式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

164 権力の相剋

釜の前に独り坐し、有るか無きかの幽かな風を、立ち昇る湯気の揺らぎに感じながら、何時も通りの手順で茶を点てて行く。呼吸が整い、心が鎮まり、一盌を服して瞑目。明日は戦場ぞ・・・

人付き合いの茶の湯では無く、武将が内面で求めていた茶の湯は、そのようなものではなかったのかと、想像を巡(めぐ)らしている婆です。

およそ、戦は、地位や領地の奪い合いが元になっています。彼等の多くは禅に傾倒し、執着を捨てよの教えを耳にしている筈ですが、現実は執着の塊になって命を死線に晒しています。親子・兄弟・同僚であっても、主君と家臣であっても、隣国であっても、執着に突き動かされたその動きは変わりません。

武家社会、或いは軍政下の国では、ピラミッド型の支配構造こそ安定した社会を生み出すのであり、上意下達の縦の仕組みこそ、社会が上手く機能して行くと、考える傾向があります。

社会の安定と平和の為にピラミッドを造ろうと、「オレが」「アイツが」とお山の大将の登頂争いを繰り広げ、結局際限なく戦にのめり込んでしまいます。登頂争いに負けて屈服し、雌伏を余儀なくされた者は、その者と、その者に従う多くの人々に不幸な隷従を強いるのが、歴史の習いです。そうはさせじと、彼等は自身を奮い立たせ、戦場に向かって行くのです。

 

ナンバー2は殺される

天下麻の如く乱れた時代が長く続きました。領土の争い、家督の争い、ポストの争い、それらのどれもこれも当事者にとってみれば弱肉強食のコロッセウムであり、生存を賭けた必死の戦いでした。将軍家、大名家、武将、国侍等どのレベルの組織に於いても、トップと№2の争いは枚挙にいとまがありません。現在進行形のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、その辺のすさまじさが描かれております。

ナンバー2は殺される、とショッキングな小見出しを付けましたが、全てが全てそうとは言い切れないまでも、似たような状況がかなりの場合に見られます。殺されるか没落するか、逆転の下剋上を成し遂げるか、という際どい展開が繰り広げられているのです。

トップが秀吉で、№2が秀長で、家宰的役割を果たしていた利休が№3でしたが、秀長亡き後、№2に繰り上がった利休。家康や前田利家は表舞台の別勘定の№2。石田三成などは有能な官僚スタッフと言う所でしょうか。とにかく、権力に近づく時は、よほど注意しないと怪我をします。その様な例が数知れない程いっぱいあります。

因みに、歴史に名を残すようなトップと№2の争いを下記にざっと列挙してみました。

 

№1と№2の争い

記述は、対立者・両者の関係・勝敗の順です。括弧内は騒動・乱の名前です。

 

鎌倉時代

源頼朝 vs 源義経   

兄と異母弟。兄は将軍、弟は指揮官。頼朝、朝廷寄りの義経を討伐。義経敗死。

北条時政 vs 比企能員(ひき よしかず) 

執権と将軍頼家の乳母父。勢力争い。比企一族滅亡(比企能員の変)

北条時政 vs 源頼家  

執権と将軍。時政は頼家を暗殺し、また、頼家嫡嗣子・一幡を殺害、代わりに娘が乳母を務めた頼家の弟・実朝を将軍にする。

北条時頼 vs 三浦泰村 

執権と御家人最大氏族。泰村は三浦義村の次男。三浦泰村一族滅亡。(宝治合戦)

平頼綱 vs 安達泰盛  

得宗家家宰(執事)と執権北条貞時の外祖父。貞時14歳に付き、外祖父泰盛が後見。元寇後の幕政改革に着手するも公家・寺社の反対にあい、家宰頼綱の謀により安達氏滅亡(霜月騒動)

平頼綱 vs 北条貞時  

得宗家家宰と執権北条貞時安達泰盛排除に成功の平頼綱、政を壟断し恐怖政治を敷く。貞時、頼綱を警戒し、鎌倉大地震の混乱に乗じて頼綱を討伐(平禅門の乱)

新田義貞 vs 足利尊氏

中先代の乱で鎌倉陥落の報に、足利尊氏、鎌倉救援に向い、そのまま居座る。後醍醐天皇激怒。新田義貞を官軍の総大将にして足利討伐軍を発す。足利軍壊走し九州へ落ちる。

新田義貞楠木正成(くすのきまさしげ) vs 足利直義(あしかが ただよし)足利尊氏

義貞・正成の朝廷軍と、足利軍の直義(陸軍)・尊氏(水軍)。九州に落ちていた足利軍が東進、それを朝廷軍が湊川(現神戸市)で迎え撃つ。多勢に無勢で朝廷軍敗北、楠木正成自刃し、新田義貞敗走。足利軍勝利(湊川の戦い)

 

室町時代

足利尊氏 vs 足利直義(あしかがただよし) 

