式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

161 利休と秀吉(2) 対立する美意識

昔、黄金の茶室を見ました。MOA美術館で・・・

とても綺麗でした。見た印象は、思ったより渋くて落ち着いた感じがしました。事前の予想では、薄っぺらなキンキラキンの成金趣味かと想像していました。ところが、どうしてどうして、光の威厳に圧倒されました。光と影が反射し合って陰影が複雑で、それが光の渋さを醸し出し、不思議な空間を作っていました。燭台を灯(とも)して、揺らぐ光に浮かんだならば、どんなにか幻想的かと、しばらく見入ってしまいました。

この中に座ってお茶を点てたら、自分の姿が壁に写るのではないかと想像してしまいます。恐らく鏡に対坐している様な気分になり、思わず身を正してしまいそうです。光の世界は弥陀の清浄の世界。華美を越えて美しいと、しばし呆然としていました。

この美しさの中で茶を点てる、それも有りだと思いました。美しさは「わび」「さび」に一極化した世界ではありません。「わび」「さび」は美の一つ、One of themです。

 

侘びの美

「わび・さび」の美は、派手な色も装飾的な形も、それらの余計なものを削(そ)ぎ落とした美を主張しています。全く光りません。静かで穏やか、自然の色を重んじ、余計な加飾は無く、簡素で、古びて錆びた落ち着きのある風景を善美とする世界です。

村田珠光の項で「おようのあま」を取り上げましたが、その絵を見ると、躙(にじ)り口もなく、開けっ放しの押し入れだか押し板の上だかに、無造作に置かれた釜と茶道具があります。茶の湯はそれで充分出来ます。

それを真似て、財力を並外れて持つ者が、ことさら田舎めいて茶室を建造し、素朴さを演出し、千貫文で買った「わび」の茶碗に、千貫文の茶入れを合わせて、「わび」でございます、「さび」でございますと言ったって、貧乏草庵に見立てた似非(えせ)わびでしかありません。

わびしいとは、貧しく心細く見すぼらしい事。侘びの美とは、突き詰めて言えば、一切の虚飾を捨て去った果ての凛とした美しさに尽きます。

 

侘びの裏にあるもの

人は、欲で生きています。大小軽重様々ある物欲、性欲、食欲、名誉欲、自己顕示欲などを脱ぎ捨てて、最後に残る生存欲すら諦観の域に達してしまうと、そこに在るのは「死」の世界に外なりません。利休の追求した「わび」は、究極のところ冥界の美なのです。

利休は、床の間の前で掛け物を拝見する時、扇子を膝前に置き、拝礼してから鑑賞する様に作法を定めました。扇子を置くのは、結界との間に一線を画すという意味があります。結界、とは何? 現世とあの世の境界線です。床の間は侵入してはならない結界の先、すなわち冥界なのです。

式正織部流では、この結界の概念がありません。従って、床の前に座って礼をして拝見し鑑賞しますが、不入の領域と一線を画す為に扇子を置く事はしません。

死亡率37.7%の職業の武士が、何を今更「死を想起せよ」と、死の安全圏に居る町人達から垂示されなければならない? 全く片腹痛い説教じゃ! 

  (参照:ブログ№136 武士の実像 生死報告書  2022(R4).02.19  up )

秀吉は、陰鬱な雰囲気を持つ黒茶碗を嫌っていました。黒い色に抹茶の緑はとても映えて美しいのですが、その黒い世界を恐れていました。その為、秀吉は、利休の一の弟子・山上宗二を殺してしまいます。黒楽茶碗を使ったが為に・・・

織部よ、武士に相応しい茶の湯を創れ」と秀吉は古田織部に命じます。

 

荘厳の美

ツタンカーメンの財宝、トプカプ宮殿の宝物、ロココ建築、金色の仏像、金閣寺、金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)、大聖堂、クリムトの絵等々これらを成金趣味と言う人はいません。黄金の美は永遠です。

秀吉は、自分の財力で黄金の茶室を建て、誇らかに最善の美を以って天皇を持て成そうとしました。どうだ凄いだろうと天皇の前で自慢し、そういう晴れがましい自分を見せてご満悦の秀吉の無邪気さが、人間臭くて可愛らしいです。

