式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

160 利休と秀吉(1) 茶室のサイズ

秀吉が関白太政大臣になり、九州が平定され、平和が訪れました。

鎌倉時代から室町時代応仁の乱を経て戦国時代と、戦に次ぐ戦でおよそ400年間戦い続けた世も鎮まり、派手好きの秀吉の気風そのままに、安土桃山文化が花開きました。

安土桃山文化は信長・秀吉が開いた時代だけの文化では無く、例えば茶の湯にしても、鎌倉時代の明庵栄西(みょうあん えいさい)の上に室町時代北山文化が積み重なり、バサラ、闘茶、淋汗(りんかん)茶湯などの紆余曲折(うよきょくせつ)を経て次第に侘茶に収束して行く、と言う道を辿(たど)って、多様な時代の積み重ねの上に千利休の侘茶が生まれております。

この様に、およそ文化と言うものは、ポッと出の気泡の様な孤立したものでは無く、幾つもの時代の層に根を張りながら、その時代時代の栄養を吸収して育ちます。そして、時を得て花を咲かせます。茶の湯でも同じで、宗教や文学や美術・工芸、更には時代の気風などを練り込んだ地層の上に成り立っているのです。

利休の「常に工夫をしなさい」の言葉も、連歌の発想から来ています。前の人の詠んだ句をそのままオウム返しに詠むのではなく、前の人の句を踏まえながら自分なりの工夫をして、新しい発想で句を詠む。それでないと、百句詠んでも千句詠んでも全く面白味のない句の連続になってしまい、連歌の体を成さなくなってしまいます。

「工夫しなさい」「真似するな」「革新せよ」その発想は、連歌では前詠者の繰り返しを避けよ、と言うルールそのものに外なりません。また、そうやって工夫し、意を尽くし、連歌に参加する座の全ての人達が、最善の連句を練り上げて行く作業を、一座建立(いちざこんりゅう)と言い、利休の唱える茶席の「一座建立」も淵源(えんげん)はそこから来ています。

「一座建立」の言葉は利休が「言い出しっぺ」ではありません。それは、能阿弥、心敬、宗祇、三条西実隆、里村紹巴、辻玄哉(つじげんさい)武野紹鴎、細川幽歳、明智光秀みな茶人にして連歌に長(た)けた人達が心掛けたモットーなのです。

利休の弟子で新しい流派を創始した人は何人もいます。その中で、師匠のやり方を突出して破壊したのが古田織部です。その意味で、古田織部は利休の教えを守った一の弟子、とも言えます。

(参考:ブログ№76 室町文化3 婆娑羅(バサラ))   2021(R3).01.05  up

(参考:ブログ№77 室町文化4 闘茶)                    2021(R3).01.10  up

(参考:ブログ№82  室町文化(9)  東山御物    2021(R3).02.04  up

(参考:ブログ№83  室町文化(10) 連歌     2021(R3).02.07  up

(参考:ブログ№106 信長、茶の湯御政道    2021(R3).06.30  up

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侘びの茶室にて

何時だったか昔、織部忌の時に、幾つかの茶室を備えた施設をお借りして、織部桔梗会が大寄せ茶会を催したことがありました。広間や小間などある中で、婆は草庵の茶室の係になり、そこでお運びさんをする事になりました。

その草庵の茶室は本格的な「侘び」仕様の茶室でした。婆はお運びさんとして、仲間のお運びさん達と組んで陰点(かげだて)のお茶をお客様に運んでおりました。

陰点てと言うのは、別室や水屋(台所)で点てるお茶の事を言います。本来ならば亭主がお客様の前で点てたお茶をお出しするのですが、それは正客(しょうきゃく)様・次客様に対してだけです。他のお客様に対しては別室で点てたお茶を差し上げます。

で、何回か往復して運んでいる内に、注意力が散漫になり、茶道口から入る時、頭を低くすることを忘れ、鴨居にこっぴどく頭をぶつけてしまいました。退出する時もぶつけました。往復ビンタの様なものです。そして、二席目、三席目と進む内にしばらく後でもう一回、ぶつけてしまいました。なんてこった!

