式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

168 佐介(織部)は茶の湯嫌い

明けましておめでとうございます。

当地では風も無く、明るい日が差す穏やかな元日の朝を迎える事が出来ました。有難い事でございます。

さて、このブログ、「古田織部はウニのようです」と書き始めて1年と9か月になります。

古田織部はウニのようです。

海に住んでいるウニに良く似ています。

いえ、彼の面相がウニに似ていると言っているのではありません。ウニの様にあらゆる方向に針が向いていて、一方向だけではとても捉えきれないのです。

その捉え切れない古田織部を、いよいよ捕まえに行こうと思います。

 

ウニの棲む海は、疾風怒濤の荒海でした。徳川幕府が開かれて安定政権が生み出される以前の武士の時代は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の映像で綴られました様に、血で血を争う果てしの無い権力闘争に明け暮れていました。何時、何が理由で死ぬか分からない世の中でした。

古田織部は、海の底にじっと閉じこもり、激浪と無縁の暮らしを望んでいたと思われます。茶の湯を嫌い、40歳を過ぎるまで茶の湯とは距離を置いていた、と知るに及び、成程と思いました。

 

茶の湯はゴルフ

茶の湯は、今で言えば社用ゴルフのようなもの。付き合い、接待、人脈作り、情報取得手段、時には密約・・・そして、お金がかかるのも茶の湯と一緒です。そのような煩わしい事に関わりたくない、と思う武将の一人や二人、居ても不思議はありません。彼はその内の一人でした。

黒田孝高(=官兵衛=如水)もその内の一人でした。彼は茶の湯を馬鹿にしていました。茶を飲むだけでどうしてそんなにみんなが夢中になるのか、理解出来ませんでした。ところが、茶室が持つ密議の効用を知り、途端に茶の湯に嵌(はま)ってしまいます。彼は茶の湯の「利」に誘われました。

古田織部はどうか? 織部が使い番や交渉役として活躍していた所を見ると、茶室での会話に長(た)けていたと思われます。が、それは後年の事。茶の湯に嵌った最初の切っ掛けは、利休の演出した茶室のコーディネイトや茶道具の美に心を奪われたからだと思います。織部は「美」に捉われたのです。

 

古田織部の名前

古田織部の「織部」、実はそれは役職名でして、初名は景安、通称は佐介、後に重然(しげなり)と名乗ります。

もともと佐介は父親の古田重定から茶の湯を仕込まれていました。重定は勘阿弥と称していたそうですが、還俗して重定と名乗ったと伝わっていますので、阿弥衆(あみしゅう)の僧だったと思われます。阿弥衆と言えば、観阿弥世阿弥、能阿弥、芸阿弥、相阿弥、と名立たる芸術の天才達が所属していた僧侶集団がおります。

僧侶と言っても、有髪の人も居れば剃髪の人もいます。お能観阿弥世阿弥などは有髪で、法名観阿弥陀仏、世阿弥陀仏です。法名や戒名は今では死後に付けると思われていますが、本来は生前に受戒をしてそれを戴きます。婆の義父と義母は結婚した時に戒名を戴いております。でも、子供達は一度も何々院様と呼んだことはありません。

義母が102歳で亡くなり、お坊様から戒名のお話が出た時、実はこれこれしかじかで既に戒名を持っておりますと、戒名を書き付けた紙をお見せしたところ、お坊様は「あゝ、これは父の字です」と吃驚(びっくり)なさいまして、感慨に耽っていらっしゃいました。

ちょっと身内の話へ脱線してしまいましたので、阿弥衆の話に戻しましょう。

勘阿弥はその阿弥衆の内の一人だったのでしょう。勘阿弥は茶の湯を能くすると評判だったようですので、もしかしたら、そういう芸に生きていた人だったのかも知れません。因みに、現式正織部流の家元・秋元瑞燕先生の先々代は瑞阿弥とおっしゃいまして、僧侶でした。布教の為の鉦鼓(しょうこ)や特殊な杖などの道具が先生のお宅のお仏堂にあり、空也上人がそこにおわします様な雰囲気です。ただ、先生の御祖父様のお写真を拝見するとなかなかの好男子ですので、康勝(こうしょう(運慶の四男))作「木造空也上人立像」の雰囲気とは大分違いました。

 

