式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

172 所作を考える 式正茶湯

昔、昭和の時代に、武原はんという舞の名手が居ました。神韻迫るその舞は、どのような角度から見てもその一瞬一瞬の姿が美しく、完璧な絵になっていました。婆はそれをNHKのテレビで拝見し、はじめて武原はんの素晴らしさを知りました。残念ながら彼女の舞を直に見ることは叶いませんでしたが、テレビの映像は今でも瞼に焼き付いております。

あの武原はんのように、お茶のお点前ができたらと、時々思う事が有ります。

美しい所作(しょさ)、凛とした佇まい、一分の隙も無い完璧さ、優雅にして幽玄を嫋々(じょうじょう)と舞う姿を、点前に映してお茶を点てたならば、これぞ最高のお持て成しではないかと思っては、そこに行き着かない我が身に溜息を吐(つ)いております。

お茶そのものも御馳走ならば、立ち居振る舞いもそれ以上の御馳走。粗野な手で、ぬっと出されたお茶は、それだけで味が半減してしまうものです。

 

折り目正しく流れるように

はん女の舞の動きをそのまま武家茶の場に取り込むには無理があります。

武家茶にそれを求めるならば、武家の作法に則(のっと)り、規矩(きく)を弁(わきま)えながら行う事こそ、はん女に習う道かと存じます。

手巾

たとえば、手巾で手を清める時、右手で手巾を取り、左手に掛けて・・・と言う一連の動きが15秒くらい有ります。が、それをずるずるずるっとのっぺり行うのと、連綿と続けながらも折り目を付けて、手や指の先まで神経を使って動作するのとでは、印象が違ってきます。

茶筅通し(ちゃせんとおし)

茶筅通しにしても同じです。「決まりだからやります」とばかり、形ばかりで済ましてしまう方が多いのですが、茶筅通しを行う意味を心得ているのとでは、自(おの)ずと動きに違いが出て来ます。

茶筅通しは茶筅の穂先を柔軟にし、事故を起こさないようにする為のものです。

茶筌の穂先は非常に細く繊細なので、ちょっとした事でも折れ易いです。それを回避する為に、竹の柔軟性を増す必要性があるのですが、それは湯を通す時間や湯温に左右されます。お茶を点てると言う事は、1ミリにも満たない竹の穂先を硬い鉱物質の茶碗の見込み(茶碗底)に当てて激しく攪拌する事です。

丁寧に茶筅の穂を湯に浸し、穂先を柔らかくしてから、穂先が折れていないか、折れそうなものは無いかと、それを点検するのが茶筅通しの意味です。

一事が万事、一つ一つの理由を知った上で、心を込めた動きをしたいものです。その方がずっと美しく見えます。

 

見せるパフォーマンスと鑑賞される挙措(きょそ)

式正織部流のお稽古を通じて分かった事が有ります。それは、所作の一つ一つに「見られている」「見せている」という意識が何処かに潜んでいる、と言う事です。

当流は公の茶、儀式の場で行う茶の湯です。「茶を点てる」という行為が、衆人が観る中で行われます。パフォーマンスの美しさがご馳走の一つになっているのです。

その一つ、歩く。

式正織部流で歩く時は摺り足で歩きます。摺り足と言うとすぐお能を連想します。お能では女性役と男性役では運ぶ(お能では歩く事を運ぶと言います)歩幅が違いますが、上体を動かさず水面をすべるように歩くのは男女とも同じです。この歩き方は武道に通じています(→後出・武術の動き)。

その一つ、入退出

亭主が茶室に入る最初の一歩は左足から踏み出して敷居を跨ぎます。出る時は右足から敷居を跨いで退出します(これは本勝手の茶室の場合です。逆勝手はその逆で入退出します。)

歩く所作は、昔の歩き方の難波歩きを基本としています。難波歩きと言うのは、右手と右足が連動し、左手と左足が一緒に動く歩き方です。

難波歩きの場合、左足を前に出すと、上体が右向きの半身(はんみ)になり、体の前面をお客様の視線にご覧に入れる様になります。逆に右足を前に出すと、背中側を見せた半身になり、お客様に背を向ける様な形になります。背中を向けられた第一印象より、前を向いた亭主の姿を晒した方が、見ているお客様に良い印象を与えます。 (但し、実際には上体の軸は正面を真っ直ぐ向けたままです。従って持っている物を足の動きにつれて左右に振る事はありません。)

