に乗り出し、叔父三好康長などを動かして和睦させる。仙熊丸は後の三好長慶(みよしながよし)である。

1533.08.02~(天文2.07.12~) 織田信秀が和睦の蹴鞠(けまり)大会を開く。

織田信秀(信長の父)は、清洲三奉行の一人・織田藤左衛門と争っていたが講和し、講和を記念して蹴鞠(けまり)大会を勝幡城で連日行い、更に清洲城に場を移して続行した。

1533.11(天文2.10) 足利義晴、病に伏す。

義晴の病気で、訴訟などの審議が遅れ幕府の政務が滞る。病名は水腫。

 

信長誕生

1534.06.23(天文3.05.12) 信長誕生。幼名は吉法師(きっぽうし)

尾張国織田弾正忠家の主・織田信秀と継室との間に、嫡出長子の男子が誕生。吉法師と名付けられる。信秀は正室を離縁した後、継室を迎えた。この継室は土田政久の娘で土田御前と一般的には言われているが、小嶋信房の娘だとも、六角高頼の娘などとも言われ、諸説ある。吉法師が生まれた時には既に庶出の兄・信広がいた。後に兄弟で家督を争う事になる弟の信行(=信勝=達成(みちなり)=信成)は、同母弟である。信秀には正室・継室・側室併せて6人おり、息子は12人、娘は15人居た

1534.07.18(天文3.06.08) 足利義晴近衛尚通の娘と結婚

足利将軍家摂関家から正室を迎えるのは義晴が初めてである。

1534.09.(天文3.08) 足利義晴、政務再開する。

1534.10.(天文3.09) 足利義晴、六角定頼と共に上洛する。

定頼は義晴を上洛させると直ぐ帰国し、在国しながら幕政に参加する道を選ぶ。

1535(天文4)   細川晴元三好長慶、木沢長政などが入洛、幕政に加わる。

1535(天文4)   細川晴元、義晴の偏諱を受けて「晴元」と名乗る。

細川晴元は、足利義晴偏諱を受けるまでは細川六郎と名乗っていた。このブログでは、便宜上知名度の高い「細川晴元」で通してきたが、実は、此の時を以て諱が「晴元」になる。

1535.10.16.(天文4.09.20)  丹羽長秀尾張の丹羽長政の次男として誕生。

1536.3.31(天文5.03.10)      足利義晴と御台所の間に男子誕生。

男児は菊幢丸(きくどうまる)と名付けられた。後の13代将軍・足利義輝である。生まれると直ぐ、義晴は菊幢丸を近衛尚通(このえひさみち(→従一位関白太政大臣))の猶子(ゆうし)にした。近衛尚通は学問や文芸に秀で、日本の「戦国時代」の呼称は、日本の騒乱状態を中国の春秋戦国時代に重ね合わせて、彼が「戦国の世の如し」と言った事から始まっている。

1536.09.12.(天文5.08.27) 義晴、将軍職を菊幢丸に譲る意向示す。

義晴は、菊幢丸を支える8名の年寄衆を指名した。指名された年寄衆は大舘恒興、大舘晴光、摂津元造(せっつ もとなりorもとみち(=摂津晴門の父))、細川高久、海老名高助、本郷光康、荒川氏隆、朽木稙綱(くつき たねつな)の8名である。

1537.03.17.(天文6.02.06) 豊臣秀吉誕生。

秀吉は尾張中村で生まれ、父は木下弥右衛門。幼名日吉丸。と言うのが通説である。が、諸説あり、秀吉の出自には不明な点が多い。下層出身である事は確かだが、日吉丸と言う武家の子の様な○○丸と付く幼名は後世の創作、と言われている。

