式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

166 利休切腹(2) 売僧(まいす)

昭和末期から平成の初期、日本はバブル景気に沸きました。

東京の都市再開発で不動産バブルが沸き起こり、地上げ屋が跋扈(ばっこ)しました。有り余った資金は投資に流れ株式が高騰、ゴルフ会員権、高級乗用車、果ては女性達があられもない衣装をまとって、お立ち台とやらの舞台で扇子を持って踊り狂うと言う、出雲の阿国も赤面するような、まことに前代未聞の世相に染め上がりました。

絵画や骨董の分野でもバブル景気で、ゴッホのひまわりの絵を57億円もの値段で落札したとかで、ニュースになったほどです。それがそれなら他も同じで右へならえ、絵も骨董品もべら棒に高くなり、骨董品一つで家が何軒も建つ様な値段で取引されました。

利休の生きていた時代、同じ様なバブルがあったのではないかと、思います。

利休の売僧(まいす)疑いもさることながら、茶道具のみ単独で発生したバブルではありますまい。経済のバブルは一業種だけで起こるものではありません。日本経済の沸騰が、それを引き起こすのです。

 

お金の流れ

利休切腹1591(天正19)です。その頃、出雲の阿国は20歳前後。九州平定、小田原平定、奥州平定と次々と各地が平定され、惣無事令が成り日本全国が平和になって参りました。

そこで、考えてみます。

九州平定の為に20万人分の兵站のオペレーションがありましたが、そのお金の出所と支払いはどうなっていたのでしょう?

兵糧などをただで召し上げ?或いは対価を払った? そのお金の出所は秀吉自身の懐? 諸将の分担? 支払先は誰? 諸将が大坂の秀吉の下へお金を払い、一括して購入したのか、或いは諸将が自ら調達して現物を三成の管轄する集積地に運んだのか、結局お金はどう流れて誰の懐に入ったのか、その辺の事情は?

小田原攻めの軍費は各将持ち? 支払ったお金の先は誰の懐に?

唐入り費用の莫大な予算執行はどういう風に行われたの? その財政の裏付けは?

名護屋城の造営や諸将の滞在費は誰が負担し、そのお金の行く先は誰の懐に?

朝鮮へ渡海する船の建造費は幾らで、支払いしたお金は誰れの懐に?

大口の発注ばかりでなく、動員された兵が個人的にも、鎧を新調したり刀を買ったり、馬具を整えたり、草鞋を何足も履き替えたりと、俸禄からこまごまとした出費をした筈ですが、そのお金は誰の懐に入ったでしょう?

これ等を考えると、軍需景気が起こり、世の中にじゃぶじゃぶにお金が溢れ、どう考えてもインフレーションになって行くような気がしてなりません。一方、軍需景気に取り残された庶民や農民達は窮乏して行きます。懐の寒い大名の領地では、農民が年貢の重税に苦しんだでしょう。金持ちと貧乏人の格差が広がり、いびつな好景気が巨大化します。

戦は消耗の公共事業です。社会資産は生みません。そして、そのお金は巡り巡って商人の懐に入ります。

 

桃山期のバブル

豊臣政権が用意した軍資金は金山・銀山・貿易・商業振興策で得た収入、直轄領年貢等の由来が考えられます。各大名は石高に応じて兵員と軍資金を負担しました。それらに加えて、豪商からの戦費拠出金などがかなりの額を占めます。商人から矢銭(軍資金)を巻き上げる事は、溢れかえったお金を政権がバキュームで吸い上げる様なもの。極端なインフレを押さえる効果がどのくらいあったか疑問ですが、商人だって軍資金を取られるばかりじゃ面白くありません。取られてもなお商売が成り立つぐらい儲けます。お金を取られるくらいなら、余ったお金を骨董や名物を買ってしまえ、となるのも人情です。豪華な衣装を誂えたり、数寄を凝らした屋敷を建てたり、正に、桃山文化の花盛りです。秀吉と言う派手好きがトップに立ったから皆も派手になった、という見方もありますが、そればかりでなく、経済の活況がそれを後押ししていました。

 

腐敗への取締り

この時期、平和になりつつあると言っても完全に安定しては居ませんでした。それでも、全国規模でしっちゃかめっちゃかに戦っていた応仁の乱よりは戦いの数がぐっと減ってきていました。戦による破壊は復興の建設に拍車をかけ、築城や神社仏閣の造営も盛んで、建築資材なども値動きが激しくなっています。