その一つ・弓の所作

柄杓を取る時、弓を引く動きや矢をつがえる動作をします。これも、右手の動きを重視し、お客様から美しく見える様に気を配ります。逆勝手の場合は、お客様に良く見える様に、左手で柄杓を扱います。いずれも手を伸ばしたり肘を曲げたりする時の腕の動きが、お客様から見える様にする為です。そういう訳で、本勝手の時は右手を、逆勝手の時は態々(わざわざ)左手を使うようにします。

その一つ・泣き手の添え手

茶碗に湯を注ぐ時、左手は必ず「泣き手の添え手」という形にして茶碗に手を添えます。

泣き手と言うのは、お能で「泣く(=しおる)」場面がある時、涙がこぼれ落ちない様に手を顔の前に出して涙を受ける仕草をします。その時の手の形を泣き手と言います。涙を受ける手の形を左手で作り、茶碗に添えます。これは、単に添えると言う意味だけではなく、茶碗に敬意を表し、万一おっととっとと粗相があった場合に備えての構えです。

 

武術の動き

婆は若い頃、剣道に興味を持ち、全日本剣道選手権大会を何度か見に行ったことが有ります。結婚後は全く足が遠のいてしまいましたが、最近NHKで『明鏡止水』という番組で古武術を取り上げている事を知り、武家茶の視点から大いに関心を持って見るようになりました。

古武術の武道家が道場の板の間にすっくと立ちます。両足はやや開き、真っ直ぐ立っているけれども硬直した立ち姿では無く、膝はゆるゆるとして千変万化し得る静けさを湛えています。自然体です。重心は丹田、臍(へそ)の下、骨盤の中心にあります。歩けば、左足、右足の足運びに影響される事なく、重心の位置を結ぶ動線は上下左右の揺らぎも無く、一直線に描かれていきます。足は摺り足。踵は上げず、頭頂の上下動はありません。勿論打刀や組手の時は頭の位置は劇的に変化しますが、体全体の重心と姿勢のバランスは崩れていません。

彼等は座る時も立つ時も、上半身を前傾させず、上体を垂直に難なく沈め、難なく上昇させます。余程体幹を作り上げていないと、あの動きは出来ません。

式正織部流の立ち居振る舞いの基本を考える時、侍の身体能力を思わずにはいられません。

侍は体中の筋肉を鍛えに鍛えていながら、決してボディービルダーの様な硬直した筋肉では無く、柔らかく脱力しており、瞬時の変化に対応する能力を備えていたと思われます。侍達は馬を走らせ、弓、槍、刀、体術、鉄砲、など何でも有りの戦場を生き抜いてきました。

そういう彼等が甲冑を脱ぎ、衣服を改めて茶の湯をする時、どのような動きをしていたのか、を考えた時、矢張り思うのは、武道の達人の動きをしていたのではないかと、思われるのです。

 

拳骨と平伏

武士の作法と言っても、時代によって変化しています。

ブログを書き始めた当初、「ご挨拶は拳骨で」と申しました。

拳骨の挨拶は鎌倉時代から江戸時代初期までです。戦闘が絶え間なく続き、何時でも臨戦態勢でなければならない時代の、それは挨拶でした。

支配体制が確立し、世の中が平和になって来ると、ご挨拶は絶対臣従を表す平伏がご挨拶の主流になります。膝前に両手を揃えて深々とお辞儀をする、あの小笠原流のご挨拶がそれです。「江戸城中に於いての武士の正式のご挨拶は小笠原流です。拳骨なんてとんでもない」と仰った方がいらっしゃいましたが、江戸中期以降のご挨拶はそれが正解です。が、織部の時代は大坂城が炎上する様な戦国残照の頃。まだまだ拳骨の挨拶が交わされていました。

 

御成 (おなり)