1537.12.15.(天文6.11.13) 足利義晴に第2子の男子誕生。幼名千歳丸。

千歳丸(ちとせまる)は、菊幢丸の同母弟。後の15代将軍・足利義昭である

1538(天文7)  阿波に逼塞していた元堺公方足利義維に嫡子が誕生する。

幼名不明。初名義親(よしちか)。後の14代将軍・足利義栄(あしかが よしひで)である。義栄は、祖父は11代将軍・足利義澄、父は12代将軍・義晴の実弟・義維(よしつな)である。従って、義晴の子・菊幢丸(=義輝)とは従兄弟に当たる。義親(=義栄)の母は大内義興の娘。

1538年頃からか?  足利義維・三好実休、堺の豪商と交流頻繁。

義維と義栄の側近と三好実休は、しばしば堺の豪商の茶会に出席する。

1540.07.12.(天文9.06.09)  三好長慶の家臣・松永久秀の名が寄進の書状に初めて登場する。

松永久秀は、三好長慶の右筆(ゆうひつ)として活躍し始めていたと見られる

1541.01.23.(天文9.12.27)  松永久秀、堺豪商・樽井甚左衛門尉の購入地安堵添え状を発給。

1542(天文11)            松永久秀、三好軍の指揮官として大和国人残党討伐に携わる

1542.04.02.(天文11.03.17) 太平寺の戦い。木沢長政討死。

幕府の追討軍(三好長慶三好政長・遊左長教(ゆさながのり)連合軍)8,000と、木沢長政7,000が太平寺で対戦。結果、連合軍側が勝利。木沢長政は討死する。

1542.(天文11.03)    木沢長政討死を機に、義晴、近江朽木(くつき)から京へ帰還。

太平寺の戦いが始まる前に義晴は朽木に避難していたが、事態が落ち着いたので戻った

1542.12.26.(天文11.11.20)  千寿丸、興福寺一乗院に入室。法名を覚慶(かくけい)と名乗る。

此の時千寿丸は6歳。入室に当たり、母の実家である近衛尚通の嫡男・近衛種家の猶子に成る。出家理由は、既に兄・菊幢丸(=義輝)が居たので、武家の慣例に従った。

1543.01.31(天文11.12.26) 徳川家康誕生。

三河国松平氏松平広忠の嫡男として岡崎城で誕生。幼名松平竹千代。「徳川」姓は、徳川家康が創始した名字であり、家康直系と御三家のみに許されている。他の松平家は徳川を名乗れない。

1543.08.25.(天文12.07.25)   細川氏綱細川晴元打倒の挙兵をする。

細川氏綱は、元管領細川高国の養子である。1531年(享禄5年)、高国が大物(だいもつ)で細川晴元に敗れ(「大物崩れ」)て敗死した後、養子の氏綱は、養父高国の仇を討つ機会を狙っていた。本来ならば細川京兆家(細川本家)の家督を継ぐべき氏綱は、晴元にその地位を奪われていた。氏綱は、高国実弟達や恩顧の者、反晴元派を糾合して戦ったが、晴元に敵対し得る戦力は無かった。

1543.09.23.(天文12.08.25)  種子島に鉄砲伝来

大隅国種子島に中国船が漂着した。(漂着した時期については、南浦文之(なんぽぶんし)著の鉄炮記(てっぽうき)』による。他にアントニオ・ガルヴァオ著の『新旧世界発見記』とジョアン・ロドリゲス著の『日本教会史』では1542年の事とあり、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』では1544年となっている。)

漂着したその中国船にポルトガル人が3人居て、2挺の火縄銃を持っていた。彼等は島主・種子島時堯(たねがしまときたか)の前で試し打ちの演武をした所、時堯はその威力に驚き、武器としての有効性に着目し、一挺2千両(現在価格約2千万円~1億円か? )でその火縄銃を2挺購入した。そして、家臣・篠川小四郎に火薬の製法を学ばせ、美濃国関から優秀な刀鍛冶・八板金兵衛を招聘(しょうへい)し、銃の複製を命じた。金兵衛は殆どを完成させたが、筒を塞ぐネジの製法が分からなかった。金兵衛の娘・若狭はネジの製法を知る為にポルトガル人と結婚したと言う伝説がある。