前項の 「ブログ№165 利休切腹(1)  木像事件」に載せた年表で、

1589.01.21(天正16.12.05) 秀長、木材事件の監督責任を秀吉から問われる」という条を書き入れておりますが、それは、秀長の配下の吉川平介(きっかわ へいすけ)という山奉行が、秀長の命で熊野の木材2万本以上を伐採し、大阪で売ったお金を着服してしまった事件の事を指しております。吉川は処刑獄門、秀長は責任を問われて大坂城出入り禁止処分となっています。

この翌年の年賀の時、秀長は秀吉に太刀を献上しています。登城禁止なのにこれは?と思う所です。本人が登城して拝謁の上そうしたのか、それとも使者を遣わしてそうしたのか、ちょっと分かり兼ねます。秀吉は右腕と頼む弟でさえも、結構お金には厳しい所があるようで、切腹を命じないまでも、出社禁止処分のような断を下しています。

政権の腐敗は体制の土台を崩す元凶です。材木が菌やシロアリに犯される様なもの。商人同士の商習慣で行うのなら当人同士の問題ですし、業界内の事ですから秀吉側は我関せずでしょうが、政権に関わっている人間がそれでは見過ごす訳にはいかないでしょう。利休は秀吉に深くかかわり、そして、商人でした。

 

政商

秀吉の財政の一部分を支えたものに堺や博多の豪商達が居ます。いわゆる政商です。彼等は鉱山や貿易などで大儲けをしました。武器や、鉄砲に必要不可欠な硝石などの火薬の輸入も手掛け、武器商人の顔も併せ持っていました。彼等が鉱山開発に乗り出し、灰吹法(不純物除去の方法)の導入などで一層銀が増産され、富はますます豪商達の下に集まって行きました。

これ等の鉱山所在地を我が物にしようと、大名達の熾烈な戦が起こっています。最終的には天下を取った者が支配する様になりますが、そういう過程で、如何に商人達を抱き込むか、という戦略も見え隠れします。その戦略の一つに茶の湯が有ります。茶の湯を以って彼等に近づくは、手っ取り早い方法の一つです。

鉱山と言えば、但馬の生野(いくの)銀山(現兵庫県朝来(あさご)市)出羽国延沢(のべさわ)銀山(現山形県尾花沢市)、そして、2007年に世界遺産に登録された石見(いわみ)銀山(現島根県大田市)の三大銀山が有名です。

佐渡の金山は後発鉱山で、江戸時代に入ってからのものです。

安土桃山期の政商の幾人かをリストアップしてみます。

 

神谷寿貞(かみや じゅてい)

石見銀山は、博多の豪商・神谷寿貞が発見しました。1526年の事です。寿貞は領主の大内義興の支援の下、隣接する出雲國の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、採掘に必要な人達を率いて入山し銀の採鉱を開始、莫大な利益を得ました。更に7年後、朝鮮から灰吹法の技師を移住させて技術革新を図り、銀の採掘量は格段に増えて行きました。博多の三傑と呼ばれた茶人・神谷宗湛(かみや そうたん)は、神谷寿貞の曾孫です。

 

島井宗室(=宗叱) (しまい そうしつ(=そうしつ))

博多の三傑の島井宗室は神谷宗湛の親戚です。島井家は大内氏に接近、大内氏が始めた東シナ海の貿易を独占するとそれに食い込み、携わります。宗室の代に大友宗麟と結びつき、数々の特権を手に入れます。また、堺の千宗易(=利休)津田宗及などと茶の湯や貿易を通じて親しく交流しています。

大友宗麟が衰退し、博多が島津氏の勢力に呑み込まれそうになると神谷宗湛と島井宗室の二人は、信長に庇護を求めて上洛します。神谷宗湛は「博多文林」と言う茶入れ(日本の1/2の領土に値するという名物茶器)を持ち、島井宗室は天下三肩衝と呼ばれる「楢柴肩衝を所持、信長はそれが欲しくてたまりませんでした。信長は二人の上洛に合わせて本能寺で茶会を開きます。その夜、2人は本能寺に宿泊しましたが、運悪く本能寺の変に巻き込まれてしまいす。二人は這(ほ)う這うの体(てい)で逃げ出しましたが、その時、燃え盛る炎から宗湛は牧谿『遠浦帰帆図』を、宗室は空海千字文を救出しました。

 

大賀宗九(おおが そうく)

博多の三傑の最後の一人は、大賀宗九と言って、金融業、貿易業、そして武器商人でした。彼は博多の町づくりや築城などに資金を出しており、今の博多の基礎を築いております。

 