御成と言うのは、将軍の様に身分の高い人が家臣の家を訪問する事を言います。

御成は大変なイベントでした。御成りは将軍からの信任が篤いと言う証明でしたので、それ受ける当主は一世一代の名誉とばかり、新しく御成御殿を建てました。将軍をはじめ重臣から警護の侍、仕丁(じちょう)など随員達併せて100~200人にも及ぶ人数を迎え入れるのは、とても負担が大きいものでした。が、あわよくばそれを機に更に高い地位に登れるかもしれないという期待や、莫大な権益を手にいれられるかも・・・などと言う皮算用もあり、大層な出費を伴うにもかかわらず、家臣は喜んで御成りを受けたのです。この時の饗応の御膳を椀飯振舞(おうばんぶるまい)(→後の大盤振舞)と言います。これには超豪華なお土産も付きます。

室町幕府第4代将軍・足利義持は何回も御成りをしています。その時、財貨・宝物が山ほど手土産に贈られ、実はこれが将軍様の本当の狙いなのでした。

足利義教(あしかがよしのり)が暗殺された嘉吉の乱は、御成りの時に起こりました。

第8代将軍・足利義政はいつも貧乏でした。彼はお金がないので東山山荘にあった茶器などを売ったり(これが堺の豪商などの手に渡って大名物と称されるようになりました)、借金をしたりしていました。そこで、目を付けたのが御成りです。御成りをすれば、お土産にかなりの財物が貰えます。1450年代の中頃には、義政は頻繁に御成をする様になりました。彼は「毎日御成をしてもかまわない」と言っていたそうです。

安土桃山時代信長秀吉の頃は、家臣の屋敷に御成をするのではなく、家臣を自分の城に呼び寄せて臣従させるようになり、御成はすっかり影を潜めてしまいました。

 

徳川将軍の御成

式正の武家茶は、数寄屋書院で行われる御成の茶の湯をもって完成したと言われています。

古田織部が創始した式正の茶の湯は、徳川秀忠や家光が、加賀前田藩上屋敷や薩摩の島津藩上屋敷への数寄屋御成した時の式次第と共に、武家の公式の儀式の茶の湯となり、御成の中心的な位置を占める様になりました。

残念ながら、秀忠の数寄屋御成の時は既に織部はこの世におりませんでした。小堀遠州が代わりに仕切ったそうです。

因みに、前田家も島津家も、御成の打診を受けてから3年ぐらい掛けて準備したようです。御成御殿を造営し、およそ200人分以上の饗応の膳の食材などを用意し、その他諸々の経費をかけて、今で言えば数百億円~1千億円くらいかかったとか。

 

 

余談  嘉吉の乱

嘉吉の乱と言うのは、1441年(嘉吉元年6月24日)、「万人恐怖」と言われた室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかが よしのり)が、幕臣の長老・赤松満祐(あかまつ みつすけ)の御成のお誘いを受けて、赤松邸にお渡りになった時に、赤松氏に暗殺されてしまった事件です。死者重軽傷者多数で、一大騒動になりましたが、義教殺害に溜飲を下げる者も多く、幕府の対応は緩慢でした。

  

余談  本勝手  逆勝手

本勝手は、亭主が点前座に座った時、亭主の右側にお客様が座る様に設(しつら)えられている茶室の事を言います。通常、本勝手は床の間を正面に見て、左側に点前座、右側が客座になっています。(燕庵や如庵の様に上記とは逆転し、床の間正面に対して客座が左側、点前座が右側になっています。が、亭主は床の間に対して背を向けて座りますので、亭主から見れば客は亭主の右側に座る事となり、これも本勝手の茶室です。)

逆勝手は、亭主が点前座に座った時、亭主の左側にお客様が座る様に設えられた茶室の事を言います。逆勝手の茶室は殆ど見かけません。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に多くの本やネット情報を参考にしました。

『没後400年  古田織部展』 編集NHKプロモーション 平成26年12月30日発行

『秀吉・織部と上田宗箇展』 編集広島県立美術館 平成12年4月7日発行

徳川美術館かろやかツイート』

徳川美術館 「徳川将軍の御成り」  2 元和9年御成(二代将軍秀忠)』

武家茶道とは』 壷中庵宗永 堀内ギシオ

『資料から見た御成と池遺構出土資料』 堀内秀樹

寛永7年島津邸御成における御殿の構成と式次第』 藤川昌樹

徳川将軍家の茶湯と大名茶人個-佛教大学』仏教大学大学院紀要 第35号(2007年3月)

ウィキペディア』 『刀剣ワールド』 『ジャパンナレッジ国史大辞典、日本大百科全書、改訂版世界大百科事典』 等々。

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございました。