式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

155 日吉丸

末は博士か大臣かと、男の子だったら期待もされたでしょうに、オギャーと生まれて「何だ、また女か」と言われた婆。お生憎(あいにく)様、女で悪かったねぇと、心の中で啖呵(たんか)を切りながら、それなら男の子になってやろうと、お小遣いで金槌と鋸を買って木工作をしたり、お転婆して得意がったり、男の子の振る舞いを婆は真似たものです。

今の世の中はいいですね。男女共同参画の時代。まだまだ完全な男女平等ではありませんが、婆の時代と比べると隔世の感があります。金槌と鋸で男の子に成ろうとした少女時代の勘違いは御愛嬌ですが、安土桃山時代まで遡ると、男と女の差別どころか、身分や門地、格式の差別があって、最下層に生まれた者が伸し上がって行くのは並大抵な努力では出来ませんでした。ガラスの天井どころか、鋼(はがね)の天井でした。

歴史上断トツの出世頭・豊臣秀吉はその鋼の天井をぶち破った男です

 

不詳の出自

彼の幼名は日吉丸。ところが、この「日吉丸」、実は名前が違うらしいのです。卑賎出身の秀吉が「丸」の付く名前である筈がない、と言う説があります。牛若丸(義経)や森蘭丸といったような「丸」の付く名前は、身分の有る人や侍の子に許された名前だそうです。当時の名付けのルールから言って、下賤の子にその名前は有り得ない、と言う訳です。

貧農の子、失職した足軽の子、身分ある人の御落胤説、生母「なか」が最初に結婚した木下弥右衛門との間に出来た子、そうでは無く再婚相手の竹阿弥との間にできた子、いやいや「なか」は何度も男と結ばれているので父親は誰だか分からない説など、日吉丸の父親からしてあやふやなのだそうです。

通説では、秀吉の生母「なか」が、最初の夫・木下弥右衛門との間に「秀吉」と「とも」を産んで、その後、弥右衛門が亡くなったので、子連れで二番目の夫「竹阿弥」と再婚、再婚相手との間に「秀長」と「朝日」が産まれた、となっています。これも怪しい説で、よくよく時系列に並べて研究してみると、矛盾点が出て来るのだとか・・・

 

虐待されて

秀吉の少年時代は、継父からかなり邪魔者扱いにされていたようです。

日吉丸は(秀吉の本当の名前が分からないので、ここでは講談でお馴染みの日吉丸にします)、顔が猿に似ていて、赤ら顔で、醜くて、右手の指が6本あって、背が低くてという様な異形の子供でした。竹阿弥は日吉丸を「こいつは俺の子じゃない。先夫の子だ」と思うと、変顔の日吉丸に一層憎らしさが募り、いじめ抜きました。そういう継父・継子の関係は良好な筈もなく、日吉丸は新しい父親に反抗します。日吉丸の扱いに手を焼いた竹阿弥は、近所のお寺に日吉丸を放り込んでしまいました。出家して学問をすれば、少しは増しな人間になるだろうという思惑があったのかどうか分かりませんが、日吉丸から見れば、それは継父から捨てられたも同然の仕打ちでした。そっちがそう来るならこっちだって考えがある、坊主なんかになるもんか、侍になりたいと、お寺を直ぐに飛び出してしまいます。彼は亡くなった実父の遺産を母から幾らか貰い、家出をしました。

継父から虐待されて捨てられて、まるで仁王の足の下の邪鬼のように、踏みつけられていた少年・日吉丸。彼は顔を地べたに押し付けられながら、上目遣いに上を見上げました。彼が見たものは相手の顔では無く、顔の向こうにある無限の青い空でした。

彼が恃(たの)むのは裸一貫の身一つ。知恵と才覚と健康と強気、僅かばかりの餞別を元手に、商売の旅に出ます。針を売り歩いたのもその一つです。売り歩きながら、世の中の情報を集め、自分を活かせる雇い主を探し求めました。

 

処世術

世渡りを上手にしていくには何よりも笑顔が大切です。

世間に於いて身に降りかかる危機のかなりの部分は、笑顔によって回避できます。なぜなら、笑顔に出会って、悪い気になる人が少ないからです。それも、本物の笑顔で無ければなりません。冷笑や侮蔑の笑い、少しでも翳りの有る笑いだと、危機を回避するどころか、身の安全を脅かす事態を招きかねません。

日吉丸は行商をしながら、そういう人の心を敏感に学んで行ったと思われます。また、その裏返しに、満面の笑みで擦(す)り寄って来る人物の危険性も、皮膚感覚で読み取ったと思います。彼は自分の本心を隠すために、ピエロを演じました。相手の心を鷲掴みにする為に、マウントを取らず、従属的な態度を取りながら相手を三方(さんぽう)の上に載せました。そして、その三方を両手で恭しく捧げながら思う方向に持って行く術を身に着けました。

( ※「三方」は神様に捧げ物をする時にお供え物を載せる台。正月の鏡餅を載せる台)

 