今井宗久

生野銀山(いくのぎんざん)摂津(現兵庫県朝来(あさご)市)にあり、古くは平安時代からその存在を知られていたと言われています。本格的に採鉱し始めたのは戦国時代に入ってからで、山名祐豊(やまな すけとよ)の手に依っています。銀の産出量も多く京の都にも近かったので、織田信長が目を付けてそこを支配、その後豊臣秀吉の手に入り、後に徳川家康が直轄地として所有し、財源としました。

茶人の今井宗久は信長から課せられた矢銭2万貫を、堺衆を説得して献上、一早く信長に接近し、1570年には長谷川宗仁と共に生野銀山の支配を任されました。彼は鉄砲鍛冶や火薬製造などの事業も起こし、銀鉱山の経営と共に軍事産業にも手を広げ、巨万の富を得ます。千宗易(利休)は信長に鉄砲の玉を送っています。今井宗久は津田宗及や千宗易と共に信長の茶頭を務めました。

 

延沢銀山

延沢銀山は、室町時代に、名山巡礼者が出羽の白山神社にお参りした時に、変わった石を発見した事に端を発しております。発見者は儀賀市郎左衛門と言い、彼は生野銀山へ赴き石を鑑定して貰いました。その結果、銀鉱石と判明。それから採掘がはじまります。その後、延澤氏のものとなり、更に最上氏のものとなりました。江戸時代になると鳥井忠政→保科正之と管轄者が変わって行きます。

延沢銀山では、中央政権に食い込んで政商となった様な人物は見当たりません。幕府直轄領として繁栄して行きます。

 

ルソンの壺

ルソンの壺の事件は、利休が関わったようによく言われますが、実は利休とは関係がありません。ルソンの壺が呂宋(ルソン)助左衛門から太閤秀吉に献上されたのは1594年7月の事、利休は1591年に亡くなっております。

秀吉はルソンの壺を見て形・色艶・焼などに惚れ込み、茶葉の保存にも良いと、べた褒めに褒めて大名達の購買意欲を煽り、目の玉が飛び出る様な高値で売り捌(さば)きました。これ等の事は、宣教師の報告書に書き表されているそうです。

秀吉はフィリピン国王に対し臣従せよと高圧的に命令し、その上、貿易に携わっている者達にルソンの壺を一つ残らず探し出し、その中の良品を日本に送れと指示します。また、ルソンの壺を秀吉が独占販売する為に、日本に入港した船を一つ一つ長崎奉行が乗船して臨検し、隠されている壺が無いかを探し出すと言う程の徹底ぶりだったそうです。

大坂城の広間に50個ものルソンの壺を並べ、それを大名達に売ったというエピソードがあり、高値にもかかわらず全て売れてしまったとか・・・後で、ルソンの壺は現地では便器だったとか言う噂が流れ・・・ルソンの壺の熱狂は醒めて行きました。

実は、ルソンの壺はルソン(フィリピン)で作られたものでは無く、中国大陸で焼かれた陶器です。中国から南方に輸出され、フィリピンなどで生活雑貨として用いられていました。現地では安物だったそうです。

 

茶器の鑑定と売買

不思議なもので、同じ物であっても値段が安い物と高い物とでは受ける印象が大分違います。

例えば、町の瀬戸物屋さんに出来損ないの青磁の茶碗があったとしましょう。色は空色どころか枯れた竹の様な茶色い色をしており、焼むらがあり、ろくろ挽きが下手な、そういう茶碗に1,000円の値段がついていたら、あなたは買いますか? それとも、出来の悪いこんな茶碗に千円も払うのは勿体ないと、買わずに通り過ぎますか?

今度はその全く同じ茶碗を、絹の仕覆で包み、桐の箱に入れ、有名鑑定家が箱書きに村田珠光のものと極めを書き、5千万円で売りに出したならば、買い手がつくでしょうか? この場合は町の瀬戸物屋さんという訳にはいきませんので、勿論サザビーズのオークションに出品しますが・・・

侘茶の祖・村田珠光は貧乏でした。高価な茶碗が買えませんでした。そこで、出来損ないのB級かC級の安物の青磁茶碗を買って茶の湯に使用していました。珠光亡き後、それを千利休が手に入れ、それを「村田珠光遺愛の茶碗」として1千貫文で三好実休に売りました。三好実休亡き後、織田信長がそれを収蔵し、結果、本能寺で焼亡してしまいました。