佐介の茶の湯嫌い

もし、勘阿弥が阿弥衆で、芸能(茶の湯)に長けた人物ならば、当然のことながら佐介も父から手解(てほど)きを受けていた事と思われます。勘阿弥の茶の湯はその名からして能阿弥が確立した台子点ての書院茶でしょう。佐介が最初に触れた茶の湯は、伝統的な書院茶だったと婆は推測しています。ここまで全て「もし」「思われます」「でしょう」と言う風に、推測の推測を重ねて話を進めておりますので、反論されれば、一次資料的証拠にお目にかかってないので、全く以って言い返す事はできません。恥ずかしい限りですが、父が子に、自分持てるものを伝えたいと思うのは自然の理でして、そう考える次第です。なにしろ茶の湯は、当時の武士にとって一般教養みたいなものでして、出世の糸口になる資格の一つと考えられていました。茶の湯の能者といわれた勘阿弥は、自分と同じ様なレベルを求めて息子を仕込んだと思わます。

で、重定は佐介をどう教育したか・・・を考えますと、恐らく一所懸命仕込もうとしたのだと思います。例えば、ピアノのお稽古の様に・・・余程子供が音楽好きでない限り、幼少期に厳しく仕込みますと、ビアノ嫌いになってしまいます。それと同じ様な事が起きたのではないかと思います。台子点ての書院茶は厳格な様式美を持っております。その奥行きを知らないと退屈なものになってしまいます。ビアノの練習曲の「バイエル」や「ハノン」を毎日練習させられる様なものでしょう。創意と工夫が有れば、練習曲と言えども音楽的に奏でる事が出来ますし、上達の尺度が自分なりに体得できますので、嵌ると面白いのですが、そこに至るまでが大変です。

婆の姉はヴァイオリニストでした。毎日スケールを2時間練習してから、それから演奏曲の数小節ごとの部分練習を5時間以上もやっていました。曲の最初から最後まで通すのは最後に1回から2回ぐらいでした。食べる、寝る、トイレ、多少の休憩時間、それ以外が全て練習、それが姉の一日でした。そして、何か月もそうやって同じ曲を練習していました。お蔭様で、門前の小僧の婆は、ヴァイオリンの曲なら大抵の曲の、細かいディテールの一音一音まで覚えてしまいまして、あゝあそこは姉が引っ掛かり易い難しいテクニックの所だ、とか、ここはメロディーを泣かせる為に弓をこういう風に動かしているところだとか、左脳で聞く様になってしまいました。正直言って、こうなると、音楽は面白くありません。あ、また脱線してしまいました。

茶の湯でこれと同じ様な練習をさせられたら、大概の人は茶の湯なんて大嫌いになってしまうでしょう。佐介(織部)は恐らくこうして茶の湯が嫌いになったのではないかと、愚考する次第です。

 

佐介が生まれた時の時代背景

古田佐介は1543年(天文12年)か或いは1544年(天文13年)に生まれた、とされています。

1543年ですと、丁度徳川家康が生まれた年です。鉄砲が種子島に伝来した年でもあります。

夏には細川氏綱細川晴元打倒の兵を挙げています。日吉丸(=秀吉)はその頃お寺に預けられていました。また、前年の1542年には武野紹鴎松屋久政など3人を招いて、唐物名物「松島の茶壷」を用いた茶会を開いています。

誕生が1544年(天文13年)ですと、山上宗二(やまのうえのそうじ)が堺に生まれています。越後の長尾景虎栃尾城の戦いで初陣を飾り、国友が鉄砲2挺を将軍・足利義晴に献上しました。三好長慶が台頭し始め、長慶と細川氏綱が戦っております。この年、23歳の千利休が、松屋久政を招いて、珠光茶碗を用いて茶会を開いています。

政治の面で言えば将軍は影の薄い存在で、管領が牛耳っていました。合戦の面で言えば、細川吉兆家の家督相続を巡る権力闘争が激しく、国政をそっちのけで私闘に明け暮れていました。

茶の湯では、武野紹鴎千利休が茶会を開きました。まだまだ侘茶も本格的とは言えませんでした。

 

 

余談  スケール

スケールと言うのは音階練習で、低音からド♯ドレ♯レミファ♯ファソ♯ソラ♯ラシド・・・と続けて天辺の音まで行ったら同じ様にして高音から低音に戻って来る練習でして、ヴァイオリンの運弓運指の基本練習です。これが出来ないとヴァイオリンは弾けません。

 

余談  バイエルとハノン

バイエルは人の名前です。彼はピアニストで教師でもありました。彼は、ピアノに初めて触れる人の為の入門書を書き、それがバイエル教則本として世界で使われる様になりました。初心者用のピアノ教則本は他にも多々ありますが、此のバイエル教則本が一般的です。

ハノンはピアノの運指の練習曲です。指のタッチの正確さ、音揃え、速さなどを訓練する曲で、音階をひたすら上り下りする曲ばかりです。