就職

日吉丸は放浪をしながら世間情勢を見極め、今川氏ならば就職先に申し分ないだろうと、今川領にやってきます。彼は、今川氏の家臣の、そのまた家臣の松下嘉兵衛之綱に仕える事になります。彼は腰を低くしマメに働きました。どのような仕事でも嫌がらず、創意工夫を凝らして成果を上げました。主君の嘉兵衛もそういう彼を愛で、読み書きやら何やら何かと面倒を見たようです。この時期に、嘉兵衛の手により元服をして、木下藤吉郎と名前を変えました。

この様に、主人から可愛がられれば可愛がられる程、朋輩の妬みを買い、居難くなり、結局そこを辞めてしまいました。

彼は、織田信長に出会い、信長の草履取りという仕事にありつきました。彼は陰日向なく全力でその仕事を努め、信長から重宝されました。そこからが彼の出世の始まりです。周りにはひょうきんな態度で笑いを取り、愛されキャラを演出し、頭の良さを隠し、敵を作らない様に一層の気配りをします。身に染み着いた演技は、持って生まれた性質の如くに彼の「人格」を作り上げました。

 

劣等感

彼の晩年は、善人の好々爺然として語り継がれています。が、彼が心の奥底に隠している出自に関する劣等感、その黒い琴線に触れた者は、皆、悲惨な目に遭っています。

1587(天正15)年、秀吉の異父兄弟と名乗る男が家来を何人も従えて、秀吉に面会を求めて大坂城にやって来ました。秀吉は母の大政所に「こういう人物を知っているか」と尋ね、大政所が「知らない」と言うと、直ちに一行全員の首を撥ね、晒し首にしました。その年内に、今度はわざわざ尾張の国まで行って異父姉妹を探索させ、「秀吉が大出世したから、大阪に行けばいい目にあえる」とだまし、そのつもりで大阪に来た異父姉妹とその身内の女性達を、これも直ちに斬首しました。彼は、貧民の出である事実を完全に隠蔽しようとしたのです。

 

秀吉と明の洪武帝(こうぶてい)

秀吉の人生を見る時、或る人物と非常に似ている事に気付かされます。

それは、明の初代皇帝・洪武帝(こうぶてい)(=朱元璋(しゅげんしょう)です。洪武帝も極貧の生まれで顔が極めて特異でした。彼の肖像画は、威厳に満ちて描かれたタイプと、奇妙にバランスを欠いた顔の、二通りのタイプがあります。

彼の父親は洪水で命を落とし、残された母親や家族は極貧に喘いで飢え死にしてしまいます。彼はお寺に入り、乞食(こつじき)(=托鉢)をしながら各地を放浪します。時あたかも紅巾の乱が吹き荒れ、彼はこの乱に身を投じて頭角を現して出世、ついに皇帝にまで上り詰めます。

 

朱元璋の後継者

朱元璋(洪武帝)には王子が26人居ました。彼は皇太子を長男の朱標(しゅひょう)に定めましたが、38歳で急逝してしまいます。洪武帝は朱標の子・朱 允炆(しゅ いんぶん)を皇太孫に定めます。幼い皇太孫を心配した洪武帝は、将来皇太孫の脅威になる様な人物達を粛清、丞相を務めた様な経験豊富な大臣や、建国の大将軍、有能な官吏などを何らかの理由を付けて一族諸共皆殺しにし、その数は3万を超えたと言われています。

朱允炆が帝位に着き、建文帝となった時、建文帝の手元に残ったのは事なかれ主義の凡庸な廷臣と、無能な軍人ばかりでした。

洪武帝が皇太孫の脅威になりそうな臣下をことごとく殺してしまった結果、建文帝の周りには有能な人材が居なくなってしまいました。その弱点を突き、洪武帝の4男で、北方の「燕」を治めていた燕王・朱棣(しゅてい)が、やすやすと甥の建文帝を攻め滅ぼしてしまったのです。これが3代皇帝・永楽帝(=朱棣)です。

 

秀吉の場合

秀吉は、一粒種の秀頼を心配し、将来の禍根となり得る関白秀次の妻妾や子供達を皆殺しにしてしまいました。その上、この関白秀次と親しくしていた者や、関白と言う仕事上の付き合いで関係していた者達にも連座の罪が及び、大名や公家、町人の中に、死罪や改易、流罪。追放、蟄居などかなりの数の処分が出たのです。関白秀次事件はとても根が深い事件です。

これによって、豊臣政権の永続性が秀頼一本の細い糸に集約されてしまい、結局秀頼の死によって豊臣の世は短く終わったのでした。

この場合、秀次を生かしておいた方が豊臣政権としての命脈は長続きしたかも知れません。ただ、秀次か秀頼かのどちらかが片方に大人しく従っていれば長命政権でいられたかもしれませんが、そうでなかった場合、それぞれの勢力が拮抗しているので、将来的には両者の間での戦は必須だったと思われます。そうなると、天下分け目の大戦になり、漁夫の利は誰の手に落ちるのやら・・・