式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

150 信長年表6 本能寺の変

前号では、室町幕府滅亡、浅井・朝倉滅亡、伊勢長嶋一向一揆討伐、長篠の戦いで織田・徳川連合軍勝利、そして、1576年3月25日(天正4年2月25日)に信長が安土城に入ったところまでを年表にしました。

今号は、手取川の戦い、三木城の戦い、鳥取城の戦い、高松城の水攻め、四国攻め、そして、本能寺の変までを扱います。

信長は、毛利と天下統一に向けて協力関係を築いていましたが、天正3年以降、膨張する毛利氏を抑える為に、毛利包囲網を構築する方向に動きます。

信長は、毛利勢力圏と織田勢力圏の境界にある緩衝地帯・播磨地方に手を伸ばします。二者に挟まれて揺れ動く播磨地方に割拠する小国領主達。オセロゲームの様に向背が変わります。そんな中で起きた上月城の戦いで秀吉側が勝利します。が、言う事を聞かなかったらどうなるか、見せしめのために秀吉が行った降伏した城兵皆殺しと、女達の磔、子供らの串刺しなどの凄惨な虐殺が、播磨人を凍り付かせ、却って織田からの離反に拍車を掛けます。領民に一向宗徒を抱える三木城の別所長治も、有岡城荒木村重も、織田のやり方に従えませんでした。

 

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇元年の場合は1と表記。(例:天正元年→天正01)  〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。 〇超有名人は氏を省略する事も有り。織田信長→信長。足利義昭→義昭。羽柴秀吉→秀吉。毛利輝元→輝元等々外にも。

 

年表

1576(天正04.05) 信長、本願寺討伐の為出陣、四天王寺一向一揆衆を破る。

1576(天正04.05中旬) 上杉謙信、義昭の要請により石山本願寺と講和する。

これにより、謙信、上洛の道が開け、謙信と信長の同盟は破綻する。

1576(天正04.09) 謙信、一向一揆支配下の諸城を攻め落とし、越中を平定する。

1576.10.05(天正04.09.13) 義昭の求めにより武田勝頼が上杉氏と講和する。

1576(天正04.11) 信長、正三位に叙せられ、内大臣になる。

1576(天正04.11) 上杉謙信能登に侵攻し七尾城を攻囲。(第一次七尾城の戦い)

1576.12.14(天正04.11.24) 義昭、毛利輝元に足利家の家紋の桐紋を与える。

1576.12.15(天正04.11.25) [三瀬の変] 信長、伊勢の北畠氏を乗っ取る。

信長は次男・信雄(のぶかつ)を伊勢の北畠氏に婿養子として送り込む。後に信雄は、義父・具教(とものり)と義兄弟を殺害、更に北畠氏家臣達を供応し謀殺。北畠氏を乗っとる。

1577,03.20(天正5.03.01) 信長、雑賀・鈴木孫一の居城を攻撃。孫一ら一揆勢降伏。

1577(天正5.06) 信長、安土城下に13ヶ条の掟書を出し、安土城下の繁栄を図る。

1577.07.21(天正5.07.06)  信長、新造の二条屋敷に正式に入居する。

1577.11.03(天正5.09.23) [手取川の戦い] 織田vs上杉。織田大敗北。

能登の守護・畠山義隆の跡を継いだのは幼児の嫡男・畠山春王丸である。実権は重臣の長続連(ちょう つぐつら)と綱連(つなつら)父子が握っていた。家中は親織田派と親上杉派とに分かれていた。上洛を意図する謙信は、親織田派の長父子の存在は排除すべき勢力だったが、七尾城は難攻不落の城で攻め落とせなかった。関東の北条の動きも有り、謙信は一旦春日山城に戻った。その間、畠山軍は上杉方の城を次々と落とした。謙信、再度七尾城に出陣し攻囲する。長氏、信長に救援を求め、七尾城に籠城する。同年8月、織田軍は、総大将・柴田勝家の下、滝川一益丹羽長秀前田利家佐々成政、など錚々たる武将達が4万の兵を率いて出陣する。途中、羽柴秀吉、戦列を離れ、引き上げてしまう。

一方、七尾城内に疫病が蔓延し、城主・春王丸は病死。謙信は遊佐続光(ゆさ つぐみつ)と内通して、長一族を皆殺しにし、落城させる。織田軍、同年9月23日手取川を渡河。織田軍が七尾城落城を知った時には、いきなり上杉軍とぶつかり、陣形を立て直す暇も無く算を乱して退却。折から増水していた手取川に足を取られ、討死する者や溺死する兵が多く出た。

1577(天正05.08) 松永久秀、信長に背き、信貴山城に立て籠る。

1577.11.19(天正05.10.10) 織田信忠信貴山城を落す。松永久秀・息子と共に自害。

1577.01.30(天正05.12.23) 謙信、次の遠征に向けて、大動員令を発した。

1578(天正06.01) 信長、正二位に叙せられる。

1578.04.19(天正06.03.13)  上杉謙信、病没。享年49

1578.04.20以降(天正06.03.14以降) 「御舘の乱」上杉謙信死去に伴い、後継者争いが起きる。

御舘の乱に乗じて、武田勝頼、北信濃へ出兵し、乱に介入する。

1578(天正06.06) 九鬼嘉隆、信長の命により鉄船造船、雑賀の水軍を破る。

鋼鉄船を手にした事に拠り、信長、大阪湾の制海権を握り、本願寺の補給路を完全遮断に成功。

1578.09.12(天正06.08.11) 細川忠興明智たま、勝竜寺城で結婚する。

1578.12.04(天正06.11.06) 九鬼嘉隆、甲鉄船6隻が、毛利水軍600隻を木津川河口で破る。

1578(天正06.12) 輝元、出陣を決意。出陣は天正7年1月16日と定めた。

輝元、武田勝頼徳川家康を攻撃し、織田の兵力を惹き付ける様に要請するも、毛利家臣・市川元教と松山藩主・杉重良の謀反が勃発。毛利氏、出陣を取り消し、上洛を断念する。その後の輝元は、義昭の再三の督促を無視。動かなかった。

1579(天正07) 秀吉、美作(みまさか)宇喜多直家を毛利から離反させ、織田側に服属させた。

1579(天正07) 安土城天守、竣工。

1579(天正07)  長曾我部元親、十河軍(十河存保そごう まさやすorながやす)に大勝。三好康俊も降伏。

1579(天正07.06) 光秀、丹波八上(やがみ)城を攻撃し、落す。

信長の命により、光秀、天正3年より丹波を攻略。堅城の八上城を光秀は完全に包囲し、兵糧攻めにする。天正7年6月、ついに落城。城主・波多野秀治とその兄弟3人は安土に連行され、処刑される。なお、光秀の母が波多野側の人質になり、波多野兄弟が処刑された時に磔にされて殺されたという悲劇の物語がある。が、史実では無い、と言われている。

1579(天正07.01) 毛利氏の重臣・杉重良が大友氏の調略で謀反。

杉氏、毛利氏の背後を脅かした。

1579.02.26(天正07.02.01) 上杉家の後継者争い、景勝に定まる。

景勝(長尾家血筋)が、御館の景虎(北条氏の血筋)に総攻撃を掛けた。北条方が雪に阻まれて救援困難の中、上杉憲政上杉景虎、道満丸が和議を求めて出頭する途中捉えられ、殺害された。

1579(天正07.05) 安土城天守閣完成。

1579(天正07.05) 浄土宗と法華宗による安土宗論が行われる。

1579(正7.08) 柴田勝家、加賀へ侵攻す

1579(天正07.09.) 伯耆の南条元続(なんじょう もとつぐ)、輝元に叛旗を翻す。

1579(天正7.09) 家康、北条氏と同盟を結ぶ。

1579.10.05(天正7.09.15) 家康嫡男・信康、切腹

1580(天正8) 有子山城の山名尭煕(やまな あきひろorたかひろ)父と意見が対立し逃亡。

尭煕、秀吉の陣営に赴き、帰順する。父の山名祐豊(やまな すけとよ)、秀吉に降伏後死去。自刃とも病死とも言われている

1580(天正8) 光秀、丹波平定の功で、丹波一国29万石を加増されて、計34万石を領する。

1580(天正8) 長曾我部元親、阿波・讃岐の両国をほぼ制圧する。

1580(天正8) 信長、長曾我部元親に臣従を迫る。元親、これを拒絶。

 

三木城の戦い (三木の干殺(ひごろ)し)

 1580.02.02(天正8.01.17) 羽柴秀吉、播磨の三木城を落す。三木城の別所長治が自害する。

三木城の戦いとそれに関連した動きを、過去に遡って辿り、落城迄をここに纏める。

[経過]

三木城の干殺しと呼ばれる籠城戦は1年10ヵ月に及んで落城、城主・別所長治の自害をもって終止符が打たれた。信長は毛利膨張に歯止めをかけるべく、毛利との協力関係を見直し、政策を毛利封じ込めに転換、1574(天正1)年に、浦上宗景備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を出した。これは毛利勢力圏に織田の楔(くさび)を打ち込むようなものである。毛利氏と宇喜多氏これに反発し、浦上氏と敵対。そして、

1576.06.09(天正04.05.13)に、輝元、領国の諸将に、義昭の「信長打倒の挙兵」の命令を受ける事を伝える。

義昭は、毛利軍を幕府軍と位置付けた。

1576.08.07(天正04.07.13)、毛利、織田水軍を破って本願寺に兵糧搬入に成功。反織田の旗色を鮮明に出す。

1577.12.02(天正5.10.23) 信長、羽柴秀吉に、山陽道山陰道の攻略を命ず。

姫路城代・小寺孝高(こでらよしたか)(=黒田官兵衛)、姫路城を秀吉の軍事拠点に提供する。

1577(天正5.12) 羽柴秀吉宇喜多直家の支城・播磨国上月城(こうづきじょう)攻略。

上月城が落城した時、秀吉は降伏した城内の将兵や婦女子に対して、残酷な虐殺を行い、皆殺しにする。落城後、秀吉は上月城尼子勝久と幸盛を入れる。

1578(天正06.02) 別所長治が織田から離反し、毛利氏に付く。

東播磨の諸勢力がこれに同調。

1578.05.05(天正6.03.29) ~1580.02.02(天正8.01.17) 秀吉、三木城包囲を始める。

1578(天正6.04) 輝元、吉川・小早川と共に播磨に進軍。輝元も備中高松城に入る。

1578.05.07(天正6.04.01)  別所長治、織田に協力的だった細川庄の領主・冷泉為純・為勝を攻撃。秀吉からの援軍が来ず、冷泉父子自害。

1578.05.09~1578.05.12(天正6.04.03~6.04.06) 秀吉、別所支城の野口城を落とす。

1578.05.24~1578.08.06(天正6.04.18~6.07.03) 毛利氏、尼子氏残党が籠城する上月城を包囲。

毛利軍(30,000)と尼子(2,300)+秀吉(10,000)で戦い、尼子・織田側敗北、上月城落城。

1578.08.09(天正06,07,06)、尼子氏残党、降伏。尼子勝久と弟・氏久は切腹

この戦いで輝元は、安芸・周防・長門備前・備中・備後・美作・因幡伯耆・出雲・隠岐・石見・讃岐・但馬・播磨・豊前の領土を支配するようになる。

1578.06.04(天正6.04.29) 光秀、播磨へ派遣され、神吉(かんき)城攻めに加わる。

1578(天正6.10) 摂津有岡城荒木村重が、信長に謀反。[有岡城の戦い]

村重の領国・摂津国の南側は瀬戸内海に面していて良港があり、海上輸送の便がある。ここから三木城への補給路を繋げば、三木城へ兵糧搬入が可能になる。その重要な交通の要衝にいる荒木村重が毛利へ寝返った。

謀叛を起こした村重に、高山右近中川清秀、塩川国満、能勢頼道、吹田村氏等が与し、小寺氏、櫛橋氏、在田氏、宇野氏らも毛利方に就く。高山右近には宣教師のオルガンティノなどが説得に当たり、中川清秀には古田織部が説得に当たった。説得工作の結果、同年11月16日に高山右近が降伏し高槻城を開城、同月24日に中川清秀が降伏して茨木城を開城、安部仁右衛門の大和田常も開城した。

1578(天正6.11) 荒木村重黒田官兵衛の説得も効果無く、逆に官兵衛が幽閉される。

1579(天正07.05) 宇喜多直家、東美作の後藤勝基などを、信長方内応の理由で滅ぼした。

1579(天正07.06) 宇喜多直家、毛利氏に対して叛旗を翻し、信長に従った

1578.12.12(天正6.11.14) 信長、5万の兵で有岡城を取り囲み、総攻撃を命ずる。

中川清秀と、古田重然(=織部)はこの戦いに参陣、原田砦に配置される。

1579(天正7.05.02) 山科言経(やましな ときつね)、御ツマキに贈物をする。

(※ 御ツマキは明智光秀実妹or義妹にして信長の愛妾)

1579.09.29(天正07.09.10) 平田砦の戦い(三木城包囲砦の一つ。織田側が構築したもの)

織田軍の鉄壁の包囲網に、三木城では兵糧が尽きた。毛利側の食糧補給の作戦はことごとく失敗。毛利の大将・生石中務少輔が雑賀衆を率いて夜陰に乗じて平田砦を襲撃、大混乱になり、守備隊の将兵の多くが討死している。一夜明けて翌日、城に更に近い大村砦に戦場が移った。食料受け渡しの為に城から打って出てきた別所義親軍は、毛利と合流をしたが、駆けつけてきた秀吉軍と衝突。数の上では別所・毛利軍の方が上だったが、別所軍の餓えた兵の体力が持たず劣勢に転じ、別所側が大敗北をした。この時、平田砦で古田重則(秀吉側)も討死。(古田重則は古田織部の伯父と言われている。重則嫡男に重勝がおり、重勝は重然(=織部)と混同される事がある。)

1579(天正07.10) 宇喜多直家が毛利から離れる。

1579.09.22(天正07.09.02) 荒木村重有岡城から脱出し、嫡男・村次の居城・尼崎城に行き、雑賀衆などに救援をも求めるも、成功せず。

1579(天正7.09.25) 吉田兼見明智光秀館訪問の際、御ツマキに酒と食籠(じきろう)を渡す

1579.11.03(天正07.10.15) 織田軍、有岡城に総攻撃を掛ける。

1579(天正07.11) 荒木村重に与していた高山右近中川清秀、小岸存之やその他幾つかの城が織田方に帰順、村重孤立する。

1579.12.07(天正07.11.19) 有岡城、城守備の荒木久左衛門により開城す。

1579(天正07.12) 荒木村重、花隈城へ移り、なおも戦闘を続ける。

1579.12.30(天正07.12.13) 有岡城の家臣の妻子122名磔の上、銃殺。更に、男124名、女388名を4軒の農家に押し込め、火を放って焼き殺した。

1579.01.02(天正07.12.16) 村重一族と重臣の家族36人京都市中引き回しの上斬首。

1580.01.07(天正07.12.21) 信長、播磨から京都へと帰陣する。

1580.02.02(天正8.01.17) 別所長治とその一族、切腹

 

別所長治辞世

  今はただ 恨みもあらじ 諸人の いのちにかわる 我が身と思へば

 

1580(天正08.07) 荒木村重、万策尽き毛利へ亡命。

 

 

1580(天正08.閏3.05)      顕如が信長と勅命講和に応じ、大坂退去。石山合戦終結

1580(天正08.05) 但馬と播磨の毛利方勢力、織田に降伏。

1580(天正08.06) 長曾我部元親、阿波岩倉城の三好康俊を服属させた事を信長に報告する。また、康俊の父・三好康長が長曾我部に対して敵対しないよう、信長に依頼。信長了解す。交渉役は明智光秀が担当。

