式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

147 信長年表3 二つの上洛戦

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

 

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1) 〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります

 

1560(永禄3.) 松平元康、自害を思いとどまる。

松平元康、今川義元桶狭間で討死した後、義元に与した身の前途を悲観し、菩提寺大樹寺で自害に及ぼうとするが、住職に諭されて思いとどまる。

1560(永禄3.06) 信長、美濃に侵攻し斎藤義龍と戦う。

1560(永禄3.08)  信長、再び美濃に侵攻する。

1561(永禄4) 将軍・足利義輝、各地争乱の和睦を求める。

1561(永禄4.02) 信長、三河の松平元康と和睦

1561(永禄4.04) 松平元康、今川から離反して尾張に就く。

1561.06.18(永禄4.05.06) 三好長慶細川晴元と和議に動く。

和議のため細川晴元を京都に迎え、将軍・義輝と晴元が対面した。が、三好長慶はその直後、晴元を捉えて普門寺城に幽閉、更に晴元の長男・昭元も幽閉してしまう。

1561.06.23. (永禄4.05.11) 斎藤義龍、病没。享年33 or 35

1561(永禄4.08) 木下藤吉郎、寧々と結婚。

1561.10.27.~1561.10.28(永禄4.09.09 ~永禄 4.09.10) 第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)

1561年(永禄4.閏3月) 上杉憲政から関東管領職を譲り受けた長尾景虎・改め上杉政虎は、関東各氏族を脅かす北条を討つ為に出陣、北条氏康小田原城を攻囲した。一方、北条は、武田信玄に、上杉の背後を突く様に支援を要請。武田はそれに応えて、信濃の割ケ嶽城(現信濃町)を落し海津城を築いた。この事態に上杉政虎は一旦越後に軍を引き、改めて永禄4年8月に信濃に向け進発し、妻女山に陣取った。信玄は同年8月29日に海津城に入った。同年9月9日、信玄は別動隊を動かして、上杉軍を妻女山から八幡原へ追い立て、「敗走」して来るの上杉軍を八幡原で待ち受けて殲滅するという作戦を立てた。一方、上杉軍は夜陰に乗じて妻女山から八幡原へ動いた。早朝、八幡原で両軍が激突する。結果は勝敗不明。ただ、武田軍の方が指揮官の武田信繁(信玄息)の討死をはじめ、譜代、重臣などの戦死者が多かった。

1561(永禄4.12) 上杉政虎、名を輝虎と改めた。32歳

上杉政虎足利義輝から偏諱(へんき)を賜り輝虎と名を改める。この頃、関東の諸将、風の向き次第で輝虎に靡(なび)いたり、北条に靡いたりしていた。つまり、輝虎が越後へ退いて関東を留守にすると北条に靡いた。輝虎が関東に出兵して来ると、上杉に従うという動きをしていた。

1562(永禄5) 毛利元就石見銀山を手に入れる。

1562(永禄5) 大村純忠は、自領の横瀬浦をポルトガル人に新貿易港として提供。

熱心なキリシタン大名大村純忠は、仏教徒を弾圧。寺社を破壊し、僧侶や神官を殺害した。

1562.02.18(永禄5.01.15) 清須同盟

信長と松平元康、清洲城で会見し,互いに誓詞を交換して正式に同盟を結ぶ。

1562.04.08~1562.06.21(永禄5.03.05.~永禄5.05.20) 久米田の戦い。教興寺の戦い

細川晴元父子幽閉事件に端を発し、戦いが始まる。細川晴元六角義賢(ろっかくよしかた(=承禎(じょうてい))の姉婿(義兄)である。彼は、三好長慶が晴元父子を幽閉した事に激怒。兵を挙げる。三好一族に城を奪われた畠山高政六角義賢に同調。両氏族連携し、三好一族と戦う。久米田(現岸和田市)の戦いでは、三好氏とその一門 対 畠山高政と遊佐氏等+根来鉄砲隊。結果。三好軍総崩れ。総大将・三好実休討死。実休本隊は根来鉄砲隊の集中砲火を浴び全滅する。

教興寺(現八尾市)の戦いでは、三好氏一門+松永久秀等 対 畠山高政+安見宗房+湯川直光+根来鉄砲衆。三好軍は鉄砲の威力を避けて雨の日に戦端を切った。結果は、三好側の大勝利。

