式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

174 茶史(2) 一向一揆~本能寺

茶湯愛好家に武将が多い事もあって、茶史は戦史と重なります。堺の豪商の茶人達も、商機を求めて武将達に接近し、その名を戦史に残していきます。

茶史(2)では、千利休織田信長に鉄砲玉を送った時から、松永久秀荒木村重の謀反へと進み、明智光秀本能寺の変迄を扱います。

(参照:「式正織部流「茶の湯」の世界」のブログ№150 「信長年表6 本能寺の変」2022.06.28up、同じく№152「本能寺に消えた茶道具」2022.07.17up))

 

                茶    史

 織部が直に関係した件は黒字、茶史などその他に関しては青字で記します。

 

1575(天正3)             千宗易、信長に鉄砲玉を送り感状を賜う。

この頃信長は、彼を取り巻く包囲網と戦っていた。5年前の1570(元亀1)年には、姉川の合戦(織田・徳川 vs 浅井・朝倉)と第一次伊勢長島一向一揆。翌年1571(元亀2)年比叡山焼き打ち。1572(元亀3)年三方ヶ原の戦いへの援軍。1573(天正1)年、浅井・朝倉を討滅し、将軍・義昭と槙島城で戦い室町幕府を倒す。更に第二次長島一向一向一揆討伐軍を発し、又、三好一族を討滅。1574(天正2)年、第三次伊勢長島一向一揆討伐をし、信者2万余の殲滅戦を展開した。そして、当年1575(天正3)年、越前・加賀一向一揆討伐と、武田軍との長篠の戦いがあった。

連戦に次ぐ連戦の信長、鉄砲玉は幾らあっても足りなかった。千宗易からの鉄砲玉の差し入れは、何よりも有難かったに違いない。

 

1576(天正4)                       古田重然(ふるたしげなり)、代官となる。

古田重然(=織部)、山城国乙訓郡(おとくにぐん)上久世荘(かみくぜのしょう)(現京都市南区)の代官となる。上久世荘は総面積60町でかつては皇室領や公家領など細かく入り組んで分かれていた。が、鎌倉時代は北条氏の所領になった。足利尊氏はそれを東寺に寄進。以後、東寺の経済的基盤となって戦国時代まで続いていた。

 

1577(天正5.08)             秀吉、津田宗及の口切茶会に招かれる。

1577.11.19(天正5.10.10) 松永久秀信貴山城で自害す

松永久秀武野紹鴎の弟子である。久秀は高名な茶人で、数多くの名物茶道具を持っていた。信長は久秀が持っていた平蜘蛛の茶釜が欲しくて久秀の居城・信貴山城を攻めたが、久秀は平蜘蛛の釜に爆薬を詰め、釜を懐に抱いて城もろとも爆破してしまった・・・という話がある。

戦国武将きっての謀反常習犯であり、梟雄(きょうゆう)として知られる松永弾正久秀は、元は三好長慶(みよしながよし)重臣だった。しかし、三好三人衆と対立、東大寺の寺域を戦場にして戦う事になる。久秀は戦いを前にして奈良に住む松屋久政(塗師・茶人松屋会記」の著者)の茶室・珠光座敷が危険にさらされない様にと、解体して別の場所に避難させて守った。この時、東大寺大仏殿が焼失、大仏も首が落ちてしまった。

信長が足利義昭を奉戴した時、久秀は大名物の茶入『九十九髪茄子(つくもかみなす)と名刀『薬研藤四郎吉光(やげんとおしろうよしみつ)を献上して信長に降伏。その後、紆余曲折(うよきょくせつ)があり信長と敵対し、久秀居城・信貴山城が落城、久秀も自害した。上記に書いた落城の際の爆死物語は広く信じられているが、後世における全くの作り話である。彼は落城の際まともに自害し、首は安土に届けられ、遺体は筒井順慶が達磨寺に埋葬した。謀反常習犯として日本三大悪人と悪名高いが、彼の行動を具(つぶさ)に見て行くと、三好一族の内紛と時流に翻弄されて流され、生き残りを賭けた処世術だったように見える。