1544(天文13)  薩摩で根占(禰寝(ねじめ))戦争

種子島氏は、1542年に薩摩藩の国人・大隅の禰寝氏(ねじめし)に屋久島を略奪されていたが、その屋久島を取り戻すべく、禰寝氏を攻撃した。その時、この火縄銃を使った。種子島氏は禰寝氏を敗北させ、屋久島を取り戻したが、鉄砲の性能は悪く、不発や暴発が相次いだ。とは言え、殺傷能力は旧来の武器に比べて比較にならない程凄かった。

1544.(天文13) 再度、中国船が種子島に漂着。

乗船していた人の中に鉄砲の製法に詳しいポルトガル人が居た。金兵衛は彼から正式な鉄砲工法を学び、ネジの切り方を教わり、国産銃が完成した。年内には数十挺を製造した。

堺の橘屋(たちばなや)又三郎は鋳物工である。また、九州や琉球とも交易をしている貿易商でもあった。又三郎は鉄砲の情報を得ると直ぐ種子島へ赴き、1~2年鉄砲を学んで熟知、その技法を堺へ持ち帰った。

1544(天文13.02) 國友で鉄砲製造が始まる。

種子島時堯から島津義久の手に鉄砲が渡った。島津義久はその鉄砲を将軍・足利義晴に献上した。将軍・義晴は管領細川晴元に銃の複製を命じた。細川晴元は、優れた刀鍛冶集団が居る北近江の国友村へ、銃の製作を命じた。國友善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫らが承って、村あげて制作に取り掛かった。幸いな事に、近くを流れる姉川流域は鉄が採れた。「鉄糞岳(かなくそだけ)(→金糞は鋼滓(こうしorこうさいの事。スラグ)」「金居原(かないはら)」「たたら」など鉄にまつわる地名がある程である。若狭湾に近く、海路で出雲の鉄も入手し易くかった。

1544(天文13.08.12)  國友、鉄砲2挺を将軍に献上した。

1545(天文14)   紀州の根来で鉄砲の製作が始まる。

紀州国の吐前城(はんざきじょう)の城主にして、根来寺の僧兵の総帥・津田監物算長(つだけんもつかずながor さんちょう)(=杉ノ坊算長)は、種子島時堯に会いに行き、種子島銃1挺を買い求めた。そして、刀鍛冶の芝辻清右衛門に銃の複製を依頼した。

1546(天文15) 吉法師、古渡城にて13歳で元服。織田三郎信長と名乗る。

元服の後見役は平手政秀。それ迄吉法師の教育係だった沢彦宗恩は信長の参謀となる。吉法師は小さい頃より好奇心旺盛で、科学的であった。合理的なものは積極的に取り入れた。その行動は当時の人々の理解を越え「うつけ」として映った。彼は鷹狩や野駆けで領地の隅々まで地形や植生や農地の状態を把握した。野山を駆け回るのに、若様然の立派な着物を着ていられるか? いや、木に引っ掛けて着物を破き、湿地に足を踏み入れて泥だらけになるのがオチ。鉄砲玉入れの袋や、水筒の瓢箪、食料の干し柿などを荒縄に縛り付け腰に巻く。動き易く、働きやすい格好が何より。決して「うつけ」を演じて敵を油断させていた訳でも、本物の「うつけ」であった訳でもない、彼なりの合理的な振る舞いであったと婆は見ています

 

余談  鉄砲伝来

種子島に漂着した船は密貿易の倭寇で、倭寇の首領の王鋥(おうとう)(=王直(おうちょく))の所有する船だった。王鋥は明の海禁政策の法をかいくぐって密貿易を行い、肥前守・松浦隆信の招きで1542年に日本の平戸に根拠地を移した。その配下の船が台風に遭い、種子島に流れ着いたという事であり、漂着船はポルトガル船では無い。漂着の経緯は、村の地頭と乗船していた明国の五峰と名乗る者との筆談で判明した。彼等は種子島に半年くらい滞在していた。