三好長慶畿内全域に支配を及ぼし、将軍を凌ぐ勢いだったが、この頃から衰えが見え始めた。久米田の戦いも教興寺の戦いも、長慶自身は出陣しなかった。永禄3年3月に弟の十河一存(そごうかずまさorかずなが)が病没、永禄5年3月に弟の三好実休が戦死、永禄6年8月に唯一の嫡嗣子・義興が22歳で早世し、相次ぐ不幸で鬱病になったと言われており、何を思ったか弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を城に招いて殺害してしまった。鬱病が更に悪化、弟殺害の後悔に苦しみ、2か月後の1564(永禄7.07.04)冬康のあとを追う様に死去した。享年43

1562(永禄5.05)  信長、斎藤龍興と戦う。(この時、信長29歳)

1562(永禄5.06) 毛利元就、出雲侵攻開始。

1563(永禄6) 織田信長、居城を小牧山城に移す。(信長30歳)

1563(永禄6) 松平元康、家康と改名。

1563(永禄6.03) 織田信長の娘・五徳松平家康の嫡男・竹千代(信康)が婚約。

1563~1564(永禄6~7) 将軍・義輝、上杉景虎北条氏政武田晴信等の抗争の調停を図る

1564(永禄7) 三河一向一揆、家康、これを鎮圧。

1564(永禄7) 信長、犬山城を落す。

1565.6.17(永禄8.5.19) 永禄の変。足利義輝暗殺 享年30

三好重存(しげまさ)(=義継)・三好三人衆・松永久通らが、足利義輝を殺害した。松永久秀はこの時大和に居た。久秀は、この報せを受けて義輝の弟で、興福寺一乗院門跡の覚慶を、興福寺に幽閉した。覚慶は元々興福寺の僧侶である。自宅に幽閉された様なものである。久秀は、三好一統の暗殺から覚慶を守る為、厳重な警備を敷いて覚慶を庇護下に置いた。

※1  三好三人衆とは三好長逸(みよしながやす)・三好政康(=宗渭(そうい))・岩成友通(いわなりともみち)の三人である。

1565.07.04(永禄8.06.07)   朝廷、足利義輝従一位左大臣を追贈。正親町(おおぎまち)天皇3日間喪に服す。

1565.08.23(永禄8.7.28) 覚慶(=足利義昭)、興福寺を脱出。

細川藤孝、三渕藤英 (藤孝兄)、和田惟政(わだこれまさ(甲賀七家の内の一人))、一色藤長、米田求政(こめだもとまさ)、仁木義政(六角氏綱の子息)らの手によって、覚慶は奈良を脱出、近江の和田惟政の下に逃れた。これには、朝倉義景、若狭の武田義統(たけだよしずみorよしむね)、織田信長等による松永久秀への根回しがあった。

 

上洛の先陣争い 二つの勢力

 

覚慶支持勢力

第13代将軍・足利義輝が非業の最期を遂げ、将軍位が空位になった。

義輝弟の覚慶は、永禄の変を逃れて近江に身を置いた。彼は兄の跡を継いで将軍になる為に、有力大名に支援を要請した。朝倉、上杉、武田、織田・・・と上洛を促す書状を送ったが、それぞれ内憂外患の事情を抱えており、直ちに上洛できる状態では無かった。織田信長が覚慶の要請に一番応えられる位置に居たが、それでも、美濃の斎藤氏や武田の脅威があった。

足利義栄支持勢力

一方、三好氏は堺公方足利義維(あしかが よしつな)の嫡男・義栄(よしひで(=義親))を庇護していた。義栄の祖父は11代将軍・足利義澄で、実父は義澄次男の義維、義維は10代将軍・義稙(よしたね(=義材(よしき))の養子にもなっている。二重三重の将軍家との繋がりがあり、殺害された足利義輝とは従兄弟同士なのだ。そもそも義輝殺害は、義輝を退け義栄を将軍にする為だったと、山科言継(やましな ときつぐ)や、ルイス・フロイスが見立てて書いている。

三好氏は、家宰の篠原長房が先頭に立って足利義栄を推戴し、上洛作戦を実行し始めた。

 

三好方の上洛作戦

 

1566(永禄9) 松永久秀、三好勢から孤立。足利義栄から追討令が出される。

1566.3.08~08.31(永禄9.02.17~永禄9.08.17) 阿波の三好一族、義栄を推戴し上洛戦を開始。

長慶亡き後、三好氏の本拠地四国に居て氏族を支えていた家宰の篠原長房が、三好勢をまとめあげ、安宅信康(冬康嫡男)に命じて淡路水軍百数十隻の船を出し、軍兵を率いて兵庫に上陸。松永久秀の摂津滝山城を攻囲し、落城させた。松永久秀、大和に退却し、更に堺へ逃亡する。

1566.06.17(永禄9.05.30) 三好軍、堺を包囲。松永久秀は逃亡。一時行方不明になる。

摂津・山城にある松永勢力圏の城、次々と三好方に落とされ、久秀側は劣勢になる。

1566.11.04(永禄9.09.23) 三好軍は、足利義栄を摂津越水城に迎え、主君として遇する

1566.11.14(永禄9.10.03) 義栄、朝廷に太刀や馬を献上した。

1567.02.03(永禄9.12.24) 義栄、朝廷に従五位下・左馬守の叙任を求め、28日に許された。

1567.02.13(永禄10.01.05) 義栄、朝廷から将軍宣下を認められた。

この将軍宣下は消息宣下といって手紙によって認められたもので、略式のもの

1567.03.26(永禄10.02.16) 三好義継、久秀の下へ出奔。

三好義継は三好長慶の後継ぎとして三好氏の旗頭の立場を務めていたが、足利義栄が将軍に推戴されると、何事も義栄を中心に動き出し、彼は居場所を無くして、松永久秀を頼った。

1567.05.26~11.10(永禄10.04.18~永禄10.10.10) 東大寺大仏殿の戦い。

この戦いは、[松永久秀と三好義継]  [三好三人衆筒井順慶池田勝正の連合軍]の戦いである。東大寺近くの松永久秀の居城・多聞山城と、東大寺塔頭に駐屯した三好軍に因り、東大寺境内と市街を戦場にして4月~10月まで戦いが繰り広げられた。その間、畠山高政根来衆などが久秀へ援軍を送った。10月10日夜中、松永軍が東大寺を奇襲、東大寺に火の手が上がり、大仏殿などかなりの範囲が焼け、大仏の仏頭も焼け落ちてしまった。寺で宿営していた三好軍側は総崩れになり、退却した。

1567.06.12(永禄10.05.06) 義栄、将軍として石清水八幡宮の人事に介入、朝廷より制止される。

1567.12.03(永禄10.11.03)、義栄は、正式な将軍宣下を朝廷から拒否された。

朝廷から要求された献金に応じられなかったのが、その原因である。

1568.03.04(永禄11.02.06) 義栄、朝廷に将軍宣下に必要な経費を献上した。

献上した銭に多くの粗悪な銭が混ざっていたので、受け取りの可否を巡って揉めた。

1568.03.06(永禄11.02.08) 足利義栄室町幕府14代将軍に任じられた。

1568.03.11(永禄11.02.13) 足利義栄、将軍宣旨を受け取る。

義栄は上洛することなく、摂津の富田荘(現高槻市)にある普門寺(臨済宗)で宣旨を受け取った。勅使は山科言継である。

1568.03.24(永禄11.02.26.) 三好一族は、堺の津田宗及の屋敷で150人も集まって祝賀会を開いた。

1568.09.27(永禄11.09.07) 信長、足利義昭を奉じて上洛の途に就く。

1568.10.02(永禄11.09.12) 信長、三好勢方だった六角義賢の箕作城(みつくりじょう)1日で落とし、翌13日に義賢居城の観音寺城を、これも1日で落城させた。

三好軍は信長の前にひとたまりもなく敗北を重ね、義栄在所の富田も信長によって焼き払われた。この頃、義栄は病気を患っており、阿波に退いた。

1568(永禄11.10) 義栄病没。享年31。

義栄 将軍在位 1568.03.06.~1568.10.(永禄11.02.08~永禄11.09)   8か月

 

信長上洛までの軌跡

 

1565(永禄8.10.) 武田家嫡男・義信が幽閉される。

義信の正室今川氏真の娘は離縁され、今川に送り返された。

1565.(永禄8.11)   信長、武田信玄と同盟。

信長、養女を武田信玄の息子・勝頼に嫁がせる。

1566(永禄9) 家康松平から徳川姓に改姓。

この頃家康、東三河、奥三河を平定し三河を統一する。

1567(永禄10) 木下藤吉郎竹中半兵衛重治を得る。

斎藤氏滅亡後、藤吉郎は信長へ願い出て、竹中重治牧村利貞・丸毛兼利を与力として得る。

1567(永禄10.) 信長、稲葉山城を落す。稲葉山を岐阜と改める。岐阜城主になる。

1567(永禄10.) 信長、天下布武の印を使い始める。

1567(永禄10) 信長、美濃加納で楽市場の制札を出す。

1567(永禄10)春 信長、滝川一益に北伊勢攻略を命じる。

 1567.03.20(永禄10.02.10) 義輝追善供養の六斎踊りが真如堂で行われる。男女計8万人参加。

1567(永禄10.04) 上杉輝輝虎、厩橋城代の北条高広が謀叛の為、これを破る。

1567(永禄10.05) 徳川家康嫡男・竹千代(信康9)織田信長の娘・徳姫(9)が結婚

1567.09.17(永禄10.08.15) 斎藤龍興、伊勢へ逃れる。

1567.11.19(永禄10.10.19.) 武田義信(武田信玄嫡男)、自害。

1567(永禄10.11) 正親町天皇より信長に皇室領回復を命じる綸旨が届く。

1568(永禄11.02) 北伊勢の神戸具盛(かんべとももり)、信長の三男信孝を養子にする。

1568(永禄11.07.25) 信長、足利義昭を美濃の立政寺(りゅうしょうじ)に迎える。

足利義昭上洛実現の為、越前国朝倉氏の下にいる義昭へ和田惟光らを遣わし、義昭を美濃の立政寺に迎えた。

1568(永禄11.08.) 信長、義昭上洛を援ける様にと、六角義賢に使者を遣わした。

六角義賢、これを拒否。更にもう一度使者を遣わしたが、矢張り拒否。実は、義賢は既に三好氏に通じていた。

1568.09.27(永禄11.09.07) 信長、足利義昭を奉じて京都上洛を開始する。

三好軍と敵対していた松永久秀と三好義継は、信長側に立ち、義昭上洛に協力的に動いた。

1568.10.02(永禄11.09.12~13) 観音寺城の戦い。箕作城(みつくりじょう)の戦い。

六角氏は本陣を観音寺城、主力を和田山城、脇陣を箕作城へと配置した。信長軍は攻め手を三つに分け同時に攻撃した。特に、箕作城を攻撃した信長は、日中の激戦の疲れも癒えぬ内の、その日の夜に火攻めの猛攻を掛けた。城兵はパニックに陥り、落城。箕作城の落城を知った和田山は、戦わずして逃げ出して陥落。観音寺城六角義賢も、夜陰に紛れて逃走してしまった。六角氏の18ある支城は(一つを除いて)ドミノ倒しのように降伏した。降伏しなかった日野城蒲生賢秀は、義兄の神戸具盛の説得に応じて人質を差し出して降伏した。此の人質が蒲生氏郷である。

1568.10.03(永禄11.09.13~) 信長、順調に京都へ進軍。

観音寺城の戦いや箕作城の戦いに於ける信長の圧倒的な勝利が京にまで聞こえ、進軍する先々で戦う前から敵城が降伏すると言う状態が続いた。9月26日には東寺を経て東福寺に着陣。義昭は清水寺に入った。細川藤孝に御所の警備を命じ、治安の回復を図った。三好方も京都周辺から撤退していた。29日、岩成友通が降伏。30日、義昭が芥川城に入り、将軍家の旗を掲げた。同日、細川昭元三好長逸が城を放棄、10月2日篠原長房が城を放棄して淡路へ逃亡。

1568.11.07(永禄11.10.18) 足利義昭、第15代将軍就任

1569.01.31(永禄12.01.05) 本圀寺の変。

足利義昭を将軍に就けた信長は、美濃国に帰った。その隙を突いて三好の残党が本圀寺に居る義昭を襲った。信長は直ちに馳せ参じたが、細川藤孝明智光秀たちの奮戦によって事なきを得た。信長は、義昭の為に将軍御所・二条城の建設を始める。

 

 

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「武将愛-SAMURAI HEART」「年表」「コトバンク」「地形地図」「古地図」「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan」、地域の出している情報、観光案内等々。その外に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。