1580(天正08.08) 信長、丹波明智光秀に、丹後を細川藤孝に与える。

1580(天正08.08) 本願寺顕如、退城。その後石山本願寺焼失。

1580(天正08.08) 信長、近衛前久を頼り、島津・大友と和平を図る。

1580(天正8.08) 信長、林通克親子・佐久間信盛親子を追放

1580(天正8.10) 光秀、大和検知奉行として奈良に派遣される。

津田宗久と光秀の交流有り。

1580(天正8.11) 柴田勝家加賀一向一揆を平定

1581(天正9) 信長、京都で馬揃えを行う。光秀、馬揃えの運営責任者を任される。

1581(天正9.) 家康、高天神城を奪還する。徳川家康 vs 武田勝頼

1581(天正09) 秀吉、淡路侵攻。岩谷城落城

1581(天正09.02) 長曾我部元親、土佐国主・一条内政を追放。

この頃、秀吉と三好康長が接近。秀吉は三好氏の水軍と連携し、毛利水軍に対抗しようとしていた。

1581(天正09後半) 光秀、1580(天正08)年、信長から発せられた「信長に臣従せよ」の命令に、長曾我部元親を従わせることが出来ず、説得失敗する。

1581(天正09.02) 信長、天覧・馬揃えを行なう

1581(天正09.02) 宣教師ヴァリニャーノ、黒人従者を連れて信長と謁見

1581.03.18(天正9.02.14) 宇喜多直家岡山城で病死。死は伏せられた。

1581(天正09.03) 再度馬揃えを行なう。

1581(天正09.03) 長曾我部元親、信長の支援を受けた三好康長・十河存保から反攻を受ける。元親に服属していた三好康俊(康長の嫡男)、元親から離反する。

1581(天正09.06) 羽柴秀吉因幡へ侵攻

1581.07.02(天正9.06.02) 光秀、「明智家法」の後書きに、「信長様への奉公を忘れてはならない」との感謝の文を書く。

1581(天正09.08) 信長、前田利家能登国を与える。

1581(天正09.08)  信長、安土城で馬揃えをする

1581(天正09.08)  信長、西国平定を決意し、細川藤孝明智光秀に兵糧の準備をさせ、鳥取川に停泊させる。

1581(天正09.09) 織田信雄ら伊賀平定

1581.09.04 or 05(天正9.08.07 or 08) 光秀の実妹or義妹の御ツマキが死去。

この時「光秀比類なく力を落す也」と「言経(ときつね)卿記」に書かれている。

 

鳥取城の戦い(鳥取の渇(かつ)え殺し)

1581.11.21(天正09.10.25) [鳥取城の戦い] 羽柴秀吉(織田軍)vs吉川経家(毛利軍)

(経過)

前年の1580(天正8年6月)、信長の命により中国攻略に出陣した羽柴秀吉は、この月因幡に侵攻、鳥取城を3か月にわたり攻囲した。鳥取城内では徹底抗戦派が支配的だったが、城主・山名豊国だけが降伏を主張。ついに家臣達によって追放され、豊国単身で秀吉陣営に赴き、同年9月に降伏した。翌年1581年(天正9年3月)、家臣達は新しい城主に毛利家から吉川経家を迎え、戦争継続する。

「第二次鳥取城攻め」秀吉は商人に指示して、因幡国周辺の米を高値で買い取り、更に、経済封鎖をする為70か所以上に砦を構築、12㎞に及ぶ封鎖線を張る。また、海上より物資搬入を阻止すべく、港も封鎖。港から鳥取城に至るルート上の城も落とし、万全の備えをしていた。吉川経家鳥取城に入った時、第一次鳥取籠城戦3か月の後だったので食糧備蓄は底を尽き掛けており、経家が更なる備蓄を増やそうとした時には、既に秀吉の包囲網が完成していて、叶わなかった。毛利が海上から支援しようと、鳥取城近くまで物資を運んだが、秀吉の無敵の防備に阻まれてしまった。

秀吉は次の一手でダメ押しをした。それは、領民を攻撃して無傷のまま城に追い込んだのである。城内の備蓄はたちまち空になり、飢餓が始まった。鳥取城の渇(かつ)え殺し」として歴史に有名なこの兵糧攻めで、城内は馬も木も草もことごとく食べ尽くした。1581年(天正9年8月)には餓死者が出るようになった。しまいに死者の人肉も食する様になり、更に衰弱した者を殺して食べるまでになり、城内は凄惨を極めた。

吉川経家は、この状態を見て降伏を決断。自分の命と引き換えに、兵と領民を救う様に懇願した。秀吉は。経家の将としての器を惜しみ、生きる道を選ぶように説得したが、経家は承知せず、覚悟の切腹を果たした。

開城後、秀吉は生き残った者に粥を与えたが、空腹に駆られてガツガツと食べた者は、胃が受け付けず、却って体が拒否反応を起こして多くの者が死んで行ったと言う。

この鳥取の渇え殺し」は、「三木の干殺し」高松城の水攻め」と共に、秀吉の攻城戦の中で最も有名な三つの戦いである。

 

吉川経家辞世

  武夫(もののふ)の取り伝へたる梓弓 かへるやもとの栖(すみか)なるらん

 

1581(天正9.11) 羽柴秀吉、淡路島を平定。

1581.12.29(天正9.12.04)  光秀、「明智家中法度」五か条を制定。

儀礼、武人の公論禁止、喧嘩の厳禁。違反者即時成敗・自害を命ずる掟。

1582(天正10) 天正遣欧少年使節マドリードフェリペ2世に謁見

1582(天正10) 信長、長曾我部元親と断交

1582(天正10.01) 光秀、正月の茶会で信長の自筆の書を床の間に掛ける。

1582(天正10.01) 追放された佐久間信盛病死。息子信栄を赦免し、安堵す。

1582(天正10.01) 信長、伊勢神宮の修築に3千貫寄進

1582(天正10.02) 四国遠征軍・神戸信孝(かんべのぶたか or のぶのり)の先陣として、三好康長が阿波に侵攻。(※ 神戸信孝織田信孝(信長三男))

1582.02.01(天正10.01.09) 宇喜多直家の死亡を公式に発表。

1582(天正10.02) 信長・家康、本格的に武田領を侵攻。

1582(天正10.02) 毛利軍と宇喜多軍、備前八浜城で合戦する。

毛利氏、宇喜多直家病没後、その隙を突いて侵攻。毛利氏勝利、宇喜多氏大敗。宇喜多氏、毛利の侵攻を秀吉に報告。秀吉、この報告を受けて、中国地方への出陣を決意。

1582(天正10.03) 織田信忠信濃高遠城を落す。

信長、信忠の高遠城攻略の褒美として、刀を譲り、天下の支配権を信忠に譲る。

1582(天正10.03) 武田勝頼、信長や家康に攻められて自害。(甲州征伐)

 

武田勝頼辞世

  おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端(は)

 

1582.04.25(天正10.04.03) 甲斐の恵林寺の快川紹喜(かいせんじょうき)、火中に滅す。

快川和尚、織田に敵対した佐々木次郎(=六角義定)、義昭家臣、三井寺の上福院を匿い、織田からの引き渡しを拒否。寺が焼き打ちにあった。快川和尚、は臨済宗妙心寺派の禅僧。和尚が美濃に在る時、稲葉一鉄、その膝下に学ぶ。

1582(天正10.03.08) 秀吉、信長の命により、中国征伐に出征して備中を攻める。

1582(天正10.03.17) 於次丸秀勝(=信長四男・秀吉養子・羽柴秀勝)、初陣を果たす。

初陣は備前児島の常山城(つねやまじょう)攻めで、高松城攻めにも参加。

1582(天正10.04) 秀吉、備中高松城攻略。水攻め

1582(天正10.05) 信長、神戸信孝を総大将にして四国攻撃軍が編成される。四国攻撃の為の渡海は6月2日予定。

長曾我部元親、事前に斎藤利三宛に信長への恭順を示した書状を出している。(元親の正室斎藤利三(さいとうとしみつ)の異父妹。斎藤利三稲葉一鉄(信長家臣)の家臣であった。明智光秀が一鉄から無断で利三を引き抜いたので問題を起こしていた。)

1582(天正10.05) 羽柴秀吉高松城水攻め。毛利元就吉川元春小早川隆景救援に駆けつけるも、手も足も出ず。(船の調達が出来なかった)

1582(天正10.05) 信長、阿波国織田信孝(=神戸信孝)に与える。

1582(天正10.05.12) 光秀、家康饗応の為の調度を奈良興福寺から借り、安土城に運び込んだ。

1582.06.05~1582.06.07(天正10.05.15~05.17) 信長、徳川家康穴山梅雪(=武田信君(たけだ のぶただ))安土城で接待。明智光秀饗応役を務める。

信長と光秀の間に饗応に対する意見の食い違いがあったようだが(フロイス記)、料理が腐っていたという「川角太閤記」の話は伝聞・風説を基にしたものと思われ、「信長公記」にも一次資料にも載っていないそうである。

穴山梅雪武田勝頼の従兄弟。甲州攻めの時、信長側に寝返る。よって許される。家康は駿河国拝領の御礼、梅雪は赦された御礼で二人揃って安土に参上。なお、梅雪、この時金2千枚(現時価200億円)を献上)

1582.06.09(天正10.05.19)  信長、家康らと能を観る

1582.06.11(天正10.05.21)  家康一行、安土より上洛。28日まで京都見物。

織田側から案内人として長谷川秀一(はせがわ ひでかず)がつく。

1582(天正10.05下旬) 斎藤利三(さいとう としみつ)、信長より切腹を仰せ付けられる。

明智光秀斎藤利三稲葉一鉄から引き抜き、自分の家臣とした。更に、光秀は斎藤利三以外にも引き抜こうとしたので、それに抗議した稲葉一鉄が光秀の所業を信長に訴えた。信長は利三を稲葉一鉄に返す様に命じたが、光秀はそれを拒否。この事で信長の逆鱗に触れ、信長は利三に切腹を命じた。

1582(天正10.05.26) 明智光秀中国出陣の為坂本を出発。

1582(天正10.05.27) 明智光秀愛宕山へ参詣。

1582.06.19(天正10.05.29) 信長、上洛。

1582(天正10.05.29) 家康一行、堺見物。6月1日には堺の豪商の茶会に招待される。

1582(天正10.06.) 丹羽長秀、三好康長、蜂谷頼隆と共に、織田信孝6月2日に予告された四国派遣軍の副将を命ぜらる。

1582(天正10.05.30) 信長が滞在する本能寺に、多くの人々が表敬訪問してきた。信長は、進物を受け取らない旨を事前に知らせていた。

1582.06.21(天正10.06.02) 光秀、早朝に出陣する。

その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐を告げる。

1582.06.21(天正10.06.02) 本能寺の変 信長享年49

1582.06.21(天正10.06.02) 家康一行総勢34名、京都に戻る途中、茶屋四郎次郎から本能寺の変を知らされる。家康、帰途ルートを変更する。

「神君伊賀越え」の決死の脱出行がここから始まるが、実は伊賀越えルートは諸説あり、中には甲賀越え、或いは大和越えと言う説も有り、実際に辿ったルートは分っていない。

家康と共に安土に招かれた穴山梅雪は、家康一行と離れて別行動を取り、途中、宇治田原で一揆勢に襲撃され殺害された。

1582.06.21(天正10.06.02) 瀬田城主・山岡景隆、瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転する。

これにより、光秀、仮設橋の設置に3日間取られる。

1582.06.21(天正10.06.02)およそ午後10時頃(亥の刻四つ半) 細川藤孝より姫路の前野長康本能寺の変を知らせる急使有り。

前野長康、秀吉の命にて姫路城下に駐屯し、信長の西国動座に備えて準備をしていた。将と侍53名、足軽鉄砲隊60余人、外にも多数。動座に伴う路次の宿駅、兵糧の手配などの任務に当たっていた。これが中国大返しの時に役に立つ。

1582.06.23(天正10.06.04) 備中高松城は講和により開城。清水宗治切腹

 

清水宗治辞世  

浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して

 

 中国大返し

 

1582(天正10.06.02) 神戸信孝(=織田信孝)、摂津にて四国征伐出航間際に本能寺の報せが入る。手元の軍隊から逃亡者が相次ぐ。

1582(天正10.06.03) 柴田勝家越中国を攻撃中、3日に魚津城を陥落させた。

1582.06.23(天正10.06.04) 光秀、坂本城に入り、4日までに近江をほぼ平定する。

1582.06.24(天正10.06.05) 毛利、本能寺の変を知る。

1582.06.24(天正10.06.05) 光秀、安土城に入る。信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与える。

1582.06.26(天正10.06.07) 誠仁親王(さねひとしんのう)吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を光秀に任せる。

1582.06.28(天正10.06.09) 義昭、帰京の為、備前、播磨に出兵する様に輝元に命ずるも、輝元動かず。

1582.06.28(天正10.06.09) 光秀、宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上。京都五山大徳寺にも銀100枚献納、勅旨の兼見にも銀50枚を贈った。

1583(天正10.06.11) 秀吉、中国大返しで戻ると、摂津尼崎に着陣。信孝、秀吉と会い、弔い合戦の総大将に就く。実際の采配は秀吉。

1582.07.02(天正10.06.13) 山崎合戦 羽柴軍27,000 vs 光秀軍17,000

秀吉、山崎の戦いで光秀を破ると、輝元、戦勝祝いに安国寺恵瓊を使者として派遣した。

1582.07.02(天正10.06.13) 光秀敗戦。戦場を落ち延びる時に地元民に襲撃されて横死。

1582.07.16(天正10.06.27) 清須会議

柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推す。

羽柴秀吉は信長の嫡男・三法師(織田秀信)を推す。

妥協案で、三法師の後見人を織田信孝にする、と言う案で決着。

 

 

 

長文を読んで下さって有難うございます。もっと短くする積りでしたが力不足で叶わず、申し訳ございません。

この年表を書くに当たり、下記の様に色々な本やネット情報を参考に致しました。

『戦国合戦大辞典(6)  京都・兵庫・岡山』『前野家文書・武功夜話』「ウィキペディア」「刀剣ワールド」「コトバンク」「年表」「地形図」「古地図」『和暦から西暦変換(年月日)高精度計算サイト-Keisan」「地域の出している情報」「観光案内」等々、その他に沢山の資料を参考にさせていただきました。有難うございます。