式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

170 織部の美

古代遺跡から出土する陶片の中に、織部焼きの様な、歪(ひず)んで、不定形で、凸凹した様な器を見たことがありません。

勿論、完全な形で発掘される陶器は稀で、大概のものは破片でしかないのですけれども、それでも、それらの破片を見る限りでは、表面が滑らかであり、原形は綺麗に成形された器であろうことは容易に想像できます。

中国から出土した物でも、ギリシャから発掘されたものでも、或いは沈没船から引き揚げられた物でも、織部焼きの沓形茶碗の様な「異様」な造形は、その例がないのです。皆どれも、壺や皿の様な丸い物は出来るだけ曲面を丸く成形しようとして磨き上げている跡があり、手びねりや手捏(づく)ねなどの手の跡を残していません。縄文土器でさえ、その文様は大胆で変化に富んでいますが、連続性や対称性を持ち、本体そのものは歪んでいません。

 

織部焼

戦乱が治まり、人々は安心して生活ができる様になりました。戦にじっと耐えていた庶民が、この時を待っていたとばかり爆発的に鬱屈を跳ね返しました。そのエネルギーが、桃山文化の基底となって、活力あふれた華やかな文化が生まれます。しかも、戦国時代を通して広がった「下剋上」は文化面にも影響を及ぼし、伝統や、規制を臆することなく破壊して行っても、顰蹙(ひんしゅく)を買わずに受け入れられる土壌が出来上がっていました。治世のトップは派手好きの秀吉。戦からの解放によって芸術は爆発だ現象が桃山期に起きたのです。

古田重然(ふるた しげなり(古田織部))は、師・千利休の「人の真似をするな」という教えに、「心得たり!」とばかり旧来の遣り方に叛旗を翻して、創造の世界に突進して行ったと思われます。砂場で子供がワクワクしながら土遊びに夢中になる様に、彼も、新しい侘茶のステージに新奇の意匠を提案して行ったのです。世間もそれを求めていました。

ただ、彼は、無闇に珍しさを求めて形や色を変てこにした訳ではありません。彼は彼なりの茶の湯の新しい展開をイメージして、創造して行ったと思われます。

 

織部焼きを読み解く

織部焼きを色別にすると、織部、黒織部織部黒、赤織部、志野織部などが有ります。

用途別で分けると、茶盌(ちゃわん)、向付、鉢、水指、花生、香炉などが有ります。

織部は茶盌などに多く、形も沓(くつ)形などの様に変わった形が多いです。

織部は懐石料理に用いる向付や手鉢などに多く見られ、形も扇面や州浜、把手付きなど変化に富んでいます。

茶盌で言うと、地が肉厚です。口縁部の山の道に上がり下がりがあります。中には口縁部が外反りしている物も有ります。正面と(正面と言っても、傷や絵柄や釉薬の垂れ具合いなどの景色の見立てで、何処を正面と見るかは人それぞれですが、婆なりに正面と思しき辺り)を見て、手に取って、正面をちょっと避けて茶を服そうとする時、その場所の形状が、唇を当てて飲むに丁度良い形になっている様に見えます。飲み易そうです。織部は無分別に器を歪めているのではなく、飲み易さの機能を考えながら、そこはその形でなければならない凹みや出っ張りを演出しているのではないかと、茶を服する立場から考えると見えてきます。美術館にある織部の茶碗そのもので茶を頂く、と言う事は絶対に有り得ないので、これは婆の想像でしかありません。本当かどうかは、さて、飲んでみなければ・・・

織部の向付けについて言えば、成程なあと、緑釉の掛かっている位置に納得してしまいます。

向付はお料理を盛る器です。煮物、焼き物、刺身・・・と向付に盛り付ける訳ですが、盛り付けた状態の向付を想像すると、緑釉は中心部を外れた周辺部にあり、図柄のメインは盛り付けたお料理に隠れる位置にあります。お料理を食べ進んで行く内に、図柄が現れて来て、器に盛った料理を平らげると、全体像が見えるという趣向です。そして、周辺部の緑釉は、料理で言えば緑の添え物です。煮物にさやえんどうを添える、ハンバーグにパセリを添える、焼き魚に青々とした笹の葉を添える、と言うように、あの緑釉はその役割を担っている様に、婆には見えます。

日本料理の盛り付けは日本庭園を造るのと同じ要領で作られます。

神仙思想に基ずく蓬莱山を遠景に、手前に鶴亀を配し、水辺を演出するという、あの手法が、料理の盛り付けに生かされています。言うなれば、向付の小さな器の中に、盆景を作り上げる様なもので、それに相応しい器を作るとなれば、矢張り、織部焼きのあの形が最も似合っているのではないかと、思います。あの形はお料理を引き立てる形です。

美術館で「あヽ、素敵だな」と眺めるのと、使い勝手を想像しながらとでは、器に対する意識が違ってきます。織部焼きはそれなりの用の美を備えています。織部焼きの用の不美は、洋式の丸皿に比べて洗いにくい、収納に場所を取るいう点だけでしょうか。

 

織部焼きの終焉(しゅうえん)

向付に見る織部焼きは、一つ一つ手作りされているように見えますが、実は、登り窯で大量生産されております。木型に粘土を嵌め込み、それを取り出してから乾燥・絵付け・釉薬・焼きと言う工程を経て作り出されています。絵付けは、モチーフのテーマは同じでも一枚一枚それぞれ違う様に描かれており、それで、量産品とは見えないような手作り感を創り出しています。

利休亡き後、天下一の茶の宗匠になった織部の許へ、天下一の宗匠の指導を仰ごうと日本各地の窯元から作品を送ってきます。織部はその一つ一つに細かく助言を与え、指導しました。その指導は、時として人々の理解を超えていたのですが、彼はへんてこな物を面白いと言い、どう見ても下手なのにそれを素晴らしいと褒め讃えましたので、人々も天下一の茶の宗匠がそう言うのだから、きっとそうに違いない、と思いました。興趣をそそるそれらの作品群は、わび茶の広がりと共に需要が増え、盛んに作られました。

織部焼きは一時期大いに持て囃され流行しましたが、織部切腹の後は急速に熱気が下がって行きました。茶の湯向けの作陶に僅かにその命脈を残していたものの、その頃になるとそう酷くは歪んだりしません。織部の弟子の小堀遠州などは、綺麗寂びと言って、利休とも違い、織部とも違い、端正な美しさを追求しています。

何故、急速に織部焼きは廃(すた)れて行ったのか?

恐らく、織部が大坂方への内通の疑いで徳川幕府から切腹を命じられた事で、彼に関係する一切のものから遠ざかり、禍(わざわい)を避けようとした為ではないかと思われます。が、そればかりではありますまい。

織部が没すると、途端に人々は賛美の追従を止めてしまいました。織部が心を砕いた「用の美」も、心底から理解した者は居らず、単に珍奇なもの、流行(はや)り物だという程度の受け止められ方だったのではないかと思います。

  

織部が指導した焼きものは、従来のものとは確かに違っています。けれど、捨てがたい面白さが有ります。

自然に習い、自然を取り込み、自然を写し、できるだけ自然に忠実であろうとすると、一直線や直角、歪みのない曲面などはむしろ幾何学的で不自然に見えて来るから不思議です。

草庵の茶室は田舎家を模したものです。土壁に小さな明り障子、庭にそよぐ風の音を耳にしながらうす暗い中でお茶を点てる・・・そんな雰囲気に包まれた部屋で、唐物道具や大名物(おおめいぶつ)の、少しの欠点も無いかっちりした茶道具を置いて茶の湯をすれば、まるで、藁苞(わらづと)で四角い桝(ます)を包むような事になり、チグハグで、違和感満載の、納まりの悪い茶室になってしまいます。

草庵には草庵の、書院には書院の「場」があり、「場」に合った「美」が有ります。「美」はそれ一つで美しいのではなく、その「場」の全ての物が互いに引き立て合って美しくなるのです。

音楽で言えばハーモニーです。ロココの宮殿に花生けの「破れ袋」を飾っても沈んでしまいます。桂離宮にマイセンの焼き物を置いたら浮いてしまうだけです。

織部の焼き物は力強く土臭いです。土俗的です。自己主張をしています。そうやって草庵の茶室に存在感を与えつつも、それでいて部屋の景色に馴染み、話題性を提供する絶妙な形や色をしています。

 

 

余談  飲み口

お抹茶を頂く時、茶碗を両手で取って左手に載せ、右手で時計回りに2度回します。そうすると茶碗の正面が90°近く左横に回ります。これが普通の頂き方です。

式正織部流では、正面を避けてお茶を喫する所までは同じですが、それを2度行うとは決められていません。要は正面を避ければよい訳で、ちょっと右回りに1回だけ動かしても十分です。というか、1回でオーケーです。服し終わったら元の位置に戻します。

本文内で、飲み口の形について述べましたが、その様な訳で流派によって飲み口の位置が違ってきますので、茶碗の形についての受け取り方は様々かと思われます。

但し、式正織部流では、沓形茶碗や歪み茶碗は用いませんので、婆の考察も的外れかも知れません。式正織部流では碗形(わんなり)や井戸形(いどなり)、天目茶碗を使います。他の形は使いません。茶碗も絵柄の描かれているものよりも無地を格上としています。なので、他流とはその辺りが少し違うかと思います。

無地茶碗を用いる時は正面が分かりません。正面を避けて回すという所作は、供された向きを正面と見なして行うもので、形ばかりのものになります。