式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

157 キリシタン(1) ザビエルの道

茶の湯キリシタン、一見何の繋がりも無いように見えます。が、実は大有りです。

茶の湯を論ずるならば、先ずは禅宗でしょ、と、こう来るのが普通です。けれども、千利休が深化させた侘茶には、キリシタンの影響が多々見受けられ、避けては通れない問題です。

それは、茶湯大名の中にはキリシタンが何人もいるとか、堺の豪商にもキリシタンが居るとか、そういう表向きの関わり方ではなく、それは茶の湯の精神や所作に、全く気付かない程深く潜んでいるのです。謀叛や革命にも発展し兼ねないマグマの様なエネルギーをそれは秘めています。その危険性を察知した秀吉が、利休を賜死に処したと考えても不思議はない、と婆は考えています。

何はともあれ、そのキリスト教を初めて日本にもたらしたフランシスコ・ザビエルの歩いた道を、辿(たど)ってみたいと思います。

 

16世紀初頭のインド・東南アジアの情勢

16世紀初頭のインド・東南アジアの情勢は、香辛料航路の権益を巡って、ヨーロッパ各国が熾烈な争いを繰り広げておりました。

1509年2月3日、ディープ沖海戦があり、ポルトガルインドに圧勝しました。

ディープ沖海戦とは、インド西海岸のディープ沖で起きた海戦です。戦ったのは、ポルトガル帝国に対して、インドのスルターン朝・マムルーク朝カリカットの領主の連合軍です。このインド側にオスマン帝国ヴェネチア共和国が与(くみ)して大いに支援していました。何故なら、オスマン帝国アラビア海の貿易権益をポルトガルに奪われたくなかったし、ヴェネチアは、喜望峰周りの航路がポルトガルによって開拓されれば、地中海航路に依存してきたヴェネチアの繁栄が衰退しかねないからでした。ヴェネチアは、地中海→エジプトのカイロ→陸路→紅海→インド→東南アジアと言うルートで香辛料交易路を握っていたのです。

ポルトガルはインドに勝利し、インド西海岸にある良港・ゴアに要塞を築きました。ポルトガルはゴアをポルトガル領インドの首府とし、サンタ・カタリナ大聖堂を建設、総督府修道院など様々な建造物を建て、町を繁栄に導きました。その一方、ゴアの住民はキリスト教に強制的に改宗させられました。ポルトガルはゴアを拠点にしてマラッカを征服、更に香辛料諸島と言われるモルッカ諸島への航路を開きました。

この様な時に、フランシスコ・ザビエルがゴアに派遣されたのです。

 

ザビエルの来日

フランシスコ・ザビエルは、スペインのバスク地方にあるナバラ王国の貴族の生まれです。父はナバラ王国の宰相を務めていました。が、バスク地方はスペインとフランスの国境地帯にあった為、両国の紛争に巻き込まれてしまい、スペインに併合される形で国が滅びてしまいました。父も亡くなってしまいました。

ザビエルは信仰心が篤く、フランスのパリ大学で学んでいた時に一緒になった友人達と、世界にキリスト教を広めると言う目的でイエズス会を立ち上げ、生涯を神にささげる事を誓い合いました。

ポルトガル王は、ゴアの一層の教化を図る為に宣教師の派遣を決め、世界布教を目指していました。そして、イエズス会にその任を与えます。多少の紆余曲折(うよきょくせつ)があった後、その任にザビエルが当たる事になりました。

彼は1541年4月リスボンを出発、1542年5月にゴアに到着しました。彼はインドやマレーシアのマラッカ、インドネシアモルッカ諸島まで布教に足を延ばし、ゴアに戻りました。

ゴアで、ザビエルは日本人のヤジロウと言う人物に会います。ザビエルはヤジロウの話を聞き、日本へ渡る決心をします。

1549(天文18)年、フランシスコ・ザビエルは他の神父や修道士や従者達、それにヤジロウを加えてジャンク船で日本の薩摩半島坊津(ぼうのつ)に着きました。

 

誤解されたザビエル

ザビエルは許しを得て1549年8月15日に、外洋に面した坊津から錦江湾に面した祇園之洲と言う、桜島の対岸にある町に上陸します。この日は丁度カトリックでは特別の日でした。それは聖母マリアが天国に引き上げられた日(被昇天の日)だったのです。彼は来日の喜びと聖なる日の重なりを思い、日本を聖母マリアに捧げました。

ザビエルは薩摩藩主・島津貴久に謁見し、キリスト教を布教させて下さい、と許しを願います。この時、インドから連れてきたヤジロウに通訳をさせたのですが、「宣教師」も「神」も日本語の訳語が無く、ヤジロウはどうして良いか分かりません。そこで彼は、当たらずとも遠からじ、とばかり、「宣教師」は日本で言えばお坊さんの様なものだ、キリスト教の「神」は全知全能で宇宙を創成した偉い神様だから、大日如来と同じ様なものだろうと思い、「神」を「大日」と訳しました。この様にかなり適当に翻案してザビエルの話を通訳しました。

そこで、島津貴久はザビエルを「天竺からやってきた高僧であり、「大日如来」を信仰する宗派である」と理解しました。ザビエルが仏教の本場からやってきたと思い込んだ貴久は、ザビエルが島津家代々の菩提寺である曹洞宗玉龍山福昌寺に滞在できる様に取り計らい、布教を許可しました。

福昌寺は寺領1361石、最盛期には僧侶1,500人も居たと言う大寺院で、1546年、ザビエルが滞在する数年前に後奈良天皇勅願となった寺です。彼は、福昌寺の禅僧・忍室文勝(にんしつ もんしょう)と頻繁に宗教問答をしております。ザビエルは書簡の中で忍室を激賞しているそうです。

 

キリスト教は仏教にあらず

ザビエルの説くキリスト教は、新しい仏教の一派、譬(たと)えて名付ければ「天竺宗」とでも言う風に受け止められました。ところが、仏僧達と話をしていく内に、男色を容認している仏教界に対して、ザビエルの信仰しているキリスト教はそれを禁止しています。そんなこんなで次第に仏僧達との間で摩擦が増えてきました。これは仏教の一派ではない、と仏僧達は気付き始めます。

島津貴久は、仏僧(忍室かどうか不明ですが・・・)の話を聞く内に、次第にザビエルと距離を取り始めました。当初、キリシタンは仏教の一派であると誤って認識していたものが、実はそれとは全く違う別物と言う理解に至った時、それまで通りホイホイと優遇する訳にはいかなくなったのです。

ザビエルは仏僧達の反目を受け薩摩を離れる事にしました。そして、京に向かいます。

 

周防(すおう)大内義隆

日本全国に布教を展開して行くには、やはり中央に居る日本の王(天皇)の許しを得る必要があると考え、ザビエルは上京します。彼は、上京途中に各地で布教して行きます。薩摩で誤解を与えてしまった失敗を繰り返さない為に、無理やり日本語に直す事を止め、ラテン語で「神」を「デウス」と言うように、はっきりと仏教と区別しました。

1550(天文19)年8月、ザビエル達は肥前国平戸に行き、布教活動をします。そして、平戸での布教の後事をトーレス神父に託して、フェルナンデス修道士と鹿児島出身の洗礼名ベルナルド青年を連れて、10月に平戸を立ち、周防(すおう)に向かいます。周防で大内義隆に謁見しますが、義隆の不興を買い布教の許可は下りませんでした。というのも、ザビエルの様子がとても礼儀を欠いていたからです。乞食の様な汚い旅装のまま、手土産も無く、義隆の放蕩や男色を非難したり、仏教の保護を攻撃したり、これでは、義隆の逆鱗に触れるも当然でした。

 

京にて

12月に周防を立ち岩国から瀬戸内海を船でに向かいます。

ザビエル一行は堺で豪商の日比谷了珪の家に止宿します。日比谷は屋号です。何を商っていたかは分かっていません。了珪は堺奉行の小西隆佐(こにし りゅうさ)と親しく、了珪は京の隆佐にザビエルの紹介状を書きます。それを持って京に行きます。隆佐はザビエル達を歓迎し、京都滞在中の彼等の世話を何くれと面倒を見ました。因みに、小西隆佐は、あのキリシタン大名小西行長の父です。

ザビエルはインド総督とゴアの司教の親書を持参していました。彼は、その親書と共に、後奈良天皇と将軍足利義輝に拝謁を願い出ますが、贈り物を持参していなかったので門前払いを喰らってしまいました。彼は京都で願いが叶わなかったので、献上品を取りに一旦平戸に戻ります。

 

再び大内義隆に会う

献上品が無いと相手にもして貰えないと思い知ったザビエル。また、日本では外見が大事だと学んだザビエル。みすぼらしい服装だと馬鹿にされ、歯牙(しが)にもかけて貰えないと知ったザビエル。ラテン語の件と言い、贈物と言い、服装と言い、一つ一つ日本人を学びながらザビエルは日本に受け入れられる様に努力しました。そして、平戸に置いていた献上品を携え、再び取って返して山口に足を踏み入れます。勿論その時、一行は美々しく着飾り、天皇に奉呈する筈だった二通の親書の外、沢山の西洋の珍しい文物を贈り物として携え、大内義隆に謁見を申し入れます。

贈り物は鏡、メガネ、望遠鏡、置時計、ギヤマンの水差し、書籍、絵画、小銃、洋琴 (ピアノの様な形をした楽器。ザビエルの頃の洋琴はチェンバロハープシコードなどかと思われます)などです。

義隆は大いに喜び、ザビエルに宣教しても良いと許可を与え、信仰の自由を認めました。おまけに大道寺という、空き寺をザビエル達に与えました。

贈物作戦は大成功! (こんな風だから今でも贈収賄事件が絶えないのですね)

ザビエルは大道寺をキリスト教の教会堂に建て直します。日本最初の教会堂です。またこの建物は宣教師達の住居も兼ねました。

彼はこの教会堂で毎日2度の説教を行いました。一人の盲目の琵琶法師が、彼の説教を熱心に聞いていました。後に、この琵琶法師はロレンソ了斎となり、イエズス会には無くてはならない重要な宣教師になります。

ザビエルのこの教会堂での活動で、信者は実に600人にも上ったそうです。

 

大友宗麟との出会い

ザビエルは周防で宣教活動を継続していましたが、インドの情報が得られず、とても気になっていました。そんな時、ポルトガル船が豊後国にやって来た、とのニュースが入りました。ザビエルは教会堂の事はトーレス神父に任せ、彼自身は豊後の日出(ひじ)に向かいます。日出は国東(くにさき)半島別府湾側の付け根にあり、天然の良港でした。ポルトガルの入港地でもあり、ポルトガル人のコミュニティもありました。

1551(天文20.09)、豊後の日出(ひじ)(現大分県速見郡日出町(ひじまち))にザビエルが着いた時、沖に停泊していたポルトガル船が祝砲をあげ、その大砲の轟音に大友宗麟は度肝を抜かれた、と伝わっています。宗麟はザビエル達を招きました。ザビエルは、船長の用意した見事な衣装を着て、楽人達と共に街を練り歩き、宗麟に会ったそうです。

ザビエルとの出会いは、宗麟に大いにインパクトを与えましたが、その2か月半後の11月15日には、ザビエルは日出を出航し、インドのゴアに向かいました。

この時、大友宗麟はまだ洗礼を受けていません。宗麟が洗礼を受けたのは27年後の1578年のことです。

 

最期

日出を出航する時、ザビエルは4人の日本人留学生を連れていました。ベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオという洗礼名を持つ若者4人は、ゴアでパウロ学院に入学しますが、マテオは現地で病死、ベルナルドは更に学問を修めにヨーロッパまで留学します。

1552年9月、ザビエルは再びゴアを出発して中国へ向かいます。日本で布教するには、日本に大きく影響を与えている中国にキリスト教を根付かせるのが一番と、考えたからです。

けれども、上川島(じょうせんとう)(現広東省台山市の沖合)に辿り着いたものの、明の海禁政策により外国人は大陸側に上陸できず、大陸本土に渡る日を待っていました。

1552年12月3日、ザビエルは上川島で病気に罹り、そこで亡くなりました。享年46。