 

書院の茶

式正織部流の茶の湯は書院で点てるのを旨としています。

書院は草庵の茶室より鴨居は高く,躙(にじ)り口がありません。

お茶を供する側の亭主初め半東(はんとう)やお運びさん達のスタッフは、水屋→(控えの間)→茶席という動線で動きます。控えの間と言うのが無い場合も多く、その時は、茶席から出入口を通して水屋が丸見えにならない様に、屏風などで「楽屋裏」を隠して小さな控えの空間を作ります。水屋と茶席を隔てている障子や襖(ふすま)は背丈が1間で、襖1枚立て、2枚立、3枚立、4枚立と部屋の規模によって色々あり、その一つを開いて水屋との出入り口にします。

亭主と半東(はんとう)の二人が最初に茶席に入る時、敷居の手前で正座してご挨拶しますが、それ以降は立ったままお道具の持ち出しや陰点てのお運びをします。従って、鴨居にぶつからない様に身を屈(かが)めたり頭を下げたりする必要がありません。

お客様が大寄せ茶会で庭から入る場合は、中待合も躙り口も何もないので、順番待ちの行列を作って縁側の前に並び、迎え付けの人に導かれて、沓(くつ)脱ぎ石で履物を脱いで縁側に上がりました。

けれども、大概は大玄関から上がって、廊下伝いに茶席が設けられている部屋へ行きます。お客様は廊下から茶席に入ったり、一旦次の間(中待合の代わり)に入ってから茶席入りします。その時、入り口で正座してご挨拶をします。立ち上がって普通に敷居を跨ぎ、茶席に入る様になります。
このようなやり方で席に入りますので、婆は部屋のサイズなどまったく気にしない所作にすっかり慣れていたのです。

 

頭を下げる・・・

頭を高くしたままの所作を、額をぶつけてみて初めて、利休さんに注意された様な気がしました。「頭が高い!頭を下げなさい!」

それにしても、何故利休さんは茶室の作りをわざわざ小さくして、物理的に、或いは強制的に誰にでも頭を下げさせたかったのでしよう。そうまでして頭を下げさせたかった理由は何? 頭を低くする事で「互いに敬う」を形にするならば、挨拶のお辞儀の時に、茶会でお会いできる喜びと、ご来駕(らいが)頂けたお客様への感謝、そして、お客側はお招きを頂いた感謝を、黙ったまま心を込めて互いに丁寧に礼をし合うだけで十分ではないのか、と思うのですが・・・勿論ご挨拶の言葉を添えるのも有ですが・・・

頭を下げない傲岸不遜(ごうがんふそん)の輩(やから)が居て、利休はさんはそれが腹に据えかねて、物理的に狭い入り口を作ったのかも、とも邪推してしまいます。いやいや、目的はそれでは無くて、狭い密室で向き合って、いわば秘密基地の様な親密感を演出する為に、部屋も出入り口もスモールサイズにしたのかもしれません。秘密、時には謀略の場として・・・

もっと勘繰れば、利休さんは身長180cm、秀吉さんは身長140cmと言われておりますので、利休さんは秀吉さんに忖度して出入り口を小さくしたのではないかと・・・秀吉さんは小男なので大して頭を下げずにフリーパス。利休さんは必然的に頭を下げなければならない造りにしたのかも知れません。

お城の格天井(ごうてんじょう)の部屋で暮らしていた秀吉さんは、茶室でお稽古した時に、瘤(こぶ)タンを作ったのでしょうか。気になります。

武家に相応しい茶の湯を創始せよ」と、秀吉は古田織部に命じております。

 

 

余談  半東(はんとう)

亭主を補佐するのが「半東」と言う役割の人です。

古来から日本では「東」を重んじ、重要なものに「東」と言う名を冠してきました。

例えば「東宮(=皇太子)」や「東司(とうす)(=トイレ)」などです。お相撲でも「東・西」と東が先に来ています。半東は重要な役割の半分と言う意味です。亭主の片腕です。

半東は、亭主の後ろに目立たぬように控え、常に気配りをして、円滑にお茶が進行して行くようにします。何か事があればそれをカバーするのも半東です。お運びさんを差配するのも半東の役割です。歌舞伎で言えば「後見(こうけん)」に匹敵します。

昔、中国に「天子南面す」という言葉がありました。

天子様は南を向く、と言う意味で、宮殿の正面は南を向き、玉座も南に向く様に据えられました。中国の故宮は南向き、皇帝玉座も南向き、京都の街も南北と東西の碁盤の目で、京都御所も南向きです。

天子様は太陽の光を浴びる輝かしい存在であり、南に向けて立つと言う事は、頭上後方に北極星を戴くことになります。北極星は天にあって不動であり、満点の星を従えております。地上の支配者として君臨するには誠にもってこいの象徴的な位置です。

天子が南面すれば、左手が東を向きます。東は日出る方向です。天子様を補佐する最も重要な大臣は左大臣です。右大臣よりも左大臣の方が位は上です。

歴史的に中国文化の影響を受けたアジアの国々では、左高右低のこの考えが受け入れられていますが、欧米では左右の地位の高さが逆になり、右高左低と言われております。国際会議などでテーブルに着く序列や写真撮影などの時の並びなど、結構事務方は苦労する、と聞いております。