もし、金の茶室を成金趣味と言うならば、それは、出自に対する偏見でしかない、と思います。

仮に秀吉が佐々木道誉の息子であったならば、さもありなんと多くの人が納得してしまうでしょう。このように評価と言うものは相手の状況によって見方が変わってしまいます。出自やら性別やら評価を下す側にヘイト的な感情があれば、その心に左右されて、正当に評価されるべきものが歪(ゆが)められてしまう恐れがあります。

荘厳の美は、もっと綺麗にしよう、もっと美しく飾ろうと、最高の美を求めて色や形の装飾を加えて行くことにあります。加飾の美です。おおよそ美や芸術は加飾の領域のものです。それに対して、侘びの美は減飾に有ります。無駄な物を削ぎ落とした本質の美に迫るものです。

 

待庵(たいあん)

待庵は、山崎合戦で明智光秀に勝利した秀吉が、山崎の天王山に城を築いた時に、千利休に命じて建てさせた茶室です。秀吉は大坂城に移るまで山崎城を本拠地としていました。

待庵の茶席はたった二畳。建物全体で四畳半の切妻造りで杮葺(こけらぶ)きです。

室床(むろどこ)と言って床の間の柱を土壁の中に塗り込んで四隅を丸くし、角を隠して部屋を広く見せる工夫がされています。又、その塗り壁も地塗りのままで上塗りが無く、すき込んだ藁(わら)が食(は)み出しており、田舎家造りになっております。二つの下地窓と一つの連子窓(れんじまど)を設けて室内の暗さを緩和しており、客座の頭上は切妻屋根そのまま剥き出しの斜面になっていますので、高く感じられます。如何にもこれぞ侘びの茶室という風情です。

待庵は国宝です。現在、待庵は京都府大山崎町の妙喜庵にあります。

なお、国宝の茶室は待庵の外に、如庵(じょあん)密庵(みったん)があります。

 

茶の湯とは・・・

茶の湯とはただ湯を沸かし、茶を点てて のむばかりなることと知るべし」

                                                                                                                千利休

茶席で重要なものと言えば、釜と茶碗と茶入と思われていますが、それらは脇役。それらを重要視すると、得てしてお道具自慢や来歴自慢、お値段自慢に陥り勝ちになり、「侘茶の本道」から外れた雑念になってしまいます。そうなったら、唐物・名物蒐集に奔(はし)ったかつての茶湯になってしまい、利休の目指す侘茶とは違ってしまいます。

利休は茶の湯を「物」では無く「心」を大切にする方向に舵を切りました。茶の湯の場に相応しい舞台装置をどうしたら良いか、茶室の環境や、お道具類の置き合わせ、持ち出しや点前の振る舞いの合理性、所作の美しさなど、お茶をのむ迄の一連の動きを磨き上げ、茶道としての完成を目指しました。そうした不断の努力を隠して、一見何気なく供されるお茶との一期一会の美味しさ、そこに侘茶の完成を目指したと、婆は推察しています。

正に禅語の「喫茶去(きっちゃこ/きっさこ)(=お茶をのんでいきなさい)」です。

 

利休の侘茶は真のお持て成しか?

聞くところによれば、当時にしては千利休は並外れた大男だったとか。利休が着用した甲冑の大きさから、背丈が180㎝くらいだったと伝わっています。利休が亭主の座に座れば、対する客はかなりの威圧感を受けたでしょう。待庵の様に狭小の茶室ならばなおさらです。1対1のひざ詰め談判のような格好になります。親密度はいや増すでしょうが、婆ならば息が詰まってしまいそうです。

猫は狭い所が好きです。箱や袋に直ぐ入りたがります。身の回りが壁で囲まれていると、外敵から防禦されている様な感じがして、安心するのでしょう。人も同じかも知れません。狭い部屋は安心感を呼ぶのかも知れません。それで、茶室は狭いのでしょう。けれど婆は、そこに他人が入って来ると、パーソナルスペースが破られてしまい、途端に落ち着きを無くし、居ても立ってもいられなくなってしまうのです。出来るならば、空間に緩みが欲しいです。

部屋の光の絶妙な演出や外部の風の取り込み具合、田舎家が醸し出す素朴な寛ぎ、それらは皆茶の湯の為にあり、人の為ではない様な気がします。何故なら、躙り口は低く、待庵の茶道口の高さがおよそ1.4m。反バリアフリーの構造物に、「おもてなし」精神がそこにあるとは思えません。小心者の婆から見ると、檻に捕えた獲物を狭い空間に閉じ込めて、主の想いのままに料理しようとする、恐ろしい装置に見えてしまいます。

はじめ、黒田官兵衛茶の湯に興味を持っていなかったそうです。ところが秀吉が、官兵衛を茶の湯に誘い、「のう、官兵衛。茶室なら密儀をしても怪しまれまい」と言ったところ、茶の湯の活用術を知り、以来、官兵衛は茶の湯に嵌(はま)ったそうです。

大坂の黒田屋敷には茶室・密庵席(小堀遠州作)が有りましたが、官兵衛が亡くなった後、息子の長政が、菩提寺龍光院に移築しました。足が悪かった如水の茶室・密庵席には躙り口がありません。貴人口(きにんぐち)と言って、襖を開けて入る様になっています。 

 

肖像画から見る利休像

① 長谷川等伯

長谷川等伯が描いた利休の肖像画(不審庵所蔵・絹本著色・重要文化財)は、頭巾をかぶり、意志の強そうな大きな口を横真一文字に結んで、慧眼をやや細めにして端座しております。利休像と言えば大概この絵が引用されます。この絵は、利休没後に楽家が利休を偲んで等伯に頼んで描かせたもので、遺像です。生前に描いたものではありません。

② 長谷川等伯

もう一つ、長谷川等伯の手になる千利休像があります。それは利休の生前に描かれたもので、同じく重要文化財になっており、正木美術館所蔵のものです。その絵は、眼光鋭く、人を睨み付ける様な気迫に満ち、それが利休と知らなければ、名の有る部将の剃髪した姿と見間違えそうです。こんな人の眼光を受けたら縮み上がってしまいそうです。

③ 狩野永徳

更にもう一枚、狩野永徳の描いた利休像が有ります。赤い頭巾をかぶって脇息(きょうそく)に持たれている絵です。上記二枚に比べれば穏やかな顔つきで、やや憂(うれ)いを含んでいるお顔ですが、全体的には寛(くつろ)いでいる様子です。右手に扇子を持っておりません。扇子を持つと、自然とアクティブな意志がそこに籠りますので、何かに身構えている様に見えますが、永徳の絵はそれが無いので、穏やかです。左手は掌が開いて脇息の上に伏せ置いており、脱力している感があります。茶人の宗匠としての姿は、永徳の絵の方に軍配を上げたいと婆は思いますが、どうでしょうか。それとも、上記二枚の等伯の絵は、利休の肖像画を借りて、無意識のうちに描き手・等伯自身の人格の投影がされているのかもと、深読みしてしまいます。等伯もかなりの自信家で特異の人でしたから。

利休を知ろうとすればするほど、利休の多面性が露(あらわ)れて来ます。茶聖という一言では片付けられないものがあります。商人の顔、フィクサーの顔、自信家の顔、教祖の顔、武人の顔、求道の顔・・・

 

 

余談  喫茶去(きっさこ/きっちゃこ)

禅語の「喫茶去」は「お茶を飲んで行きなさい」という意味です。それで、茶席の床に「喫茶去」の掛け軸がしばしば掛けられます。そのお軸を拝見すると、なんだかゆっくりと寛(くつろ)いでお茶を戴きたくなるのですが・・・

「去」は「去(さ)る」です。喫茶去は「茶を飲んで去れ」です。喫茶居の間違いではないのか? と思うのですが、これは唐の禅僧・趙州(じょうしゅう)和尚が掛けた禅問答。座禅を組んだことも無い婆には、答えが分かりません。なんだか、「お前はまだまだ修行が足らん。お茶でも飲んでさっさと帰れ!」と、相手にされないで追い払われているシーンにも思えてきてしまいます。それでもお茶が飲めるだけ、まだましかなと、思ったりもします。

趙州和尚は、初めて来た雲水に対しても、以前に訪ねてきた雲水に対しても、更には、同じ寺の僧に対しても、「喫茶去」と言っています。さて、なんでだろう?

 

余談  杮(こけら)(ふ)

杮葺きは薄板を何枚もずらしながら重ね合わせて屋根を葺く工法です。

※ 「こけら」と果物の「かき」の字が間違いやすいので注意が必要です。活字だと見分けがつかないのですが、手書きで書くと、杮(こけら)は、右辺の4画目の縦棒が上から下まで貫いています。柿(かき)の右辺は市(し・いち)で、右辺 1画目がチョン「`」です。

 

 

余談  下地窓(したじまど)・連子窓(れんじまど)

土壁を作る時、先ず竹などを材料にしてこまい縄(細い藁縄(わらなわ))で格子状に粗く編み、それから、スサ(藁や麻などの切片)を練り込んだ土をその上から塗ります。これが下地になる基礎の壁です。下地窓と言うのは、基礎の壁の状態のまま開口部を造って窓にしたものです。従って中の骨組みの竹やこまい縄などが剥き出しになっています。

連子窓と言うのは、窓の開口部に細い竹や木の棒などを縦に並べて作ったものです。

 

 

余談  如庵(じょあん)

如庵は織田有楽斎(おだ うらくさい・信長弟)が建てた茶室で国宝です。初め、建仁寺塔頭正伝院(しょうでんいん)に立てられていましたが、明治になってから持ち主が幾度か変わり、京都から東京→神奈川県大磯→愛知県犬山と移築されてきました。

如庵は杮葺き入母屋造りで、入り口は開放的な土間になっております。土間の入り口に立つと正面に障子2枚立の入り口があり、そこは従者席への入り口になります。右手側に躙り口が有り、客人はその躙り口から入る様になっています。つまり、従者用入り口と客人用の入り口は90度の位置関係にあります。

茶席は二畳半台目、水屋は三畳です。茶席は二畳半台目ですが、茶道口から点前座に入る所に三角形の板敷(鱗板)があり、それによって遠近法が感じられ、実際より広く見えます。窓は連子窓、有楽窓(うらくまど(立格子の縦棒が密に詰まったもの。)で、室内の光の具合を工夫した上で、突き上げ窓と言って屋根に天窓があって、スポットライト風に茶室に光が入る様になっています。腰壁一面に暦が張ってあり、遊び心満点です。

(※ 台目(だいめ)、台目畳(だいめいだたみ)とは、一畳の3/4の広さの畳の事を言います。)

 

 

余談  密庵席 (みったんせき)/密庵(みったん)

密庵席は、京都にある臨済宗大徳寺塔頭龍光院(りょうこういん)に有ります。

龍光院は、黒田長政が父の黒田孝高(くろだ よしたか)(黒田官兵衛=如水)の菩提を弔う為に、長政が開基となって建立した寺です。開山は春屋宗園(しゅんおく そうえん)ですが、間もなく亡くなった為に江月宗玩(こうげつ そうがん)が開山を引き継ぎました。江月宗玩は、天下三宗匠と言われた茶人・津田宗及(つだ そうぎゅう)の息子です。

龍光院を建立の時、長政は大阪にあった孝高(=如水)の屋敷から書院と茶室(小堀遠州作)などを龍光院に移築しました。

密庵は書院の中の茶室で、独立した建物ではないので、密庵席と呼ばれております。

密庵席は四畳半台目の茶室です。密庵席は広縁から上がり、襖を開けて入る様になります(貴人口)。又、密庵席は建物内部の一隅にあるので、席の陰側には10畳、8畳。6畳と畳敷きの部屋が続いており、場合によっては4枚障子立の隣室・10畳の部屋から入る事も出来る様になっています。

席内には炉が1つ、床が二か所あります。一つは本床で、いわゆる茶室の床の間です。一つは密庵床と呼ばれるものです。密庵床は奥行きが1/4間で、密庵咸傑(みったん かんけつ)禅師の墨蹟(国宝)が掛けられています。実は、密庵席の茶室は、この密庵禅師の墨蹟を掛ける為に造られた茶室なのです。

龍光院は国宝・曜変天目茶碗を所持しています。

 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

ウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「刀剣ワールド」「コトバンク」「角川書店・世界美術全集」「NHK新日本風土記アーカイブス妙喜庵」「第一回妙喜庵待庵 茶室の窓-WINDOW RESEARCH INSTITUTE 三井嶺」「日日日陰新聞(nichi nichi hikage shinbun)建築のに本展その3・待庵」「もう一歩深く知るデザインのはなしvol.6茶室×光-インテリア情報サイト」「日本建築史 密庵(みったん) 庄司和樹」その他、美術関係、お茶関係、建築関係や、地域の出している情報」「観光案内パンフレッド」等々。

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。