同母兄弟。将軍と補佐役。双方車の両輪の如き関係だったが、次第に路線が離れる。尊氏、直義を幽閉暗殺 (観応の擾乱)

足利義満 vs 懐良(かねよし)親王 

将軍と「日本国王良懐」。懐良親王後醍醐天皇の第8皇子にして征西大将軍。九州に在って日明貿易を司る。義満、日明貿易権争奪を仕掛ける。懐良敗走没落。

足利義満 vs 足利義持 

親と子。3代将軍と4代将軍。父義満は嫡嗣子義持よりも四男の義嗣を偏愛。義持、将軍就位後父の政治路線を否定し明と国交を断絶。金閣寺を除き鹿苑寺を破却。義嗣を殺害する。

土岐康行 vs 土岐滿貞 

兄と弟。康行は美濃・伊勢の守護。滿貞、将軍義満と密議し尾張守護になり土岐家の家督相続を図る。康行激怒し挙兵、義満これを討伐。康行没落す。(土岐康行の乱)

足利持氏 vs 上杉氏憲(禅秀) 

鎌倉公方関東管領鎌倉公方足利持氏関東管領上杉氏憲が対立し、持氏、氏憲を更迭。これに反発し氏憲謀叛。室町幕府は持氏を救援す。氏憲(禅秀)敗北自害(上杉禅秀の乱)

足利義持 vs 足利義嗣 

将軍と異母弟。上杉禅秀の乱の失敗の報に義嗣出奔。これにより禅秀の乱に呼応して、義嗣が反義持派の旗頭としての謀叛の計画が発覚。義持、義嗣を捕縛殺害。

足利義教 vs 大覚寺義昭 

将軍と異母弟。義昭(ぎしょう)大覚寺門跡。義昭、猜疑心の強い義教から逃れ寺を抜け出す。その行動に義教は義昭の謀叛を疑い、義昭を指名手配。九州で捕獲し自害に追い込む。

畠山持国 vs 畠山持永 

兄と弟。将軍義教、畠山氏の台頭を阻止すべく、結城合戦出陣拒否を理由に持国を隠居させ、弟の持永に家督を与える。嘉吉の乱で義教死亡すると、持国、直ちに持永を討ち、家督を奪う。

畠山持富 vs 畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)

養子と庶子。持富は管領・畠山滿家の子にして畠山持国の養子。義就は持国の実子だが母は遊女。持国、義就を溺愛し家督を義就に譲る。家臣これに反対。持冨病没。(応仁の乱)

畠山弥三郎政久・政長兄弟 vs 畠山義就  

弥三郎政久・政長兄弟は病死した畠山持冨の子。彼等と義就が対立。畠山家の家臣団は家督者・義就を納得せず、弥三郎・政長を擁立して争う。 (応仁の乱)

斯波義廉 vs 斯波義敏 

一族。斯波氏は足利家一門の筆頭で武衛の家柄。家督を奪い合い、義廉(よしかど)←→義敏の間を家督が行ったり来たりする。義廉は山名宗全を頼り、義敏は細川勝元を頼る。(応仁の乱)

 山名氏清・滿幸 vs 山名時煕・氏幸 

山名氏、全国66ヵ国の内11ヶ国を領有、六分の一殿と呼ばれる。山名氏勢力弱体化意図の幕府、山名氏内部の家督争いに介入、謀略を以って同士討ちを仕掛け、没落させる。かつての山名氏所領の内、8か国が諸大名に分配され、山名氏は3ヵ国の領有のみになる。 (明徳の乱)

山名宗全 vs 細川勝元 

舅と婿。初め友好的。畠山氏、斯波氏など各地で勃発する家督争いに各々支援、支持、庇護等により二大派閥が形成される。将軍家でも将軍弟養子・義視と将軍実子・義尚誕生の二つの対立軸が生まれ、対立抗争になる。宗全西軍総大将。勝元東軍総大将。両雄病没(応仁の乱)

足利義視 vs 伊勢貞親 

将軍弟養子と将軍実子義尚扶育の政所執事。貞親、義視の存在が将来的に義尚の脅威になると危惧。義視殺害を図る。が、失敗し失脚、後に復権(文正の政変)

足利義材(よしき) vs 細川政元 

将軍と管領。10代将軍・義材、畠山政長の要請で畠山基家(義豊)討伐の為親征。政元、畠山氏一本化で勢力拡大を恐れ、親征留守中、義材を追放し義澄を11代将軍にする(明応の政変)

茶々丸 vs 足利義澄

堀越公方嫡男と異母弟。茶々丸は品行不良にて廃嫡され幽閉される。異母弟(義澄)は上洛して出家、清晃と名乗る。父・堀越公方足利政知死後、茶々丸牢番を殺害して脱獄、二番目の弟と継母を殺し家督を奪取、重臣を殺害。明応の政変で清晃、還俗して義澄となり、11代将軍になる。義澄、伊勢新九郎(=宗瑞=北条早雲)を茶々丸討伐に向かわせ(伊豆討入)、茶々丸を自害させる。なお、茶々丸元服せず幼名のまま。

足利義稙(=義材) vs 細川高国 

将軍と管領。義稙(よしたね(=義材))、管領細川澄元を追放し、細川高国管領に据える。更に11代将軍の義澄を排除、10代将軍に返り咲いた。義材改め義稙と称したが、将軍代位は12代とはならず、10代のままである。後柏原天皇即位式直前、義稙、役目を放棄して京都を出奔。天皇激怒し、高国は義稙追放を決める。代わりに義澄の遺児・亀王丸(義晴)を将軍に迎える。義稙、淡路に落ち、落胆の余り病没。

 [細川澄之・香西元長・薬師寺長忠] vs [細川澄元・三好之長] vs [細川高国]

澄之、澄元、高国の三人とも細川政元の養子。他は家臣。細川京兆家(嫡流)家督争い。澄之、継嗣から外されるを恨み、家臣・元長・長忠と謀り細川政元を暗殺。(永正の錯乱)

細川尹賢 vs 香西元盛 

同僚。尹賢(ただかた)、羽振りの良い元盛を陥れ自害に追い込む。元盛の無実明白になり元盛の兄弟、自害を命じた管領細川高国に叛旗。

細川晴元 vs 細川高国 

元盛事件に呼応して細川晴元、義維(よしつな)を擁立し、打倒将軍義晴&高国を旗印に起つ。細川高国敗北し自害。(大物(だいもつ)崩れ)

細川晴元 vs 三好元長 

主君と家臣。晴元、義維推戴から義晴推戴に鞍替えするを機に、晴元の為に粉骨砕身して戦った元長を用済みにし、謀略にかけ戦場で元長を殺害。 (山科本願寺一向一揆)

三好長慶 vs 細川晴元 

家臣と主君。長慶は三好元長の嫡嗣子。長慶、父殺害の真犯人が晴元と知り、主君を晴元から細川氏綱に替える。晴元、長慶を恐れ足利義晴と13代将軍・義輝を連れて近江に逃亡。長慶、京都を掌握し天下を取る。

足利義輝 vs 三好長慶 

将軍と実質将軍。義輝・晴元軍3,000対三好軍40,000で戦い義輝敗北(相国寺の戦い)。この戦いに前後して幾度も交戦している。長慶没後、義輝将軍続投も、三好三人衆が義輝を殺害。(永禄の変)

 

戦国時代

武田信虎 vs 武田晴信(信玄) 

父と子。父信虎が嫡男晴信より次男信繁を偏愛。又、信虎暴君にして家臣領民迷惑。晴信、クーデターを起こし、父を駿河の国に追放。                                                                                                                                                                    

長尾晴景 vs 長尾景虎(=上杉謙信)

長男と四男。晴景は病弱、景虎は武勇に優れる。家臣に擁立されて四男の景虎家督を継ぐ。晴景は景虎を養子にして隠居。

足利義昭 vs 織田信長 

将軍と覇者。信長支援の下、義昭将軍になるも対立。義昭、信長討伐の命令を頻繁に出す。信長没後、義昭は秀吉に恭順。

豊臣秀吉 vs 豊臣秀次 

伯父と甥。養父と養子。太閤と関白。 小谷城攻めの時、調略上の都合で、秀次4歳の時、秀吉によって敵側の宮部継潤に養子(人質)に出された。その後、四国攻略の時には三好康長の養子に出され、最後に男子の居ない秀吉の養子になる。秀吉が隠居して太閤になり、秀次は関白になったが、その後に秀頼が生まれた。

秀次、関白就任により任官の人事権を手にする。諸大名、贈答品を携え秀次詣でに人が集まり始め、娘を献上する者も多かった。秀次も人事権を行使して叙任や役職を与えた。文化人も集まりだし、一大勢力が築かれつつあった。秀次増長。

太閤秀吉は、自身の許しなく人事権を行使した秀次を咎め、秀頼の将来を案じ、秀次討滅へと動く。秀次の悪評を流し、故に以って成敗するという形で切腹させる。併せて妻妾共々全て処刑す。秀吉、禍根の根絶やしを目論み、妻妾のみならず、秀次により任官されたもの全て連座させ、賜死の者、配流の者、失脚者多数(関白秀次事件)

 

この様に、浜の真砂は尽きるとも、世に争いの種は尽きまじと言えるほど、争いは絶えません。

平和な世になれば麒麟が来るそうですが、封建社会麒麟を呼ぶには、上記で述べましたように安定したピラミッドを築くのが一番の方法です。その為に、徳川家康は、2代秀忠の後継ぎの3代目を決める時、家督相続を実力主義や親の偏愛では無く、長幼の序を重んじ男子の嫡出長子が継ぐ様に手本を示しました。これによって畠山政久兄弟と畠山義就のような軍を動かしての紛争が激減し、せいぜい大名家内でのお家騒動に留まる様になりました。