モノの値段なんてものは、その様なものです。高ければ有難がって購買意欲をそそり、安ければ食指も動かしません。千利休は、その辺の人の心理を良く心得ていたようです。

彼は茶の湯名人として天下に聞こえ、抜群の鑑識眼を持っていると言う事で絶大な信頼を得ておりました。その信頼に乗っかって高値を好む人の心理を利用し、高額鑑定を出し、鑑定手数料を得ていました。日本全国引きも切らずに鑑定依頼が届き、また、彼自身も茶器類を積極的に売った事でしょう。三好実休に珠光茶碗を1千貫文で売ったくらいですから、彼の査定額はかなりの値段になったと思われます。また、彼が売った茶器類も、三好実休の場合を踏襲した様な値付けで行われたと思われます。

秀吉はそれを咎(とが)めます。後年、秀吉はルソンの壺でがめつさを発揮しますが、自分の事は不問でも、人がやっているのは許せないのです。独裁者の我儘です。

儂の禄を食(は)みながら、商売に邁進するとは何事ぞ! という思いがあったのではないかと、婆は勘繰っています。同時に、初めは利休が内政を仕切るのを容認していましたが、次第に口出しが多くなり、大陸遠征に反対するほど利休が大物になってきて、彼の存在が疎(うと)ましくなって来たのではないかと推測しています。

今井宗久が財閥化して巨大化すると、北野大茶湯を区切りに秀吉は宗久を遠避けて冷遇し、その代り新興の使い勝手の良い千利休を取り立てる様になります。それと同じ様な気持ちが秀吉の中に働いて、そろそろ利休を退場させようかという気分になっていたのかも知れません。利休に売僧の評判が立ったのを機に処断に動いた、とも考えられます。

 

 

余談  日本の鉱山

鉱山には金・銀・銅の鉱山も有れば、石炭や石灰岩の鉱山も有ります。砂鉄や珪藻土を採る鉱山も有ります。日本で採られたそれら全ての鉱山を、昔から現代迄にどれほどあったのかを調べてみました。かつては資源立国とも言える程の鉱山数を誇っていましたが、その90%以上が閉山しています。

今、主に採掘されているのは石灰石で、その他に陶土、カオリナイト、珪石、珪藻土類です。金・銀・銅・鉛・亜鉛などは僅かに産出していますが、資源枯渇や公害問題、坑内の出水問題、採算の問題などの多くの課題を背負い、かつての面影はありません。因みに、現在の鉱山の数を地方別に表示します。

「総鉱山数」は昔(およそ室町時代)から現在までに開かれた鉱山の数です。

「操業中」は現在操業している鉱山の数です。

「現在産出している物」は、現在操業している鉱山が採掘している鉱物の名前です。(ウィキペディア「日本の鉱山の一覧」を参照にしました。)

  地方名    総鉱山数 操業中 閉山数               現在産出している物

北海道     301     10        291  金、銀、鉛、亜鉛、水銀、銅、砒素、錫、鉄、硫黄

                                                                       石炭 、マンガン、 ニッケル、クロム、チタン等

東北地方   425    25        400  石灰石マンガン金・銀・銅・亜鉛・ウラン(研究

                      用)、ベントナイト、ゼオライト、珪砂、石炭、沸石

関東地方   195       32        163  石灰石、ベントナイト

中部地方  276      36        240  金、銀、鉄、鉛、亜鉛、陶石、珪藻土、亜炭、

                      カリ オナイト、石灰石天然ガス等々

近畿地方  332      19         313    石灰石、長石、けい砂、蠟石

中国地方  167      27         140    砂鉄、モリブテン、ゼオライトカオリナイト

                                                                          セリサイト、石灰石

四国地方  157      6         151  石灰石ドロマイト

九州地方  341     27        314         金、銀、銅、錫、アンチモン石灰石、珪石、

                      陶石、カリオナイト

 計    2,194     182       2,012

ベントナイトは粘土で。陶器や建築資材・洗剤・食品・農薬などに使われます。

ゼオライトは細かい多孔質のもので、イオン交換や触媒、吸着剤などに用いられます。

カオリナイトは粘土で、磁器を作るのに用いられます。長石や蠟石由来のものです。

セリサイトは、絹雲母(白雲母)の微細な粒子で、化粧品やセラミックの素材等に使われます。

ドロマイトは、セメント・ガラス・肥料・電子部品などの原料、食品添加物などに使われます。

 

これからはレアアースの時代と思われます。資源枯渇を嘆かないで、新しい鉱物を探しましょう。日本は造山活動が盛んだった国です。火山もいっぱいあります。きっと日本のいたるところにそれらが存在しているのではないかと、婆は夢を見ています。夢はでっかい方がいいです。