1577(天正5.12)            秀吉、信長より茶釜を拝領する。

毛利方だった播磨上月城を、秀吉は尼子再興軍と共に攻略して落す(上月城の戦い)。その功により茶釜を拝領した。上月城を制した秀吉はそこに尼子勝久を入れたが、信長の方針はあくまで三木城攻めであり、その為、上月城はその後捨て置かれた。その隙に毛利が再び上月城を攻め、尼子から奪い取った。城主尼子勝久と一族は自刃、尼子の軍師・山中幸盛(鹿之介)は毛利によって殺害された。

 

1578(天正6.01)         織田信忠の茶道具披露の茶会が開かれる。

場所 : 安土城域の万見仙千代(重元)(まんみ/まみ せんちよ(しげもと)

1578(天正6.07)           荒木村重、三木城戦の戦線を離脱、有岡城に帰城。

1578(天正6.07)            古田重然、使い番を務め手柄を立てる。

秀吉が播磨攻めで三木城を攻めていた時、援軍としてやってきた織田信忠が播磨の神吉城(かんきじょう)(現兵庫県加古川市)を攻めた。秀吉は三木城攻めをひとまず置いて信忠の配下に組み入れられる。神吉城は加古川河口近くにあり海に近く、毛利が三木城への水上補給路として使うには恰好な場所を占めている。古田重然はこの戦いで使い番(本陣の命令を伝え、戦場の状況を報告する役目)として手柄を立てた。

1578(天正6.09)         信長、堺を訪問の際、津田宗及の屋敷を訪れる。

信長は関白・近衛前久(このえ さきひさ)をはじめ松井友閑、細川幽斎など多数の家臣を引き連れて宗及の下へ寄った。

1578(天正6.10)             播磨有岡城主・荒木村重謀叛。

荒木村重は利休十哲の一人。信長が茶湯御政道の施策の中で茶湯をしても宜しいとの許可を与えた最初の人物であり、それ程に優れた茶人であった。

『十六世紀 茶の湯に見るキリシタン受容の構図 前田秀一』によると、荒木村重が茶湯の許可を得たのは1577.04.30(天正5.04.13)(年月日順)であった。因みに二番目に許可を得たのは高山右近で1578.01.13(天正5.12.06)、三番目に許しを得たのは明智光秀で1578.02.17(天正6.01.11)、四番目が羽柴秀吉で1578.11.14(天正6.10.15)、牧村長兵衛(利貞)は1580.01.30(天正8.01.14)との事である。

荒木村重有岡城は、秀吉の三木城兵糧攻め包囲網の重要な一画を占めていた。その荒木村重が信長に叛旗を翻したので厳重な包囲網に蟻の一穴が開いてしまった。驚いた信長は糾問の使者をとして明智光秀、松井友閑、万見重元を遣(つか)わし説得した。一時は恭順しようとしたが、中川清秀に反対されて再び城に引き籠ってしまった。

高山右近は村重を翻意させようと村重に人質を差し出して説得したが、彼の意志を翻す事が出来なかった。村重に差し出した人質は、右近が城と家臣と領地を捨て、裸一貫になった事によって返還された。秀吉は小寺孝高(こでらよしたか(=黒田官兵衛))を村重説得に有岡城へ向かわせたが、逆に村重によって捕えられ幽閉されてしまった

1578.12.07(天正6.11.09) 信長、摂津に出陣。

1578(天正6.11)                   古田重然、村重に従った中川清秀を引き戻す。

重然は、信長に背(そむ)き村重側についた義兄の中川清秀を説得し、村重から離反させ、織田側に引き戻す事に成功した。結局、中川清秀荒木村重を謀反の状態に追いやったまま自分は信長側に戻ったのである。

1578.12.12(天正6.11.14) 織田軍と村重先鋒隊と激突

1578.12.13(天正6.11.15) 秀吉、三木城攻城中、津田宗及を迎えて朝の茶会を開く。この時、信長より拝領した茶釜と牧谿の軸が掛けられる。

 

1579(天正7)                 小堀作助(=政一=遠州)、近江国小堀村にて出生

1579.09.22(天正7.09.02) 荒木村重、夜陰に紛れ有岡城から尼崎城へ移る。

この移動は、毛利の援兵が中々来ず、局面打開の為嫡男・村次の居城・尼崎城へ移り、港の利を生かして西国の大名達に兵糧や援軍の救援要請を行う為のものであった。村重は数人の側近と共に、援助要請の手土産として葉茶壷など名物茶道具を持ち出した。織田方が村重脱出を察知、これを指して「村重が茶道具を持って逃亡した」と誤情報を流したため、村重側の将兵が動揺、数々の調略に遭い内部崩壊が始まった。村重留守中の有岡城を預かっていた荒木久左衛門(池田知正)は、開城して逃亡してしまった。

1579.09.29(天正7.09.09) 平田砦の戦い(三木城の戦いの一部)

籠城戦の三木城の食糧が尽き、餓死者が出る様になった。それを救援すべく毛利の大将・生石中務少輔が、夜陰に乗じて雑賀衆を率い、三木城を包囲している織田方の平田砦を急襲、大混乱が生じた。この時、古田馬之助が討死している。(古田馬之助は古田重則と思われる。重則の嫡嗣子・古田重勝古田重然(織部)の従兄弟に当たる。重勝は重然と間違えられて「古田織部重勝である」と一時期言われていた。が、重勝は重然ではない。従五位下古田兵部少輔重勝であり、松坂藩藩主である。なお、大坂の陣では、重勝流古田は東西二手に分かれて戦っている。織部重勝流古田は親戚であり、もしかしたらこの事が、織部内通の嫌疑の一因になっているかも知れない。あくまで推測の域を出ないが・・・)

1579.12.30(天正7.12.13) 有岡城内の婦女子122名が処刑された。

 

1580.01.02(天正7.12.16) 村重一族と有岡城重臣家族36名、六条河原で斬首。

縁者も徹底的に探し出されて処刑された。

村重はそれでも嫡男・村次と共にその後も戦い続けた(花隈城の戦い)。地元の一向宗徒も村重に加勢、かなり互角の戦いをしている。翌年の1580(天正8.07)、花隈城は池田恒興軍に攻められついに開城。村重は毛利へ亡命した。彼は自虐的に「道糞(どうふん)と名乗り隠棲したが、その後秀吉から名を「道薫(どうくん)と改める様に薦(すす)められた。道薫は茶人として生き、堺で没した。享年52

(絵師の岩佐又兵衛荒木村重の息子である。乳母が乳呑児の又兵衛を救い出し、石山本願寺に預けた。)

1580(天正8.02)         秀吉、堺の茶人を近江長浜の城に招いて茶会をする。

この時招かれた客は、津田宗及、牧村長兵衛(政吉)、銭屋宗訥(ぜにや/せんや そうとつ)などなどである。

 

1581.06.05(天正9.05.04) 秀吉、松井友閑を連れて宗及を訪ねる

この時、宗及は同席の豪商達が持参した名物茶器を飾って披露、また、天王寺屋(宗及)所蔵の茶器などを披露して秀吉を歓待した。

1581.07.12(天正9.06.12) 津田宗及、姫路城を訪ねる。

姫路城は黒田孝高(官兵衛)の居城だったが、羽柴秀吉が中国攻めにやってきた時、孝高は秀吉の拠点として姫路城を提供していた。

1581.09.14(天正9.08.17) 信長、高野山の僧侶数百人を殺害した。

荒木村重を匿ったと言う嫌疑で高野山に探索に来た信長の家臣を、高野山の僧が殺してしまった。怒った信長は、高野山の僧侶数百人を殺害した。

1581(天正9.12)                  秀吉、軍功により、名物の茶道具を拝領する。

この年、秀吉は鳥取城を落城させた。信長大いに喜び、秀吉に茶道具を下賜する。賜った物は、お軸、花入れ、朝倉肩衝、天目茶碗などなど12種の名物だったと言う。

 

1582(天正10.05)          神谷宗湛と島井宗室が上洛、安土城で信長に謁見する。

神谷宗湛島井宗室(宗叱)の二人は博多の豪商である。当時、九州では大友宗麟島津義久が九州覇権を賭けて争っていた。大友宗麟は日向侵攻を開始して南下を始めたが、耳川の戦い(現宮崎県木城町)で大友軍が敗北、一気に没落した。島津は大友を押し戻すと肥後・肥前・豊後などを掌中に収めて行った。この様な情勢を見て、神谷宗湛と島井宗室は貿易の権益が島津に奪われるのではないかとの危機感を持ち、信長に庇護を求めに会いに来た。この時、信長は島井宗室に、宗室が持っていた『楢柴肩衝(ならしばかたつき(→茶入れ))を譲ることを条件に、庇護を約束した。

1582.03.03(天正10.02.09) 信長、明智光秀に四国出陣を命ず。

1582.06.04(天正10.05.14) 信長、光秀の軍務を解き、家康饗応役に任ずる。

1582.06.05~07(天正10.05.15~17) 光秀、家康の饗応役を務める。

1582.06.07(天正10.05.17) 秀吉から信長へ毛利攻めの援軍要請が届く。

1582.06.07(天正10.05.17) 信長、光秀の饗応役を解き、光秀に中国出陣を命ず。

光秀、同日直ちに坂本城へ帰り、出陣準備を始める。

1582.06.09(天正10.05.19) 信長、摠見寺(そうけんじ)能楽の接待をする。

摠見寺は安土城内にある禅宗の寺。信長はこの摠見寺に家康ら一行を招き能楽の会を催した。この時観能した者は、徳川家康近衛前久穴山梅雪、楠長譜(=楠木正虎(楠木正成流子孫)(信長と秀吉の右筆))、長雲、松井友閑。演じたのは幸若太夫と梅若太夫

1582.06.10(天正10.05.20) 信長、家康饗応役を新たに任ずる。

新たに任じられたのは丹羽長秀堀秀政、長谷川秀一、菅谷長頼の四名。

1582.06.11(天正10.05.21) 徳川家康安土城で接待を受ける。

この年の2月、信長は甲州征伐に出陣、これに徳川、北条が呼応して武田氏を攻めた。3月11日、敗戦した勝頼は、妻子や家臣と共に天目山で自害した。信長は、武田討伐に大いに戦功有りとして家康に駿河国を与えた。信長は家康を安土に招き、家康は駿河拝領のお礼を言上すべく信長の安土に行き、大歓迎を受ける。

1582.06.16(天正10.05.26) 明智光秀、中国出陣の為坂本城を出発

1582.06.17(天正10.05.27) 明智光秀愛宕山へ参篭。

1582.06.18(天正10.05.28) 明智光秀愛宕山威徳院で連歌の会を催す。

光秀が愛宕山威徳院で連歌の会を開いたのは、5月24日という説と5月27日と言う説とここに記した28日と言う説があります。以下の8句は、その時、愛宕神社で詠まれた連歌の最初の方の句です。(愛宕百韻 抜粋)

1    ときは今天が下しる五月哉           光秀   (明智光秀)

2               水上まさる庭の夏山                 行祐   (威徳院行祐)(威徳院住職)

3  花落つる池の流れをせきとめて       紹巴   (じょうは)(里村紹巴)(連歌師)

4             風に霞を吹き送るくれ           宥源   (ゆうげん)(僧侶)

5  春も猶鐘のひびきや冴えぬらん       昌叱   (しょうしつ)(紹巴の娘婿)  

6             かたしく袖は有明の霜           心前   (しんぜん)(紹巴の弟子・僧侶)

7 うらがれになりぬる草の枕して         兼如   (連歌師)

8            聞きなれにたる野辺の松虫      行澄   (東行澄)(光秀家臣)

以下百句まで続く

 

1582.06.19(天正10.05.29) 信長上洛。信長秘蔵の茶道具を本能寺に持参する。

信長上洛に伴い神谷宗湛と島井宗室の2人、京都へ移動し、本能寺に宿泊する。

1582.06.19(天正10.05.29) 家康一行、堺見物。

信長の勧めにより、家康たち一行は堺へ見物に行く。6月1日には堺の豪商の茶会に招待される。

1582.06.20(天正10.05.30) 信長が滞在する本能寺に、表敬訪問の人々が押し寄せる。

1582.06.21(天正10.06.01) 信長の上洛を祝い、茶器披露の茶事が開かれる。

准大臣・勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)権大納言甘露寺経元(かんろじつねもと)が、正親町(おおぎまち)天皇誠仁(さねひと)親王からの上洛の祝意を表す勅使として本能寺に来駕(らいが)する。

畿内の戦を鎮め、武田晴信を平らげた信長の武威を寿(ことほ)ぎ、朝廷は信長に三職推任(太政大臣・関白・征夷大将軍)のいずれかを望みのままに官位を与える積りでいた。その為、1か月前の5月に関白・近衛前久(このえさきひさ)は関白を辞任していた。その近衛前久もこの日、本能寺へやって来て、およそ40名の公家や僧侶達も集まった。安土より持参した名物の茶道具披露を兼ねた茶事が行われ、茶事が終わると酒宴になった。

妙覚寺に居た信忠もやって来て、親子で酒を酌み交わした。信忠が帰った後、信長は本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ(本因坊の始祖))鹿塩利賢の対局を観戦。就寝は深夜。神谷宗湛、島井宗室の二人はそのまま本能寺に宿泊。

1582.06.22(天正10.06.02) 光秀、亀山城を出発して未明に桂川に到着。

光秀は兵達に足半(あしなか)の草履に新しく履き替える様に指示、火縄の火を付けさせるなど全軍に戦闘準備をするよう命じ、明智軍13,000渡河。本能寺の警備20~160人くらい(諸説あり)

早暁。明智軍は本能寺を包囲。寺の門は開いており、兵達は難なく侵入できたと言われている。騒々しい物音に驚いた小姓達はそれが明智光秀の謀反と知り、信長に注進。戦闘が始まった。

寺には当然大勢の僧侶達もいれば、信長に仕える女房衆も居た。また、公家や神谷宗湛や島井宗室の様な町人も居た。彼等は戦闘に巻き込まれて大混乱に陥ってしまった。寺に火が掛けられ燃え盛る中、神谷宗湛は信長が茶会に持参した牧谿の『遠浦帰帆図』を、島井宗室は空海の『千字文』の軸を持って脱出した。他の茶道具類の殆どは焼失してしまった。奇跡的に焼け跡から救い出されたのが二つの茶入である。九十九髪茄子(つくもかみなす)と背高肩衝(せいたかかたつき)がそれである。なお、僧侶や女房達は逃げおおせる事が出来た。

信忠は妙覚寺を宿所としていたが、本能寺が光秀に襲われたと知り、本能寺に駆けつけようとしたが家臣に押し止められ、防備が堅い新造二条御所へ移ることにした。その二条御所は信長が誠仁親王のために建てた御所であった。当然、二条新御所には誠仁親王がお住まいになっておられた。信忠が軍を率いて移って来たことによって親王は此の戦に巻き込まれてしまった。

本能寺を落した光秀軍は信忠を討つ為、二条新御所を攻囲した。信忠は光秀と交渉し、誠仁親王や従者や女房達を無事に逃がした上で戦った。

信長享年49   信忠享年26

 

 

余談  茶湯と茶の湯 「の」の扱い

日本語では時々「」の字を書かずに「」を付け足して読む事があります。

例えば、大和国を「やまとくに」や「やまとこく」とは読まずに、「やまとくに」と読みます。「山上憶良」を「やまうえおくら」とは読まずに「やまうえおくら」と読みます。茶人の「山上宗二」も「やまうえ そうじ」と読みます。「やまうえそうじ」or「やまがみそうじ」ではありません。

大和国と同様、武蔵国尾張国駿河国など国名には「の」が書いて無くとも読む時は「の」を付けて読むのが正しい読み方です。この様に「の」がなくても「の」を付けて読む例が日本語には沢山あります。特に昔の言葉にはそれが多いです。

「茶湯」と「茶の湯」も同じです。「茶湯」と書いて「茶湯」と読みます。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

『戦国合戦大辞典(6)京都・兵庫。岡山』

十六世紀 茶の湯に見るキリシタン受容の構図 前田俊一

戦国武将列伝wiki-FC2 古田重然

寛政重修諸家譜 巻938 徳川幕府 国立国会図書館マイクロフィルムより

『宗湛日記』の世界 --神谷宗湛と茶の湯 小澤富夫

本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相 井上慶雪

K`sBookshelf 資料本能寺の変 愛宕百韻

本能寺の変の前夜、信長はどうしていた? 小和田哲男

「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan」

この外に「ウィキペディア」「刀剣ワールド」「コトバンク」「地図」「地域の出している情報」などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございます。